DesertWind・ニュースレター June, 2023
『多くを赦された者は多くを愛する』(ルカの福音書7:36-50)
LVJCC 牧師:鶴田健次
今回はルカの福音書7章36-50節から『罪の女の赦し』の物語を通して考えてみたいと思います。この物語はルカの福音書にだけ出てくるイエス様のお話ですが、ルカの福音書の一つの特徴は『愛』です。
もちろん、どの福音書も愛を語りますが、ルカは、特に、この世から疎外され、人から相手にしてもらえない人間がイエス様の愛によって神のもとに招かれている、そういう愛について語っています。
① 人の心を受け取られるキリスト
乞食、犯罪人、売春婦、収税人など、聖書には、このように世の中では落ちこぼれと言われる人々が登場します。彼らは苦しんでいましたが、パリサイ人たちは決して彼らを憐れんだり、彼らに救いの手を差し伸べたりしませんでした。それどころか彼らを『罪人』と呼んでさげすみ、彼らの心の傷に塩をすり込むようなことをしていました。
そんなパリサイ人シモンとイエス様が食卓についておられると、突然、ある札付きの売春婦がイエス様に会うためにやって来ました。怪訝な顔をする人々をよそに、彼女は脇目もふらずイエス様に近づき、泣きながら足下にひざまずきます。そして、涙でイエス様の足を濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、心を込めて足に口づけし、その足に高価な香油を塗りました。
この女性は、以前にイエス様との出会いがあったのでしょう。イエス様からありのままの自分を受け入れてもらい、また醜い自分の罪を赦してもらい、湧き上がる感謝と喜びが力となって、その罪の生活から立ち直ることができたのです。イエス様に愛され、赦され、受け入れられるという経験は、人の人生を変えます。
② 人は誰でも霊的な負債がある
ここでイエス様は、短くて、簡単なたとえ話をされます。500デナリと50デナリの借金を帳消しにして貰った人の話です。今で言えば、5万ドルの借金と5千ドルの借金です。当然、5千ドルよりも5万ドルの借金を帳消しにしてもらった人の方が金貸しに対する感謝の気持ちも大きいでしょう。
イエス様から聞かれると、シモンもそのように答えました。しかし彼は、そのことが自分にとってどんな意味を持つのかを知りませんでした。
ここで言われている500デナリと50デナリの借金が象徴するのは、自分の中にある罪の自覚の大きさです。またここに登場する金貸しは、どんなに多額の借金でも帳消しにして下さる神様のことです。つまり、人は誰でも神様に対して罪という負債を負っており、その罪を認めて神様に赦しを乞うなら、神様はその罪を赦して下さるということです。
しかし、その罪の大きさは、本来すべての人が同じであるのに、人によってその大きさの自覚が違うのです。自分の罪の大きさに気付き、その罪を赦して下さる神様の愛を知ることが出来たのは、パリサイ人のシモンではなく、売春婦でした。
③ 多くを赦された者は多くを愛する
イエス様にとって、この女は売春婦というよりも、神の救いに感謝する人でした。イエス様がご覧になれば、売春婦だろうが、パリサイ人だろうが、神様の前に罪という負債を持った者であることに変わりありません。
もし、神様がその償いを要求されれば、売春婦も、パリサイ人も、永遠の裁きを免れることはできないのです。
しかし、気前のいい金貸しに象徴される神様は、その途方もない愛と憐れみをもって二人の罪を赦して下さるのですが、赦された二人の赦された罪に対する自覚が大きく違っていました。そして、その違いがイエス様に対する二人の態度に現われています。
イエス様を食事に招いたシモンの態度は冷淡でした。一方、この女は、イエス様を愛して止まない行動を取りました。シモンは、この女は罪深く、自分は正しいと思っていましたが、真理は逆で、女の方が正しいことを行ない、シモンは愛に欠けることをしていたのです。この違いは何を表しているのでしょうか。
イエス様はこう言われます。「この女は多くを愛したから、その多くの罪は赦されているのである。少しだけ赦された者は、少しだけしか愛さない」と。 あなたは、どれだけイエス様を愛しておられますか?
『人生のミッションを求めて』
証し:大滝 光恵
静岡県の港町、清水次郎長で知られた清水市で生まれ育った私は、4歳の時にヤクザだった父親が30歳の時事故で亡くなった後、母親が28歳から私と妹を一人で育ててくれました。
父親の事はほとんど覚えていませんが、唯一、体全身の入れ墨が怖かった事と、酒で酔っ払い暴れたので近所の人が警察を呼んだ事ぐらいしか記憶にありません。
清水港のすぐ近くで富士山を毎日ながめて過ごし、外国船が入ると外国人の顔を時々見かけていたせいか、10歳頃から外国人と海外に興味を持ち始めていました。
何年か前に実家に戻った時に、残っていた12歳の時に書いた文集にアメリカに住む事が書いてあったのを見て驚きました。書いたことも覚えていなかったのですが、その文集を見つけた時は、既にアメリカに移住してから20年ほど経っていました。
高校は、宗教に興味はなかったのですが、多くの友人が行くことになったカソリック学校に通いました。週に1回は聖書のクラスがあり、朝の朝礼では賛美歌をみんなで歌っていました。
嫌いなクラスの時は保健室や屋上に行ってさぼったこともありましたが、聖書のクラスでは多少興味を持ったのか欠席せず出席しました。卒業後は、飽きっぽい性格な為、あらゆる仕事をしました。会社の総務、経理から始まって、役員秘書、パーソナルアシスタント、営業、コンサルティング等々、異例なところで私立探偵も経験しました。
私の母は、20代後半から、父が残した借金を抱え、一度も再婚せずにシングルマザーとして生きて来たせいか、とても独立心が強く、私が海外に住むと決めた時には心配しながらも、応援し、サポートもしてくれました。
私は、日本での色々なルールや枠にはめられる事に抵抗感があったので、何度か行ったハワイでの長期滞在がきっかけとなって、アメリカに移住することになりました。
アメリカに来てからも相変わらずマイペースでフリーランスで仕事をしたり企業でも働きましたが、上司から筋の通っていないことを言われたり侮辱された時は黙っていられず、言い返して口喧嘩になり、女性の上司が泣いてしまった事ありました。
歳を重ねる毎に段々落ち着きましたが、若い頃は父親似の短気と忍耐力に欠ける自分の短所を自覚し反省し、そんな時は信じてはいなかったにもかかわらず、神様に話しかけていた事はありました。
何十年も住んだロサンゼルスでは、日系社会も大きく多くの友人・知人ができましたが、一度も日本人のクリスチャンに会ったことがなく(友人が言わなかっただけかも?)一度も教会に行った事もありませんでした。
2年前にロサンゼルスからラスベガスに引っ越してきた時に、ネットワークを広げる為に日本人教会に行こうと決めていた際に、友人と日本食料品を売る場所として日本人教会のパーキングエリアをお借りしてイベントを行なったことがきっかけとなり、2021年の5月頃よりラスベガスに引っ越してすぐというタイミングで教会に通う事になりました。
高校生の時に使った聖書は30年以上も開かないまま、でもずっと捨てずに保管してあり、久しぶりに開いてみたら、たくさんハイライトしてあったのを見ました。
それでも聖書についてしっかり学ぶ事を延ばし続け、聖書クラスを薦められながらも始めるまでに1年半もかかりました。飽きっぽい私がキリスト教会に来るのを継続できていることは不思議です。これは神様が私を選択してくださったからなのでしょうか?
クリスチャンの人達と関わり合いながら自分の中で神様との距離が近くなる事を望む気持ちに少しずつ変化していきました。
自分が歳をとっていく事により、神様との距離が開きすぎている自分に対して不安が募ると同時に少し焦りを感じ、鶴田牧師に初心者クラスを受けたいと申し出て指導して頂き、クラスが終わった最初の日曜日が偶然にもイースターであり、その特別な日に洗礼を受ける事ができました。
洗礼の時に鶴田牧師より御言葉が書かれた額を頂きました。” 神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。” ヨハネ3章16節
なかなか聖書通読は進みませんが、毎朝この額の御言葉を見て心にとめています。最近では神様を信じない友人と討論した時、自分が変化したことに気がつきました。
洗礼後、まだまだ実感がありませんが、今後、神様との距離を縮めて自分がこの世になぜ生まれて来たのか、何が私のミッションなのか、長い間の疑問が解明できればと願っています。
編集室・気まま便り
1978年6月、日中国交正常化になった時、指揮者の小澤征爾が長年の願いであった中国での演奏を実現したそうです。歯科医の父が戦争中満州に渡り、征爾はその満州で生まれ、5才で日本に帰国しました。
それもあり中国への思いが深く、文化大革命の最中は西洋音楽の演奏は禁じられていましたが、それが終わった1976年に小澤が北京を訪れると、北京交響楽団は崩壊寸前だったのを2年かけて準備し、ようやく演奏が実現したそうです。「音楽に国境は無い」という思いを示した姿は、多くの人々に感動と勇気を与えました。
演奏後小澤が感激の涙を流している姿から「真実の愛はすべてを超えて伝わる」と思いました。 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 聖霊をけがす罪とはどんなものですか?
A「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」(マルコ3:28-29)
律法学者達は、うわさに聞いていたイエス様の御業、特に悪霊に取り付かれ、苦しんでいる人々から悪霊を追い払う御業を検証するためにやって来ました。
検証の結果、律法学者達は、「イエスは、ベルゼブルに取りつかれている。悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と言いました。(ベルゼブルとは悪霊のかしらサタンの名称)
そこでイエス様は、サタンの力はサタンの力によって追い払われるという発言に対し、この愚かな結論を下した律法学者達を聖霊をけがす罪を犯したと非難し、その罪はいつまでも赦されないと言われたのです。なぜなら、彼らは勝手な判断をもって、聖霊の働きを悪霊の行為としたからです。
どんな罪も、信仰による悔い改めによって神の赦しが与えられるというのが聖書の教えです。では、なぜ聖霊をけがす罪は赦されないのでしょうか?
その答は、この聖霊をけがす罪の性質にあります。つまり、この罪を犯した者は罪を悔い改めないのです。罪を犯し続け、それでいて罪を犯していることにも気付かないのです。
律法学者達は、イエス様の御業を見て、汚れた霊につかれていると言いました(マルコ3:30)。もし人々が、聖霊(神)によらなければできないイエス様の御業を見て、それをサタンの力によって行っていると考えるなら、光に対する彼らの目は堅く閉ざされ、罪を認めず、赦しを求めない彼らには罪の赦しはないのです。
またルカも、イエス様のこの聖霊をけがす罪に関する発言を記録しています(ルカ12:10)が、この言葉を、「そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます(ルカ12:8-9)」というイエス様の言葉の直後に置いています。
そして、イエス様の聖霊をけがす罪に関する発言の後、ルカは「また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです(ルカ12:11-12)」というイエス様の言葉を記しています。
この文脈では、聖霊をけがす罪について、マルコとは違った強調点があります。つまり、聖霊をけがす罪は、イエス様を信じる者を、その信仰を否定することから守る聖霊の働きを拒否するものであり、結果的に棄教に至るものです。もしそうであれば、この文脈における聖霊をけがす罪とは、棄教(背教)、つまり自発的に信仰を捨てることを指すことになります。(ヘブル6:4-6参照)
ラスベガス日本人教会
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