LVJCC・ニュースレター | March 2020

ラスベガス日本人教会

DesertWind・ニュースレター March 2020

 

『信仰はキリストを呼ぶ』(マルコ5:25 – 34)

LVJCC 牧師:鶴田健次

 

ここに登場する女性は、12年間も長血を患っていた女性です。26節を見ると、彼女は、多くの医者に診てもらいましたが少しも良くならず、ついに自分の全財産まで使い果たしてしまい、病気は返って悪くなる一方でした。

そればかりではありません。イスラエルでは、長血を患う病気は宗教的に汚れているとみなされていました。ですから人前に出ることもできず、肉体的な苦しみに加えて、社会的、精神的な苦しみの中にもいたのです。

ところが、ある日のこと、彼女に嬉しい知らせが届きます。それは、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ、エルサレムなど、方々を巡りながら福音を伝えておられるイエス・キリストが今、ガリラヤに来ておられるという知らせでした。

彼女は、その知らせを聞くなり、心の中に希望の光が差し込んでくるのを感じました。あらゆる病気を癒し、死んだ者をも生き返らせることをされるこの方なら、必ず自分の長血も癒せるはずだ。そんな思いに満たされたのです。

そう思いをめぐらしていると、急に周りが騒がしくなりました。彼女は、その騒ぎから、イエス様が近くに来ておられる知り、急いで群衆をかき分けてイエス様のところにたどり着き、後ろからその衣にさわると、突然その長血が癒されたというお話です。

① 信仰はイエス・キリストを呼ぶ

マルコ5:27-28に、「彼女は、イエスのことを耳にして、群集の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。『お着物にさわることでもできれば、きっと直る』と考えていたからである」とあります。

この言葉から解かることは、この女性がイエス様の衣に触るだけで癒されるという信仰を持っていたということです。それは言い方を変えれば、彼女には、イエス様を神の子と信じる信仰があったということです。

彼女は、イエス様が近くに来ておられると分かると飛ぶようにして外に出ました。群衆がイエス様を取り囲んでいたので簡単に近づけません。群衆をかき分け、せめてイエス様の着物にでも触りたいという一心で進んでいきます。群衆に押され、倒れても、諦めずに進んで行きます。そして、逐にイエス様の着物に触るのです。そこに彼女のひた向きな信仰を見ます。

このように、私たちもイエス様に対するひた向きな信仰があれば、イエス様は私たちを探し、訪ねて来られるのです。大切なことは、この女性のように、イエス様を一心に求めることです。そうすれば必ずイエス様はあなたのところに来て下さるのです。

② 主が聞かれる祈り

マルコ5:30-31で、この女性が癒されたあと、イエス様は振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われました。なぜなら、誰かがイエス様の着物をさわった時に、イエス様の中から力が出ていったことを感じられたからです。

すると弟子たちは、「群集があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったか』とおっしゃるのですか」と言いました。つまり、「誰がさわったかと言われても、みんながさわっていますよ」と言ってるわけです。

しかし、たとえたくさんの人がイエス様の着物をさわっても、本当にふれたのは一人だけだとイエス様は言ってらっしゃるのです。なぜなら、イエス様の中から力を引き出したのは一人だけだったからです。

私はここを読みながら、多くの人が何かを求めてイエス様のところに来たのに、イエス様の力を引き出し、イエス様の御業を経験したのはこの長血を患った女性一人だったのは、彼女の切なる祈りと、イエス様を必死で求める熱心さがあったからではないかということを思わされました。神様の愛は無条件でも、神様の祝福には条件があるということです。

多くの群集がイエス様のもとでひしめき合っていました。でも、本当の信仰、本当の祈りをもって近づいたのは、この女性一人だったのです。私たちも、その一人になりたいと思います。

 



ホロコースト時のユダヤ人

 

証し:山本 真美子「学びの証」

 

Rabbi Daniel Bouskilaの「規律と新年の特別な祈り」のクラスが終了したので、学んだ事を皆さんにご報告します。

ホロコースト時に、ドイツのWolfsberg 強制労働所に、ナフタリ・スターンというラビが送られた。そこでは、飢えと過酷な労働で、毎日多くの人々が死んでいった。ラビ・ナフタリはユダヤ新年に、神を讃美しようと決めた。

看守に頼んで、短い鉛筆とセメントの袋の切れ端を、一個のパンと交換した。ラビは、自分の飢えよりも、神を讃美をする事を選んだ。空腹の毎日にありながら、ラビの顔は活き活きしていたと言われている。

新年の讃美はあまりにも素晴らしく、ナチス兵たちは誰一人として止める者はいなかった!その讃美の書かれた切れ端の紙の数々が、エルサレムのヤッド・バシェムに保存されている。

ユダヤ人達が信じているホロコーストが起こった摂理とは、「我々は、世の邪悪な人々(反ユダヤ主義や異邦人)のために捧げられた犠牲の供え物である」と信じて、多くのラビや敬虔な信仰者たちが、神を讃美しながらガス室に向かった。

私達は「善人に悪い事が起こり、悪人が栄えるのはなぜですか」と問う。でも、これらの敬虔なユダヤ人は、その様な事を神に問わなかった。

ホロコーストと新しいシオンの間には有機的なつながりがあった。ユダヤ人600万人の殺戮がなければ、イスラエル建国はなかった。それは、「受難を通じての救済」という、古代から途絶えることなくユダヤ人の歴史に繰り返し現れる力強い主題と一致するものである。

「ユダヤ人たちが、受ける懲罰は神の御業である。そのこと自体、神がユダヤ人を選んだ証拠だ。ヒトラーや親衛隊はそのための手先にすぎない。」彼らはこう信じていたのである。

キリスト教会歴史の上で、私たちはユダヤ人に対して、神の御心で無い事をしてきた。それは、何万人というキリスト教徒、神父、僧たちによる誤まった教えであり、「ユダヤ人を殺戮するのは、神の御心である」と奨励した事である!マルティン・ルーター著:On the Jews and Their Liesには以下の様に書かれている。

「心の底からのアドバイスは、クリスチャンはシナゴーク、ユダヤ人学校を燃やして灰にせよ、彼らの家を崩壊すること、祈祷書とタルムード関係の書物を焼く事、これらの事をする事は、我が主と教会を尊ぶことになるので、神は、我々こそクリスチャンであると承認されるだろう」この思想は、ヒトラーとナチスに受け継がれた。

「私を十字架に掛けた者を殺せ」とイエスが命じただろうか?イエスはそんな小さな神なのだろうか?神は、天と地を創造されたお方ではないのだろうか。Stephen Haynes は「クリスチャンの反ユダヤ教が自ら台頭し、ホロコーストを可能にしたのではなくて、クリスチャンなしでは、ホロコーストは起こらなかったのだ」と述べている。

今日ほど、多くのメデイアを通して世界の情報をいち早く取り入れている世代はない。教会関係の情報も山ほどあるが、これらの講演者たちは、正確な情報を視聴者に提供する責任と義務がある事を忘れ、多くの視聴者を獲得する事だけに、留まっていないだろうか。キリスト教会は、健康か。病んでいるか。再臨説とユダヤ人などの多くの情報に対しての間違った講義や、校正、訂正が無いのは、無知であるし、間違った学びを受けた異邦人たちが、ユダヤ人を誤解するきっかけになるとも限らないからだ。

ホロコーストを説明する時に、人々が距離をおいた第三者となり、憎悪の故に「彼らがした<ナチ>」という思考である。今日のクリスチャンにとり、「少なからずも驚くべき状況下で、多くの加害者たちは、クリスチャンであったと認識できない事である。この悲惨な出来事を、私達が被害者のみに目を向けているなら、ホロコーストは完璧な邪悪とか憎悪のことばには終わらない。私達が邪悪になりえる挑戦である。

福音について言えば、彼らはあなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。神の賜物と召しとは、変えられる事がない』 (ローマ書 11章28-29)

イエスが、隣人を愛せよと言われたのは、クリスチャン同士のみの慈愛だろうか。私たちはその事について祈り、今一度、主に聞こうではありませんか。そして、イスラエルとユダヤ人の救いのために祈りませんか。

「エルサレムの平和のために祈れ。おまえを愛する人々が栄えるように。」 詩篇122:6




 

Desert Wind  2020年 3月号・ニュース

◆  3月5日10時より、栄子姉宅でネリスのSGの集会が持たれます。

◆  38日午後1時半より役員会があります。役員の働きの為にお祈りをお願いします。又2時より体操教室が行われます。どなたでもご参加できます

毎週月曜10時から教会で聖書勉強会が持たれています。「目から鱗」のこの勉強会に是非ご参加ください。

◆ 3月15日の愛餐会後に婦人会の例会が持たれます。女性会員の方々は皆さんご参加ください。

3月29日の礼拝はメシアニックジュ―のRichard Hill牧師をお招きし、聖書のメッセージを執り継いでいただきます。ご期待ください。

 



編集室・気まま便り

国際ニュースでアフリカからゴムボートに乗って地中海を渡り、ヨーロッパに避難している人々について報道していたが、最近他の番組で国境なき医師団の一員として救助活動に参加した日本の助産婦さんがインタービューに応じていた。

「今にも死にそうな人々を目の前にしたら、心が動いた。特に臨月に近い妊婦がいて、待機所で出産に立ち会った。又生まれたばかりのベビーを連れている人もいた。忙しかったけれども、これ程尊い仕事はかつて経験した事がなかった。

チャンスがあったら又行きたい。」と語っていた彼女の顔は輝いていた。人を助けると助けられた人の喜ぶ顔を見てこちらも恵まれるという二重の恵みがそこには生じる。聖霊の祝福を受けたような経験をできた人は幸いです。

MN



 

LVJCC キリスト教 Q&A

Q 「人はどんな罪も冒涜も赦していただける。しかし、御霊に逆らう冒瀆は赦されません」とは?

 

 このイエス様の言葉は、多くのクリスチャンたちが今一つ十分に理解できていないものの一つだと思います。イエス様はマタイ1231で、「人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます」と仰いました。「冒瀆」というのは、神聖なもの、大切なものを汚すことです。人への冒涜は人の名誉を汚すことで、神への冒涜は神の名誉を汚すことです。当時のユダヤ社会では、「神への冒瀆」は石打の刑に処せられる重罪でした。

しかし、イエス様は、「人は、どんな罪も冒瀆も赦していただける」と言われたのです。さらにイエス様は、32節で、「人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます」と言われました。

「人の子」とは、イエス様のことです。「神の子キリスト」のことです。そのイエス様に酷い言葉を投げかけた人たちがいたのです。

ある人は、イエス様を罪人呼ばわりしました。神様を「罪人」と呼んだのです。またある人はイエス様を「悪霊につかれて気が狂っている」と言いました。

さらにある人は、十字架に架かられたイエス様に向かって「おまえが神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」と罵りました。そして彼らは最後に、神の子であるイエス様を十字架につけて殺してしまったのです。にも拘らず、そういう罪でも赦されると言われているのです。

つまり、「神の御子を殺した罪」でさえ、悔い改めて神に立ち返るなら、赦されるのです(使徒3:17、19)。神の御子を殺すとは、人間にとって「究極の罪」です。ところが、そういう罪でさえも赦していただけるというのです。なぜでしょう? それは、神の御子であるイエス様が、私たちの身代わりとなって、私たちの全ての罪の裁きを十字架の上で引き受けて下さったからです。

「人間の罪」は、いわば神に対する借金のようなもので、イエス様の十字架は、私たちの罪の負債を一切イエス様が肩代わりして下さったという出来事でした。

つまり、神の御子が十字架で流された「尊い血の代価」は、あまりにも高価で尊いので、それをもって償い切れない罪は一つもないのです。だから、「人はどんな罪も冒涜も赦していただける」のです。それなのに、イエス様は31節の後半で、「しかし、御霊に逆らう冒瀆は赦されません」と言われたのです。

「どんな罪も冒瀆も赦していただけます」と言われたのに、「御霊に逆らう冒瀆は赦されません」とは一体どういう意味でしょうか。

実は、イエス様はここで、「神は、どんな罪をも赦そうとしておられるのに、その赦しを私たちが自分で受け取れないようにしてしまうことがあるのだ」という話をしておられるのです。それが、「聖霊に逆らう」という場合なのだと言われたのです。

聖霊は福音の真理、つまり罪と義と裁きについて明らかにされます。つまり、人は聖霊の働きによって、自分の罪を示され、神との正しい関係を持つ方法、また罪には永遠の裁きが伴うという厳粛な事実を示されます。

そして、その事をちゃんと解かるのに、聖霊の働きに抵抗し、背を向けて、「神様の良いわざ」を「馬鹿げた意味のないことだ」と言って聖霊の働きを冒瀆することがあるのです。

この場合、どうして「赦されない」のかと言えば、せっかく差し出されてる「赦し」を自分から突っぱねてしまい、その結果、「赦されない」という状況に自分を追い込んでいるからです。

救い主イエス・キリストにある私たちの確信は、「人はどんな罪も冒瀆も赦される」ということです。だからこそ、私たちの心が決して「聖霊に逆らう冷たい石の心」とならないように気をつけたいと思います。

 


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