DesertWind・ニュースレター March, 2022
『あなたがたは地の塩、世の光です』(マタイ5:13-16)
LVJCC 牧師:鶴田健次
マタイの福音書の5-7章は「山上の説教」と呼ばれますが、この「山上の説教」はイエス様の教えの白眉(はくび)とも言えるものです。なぜなら、その内容が未だかって説かれたことのない空前絶後の教えだからです。
ここでイエス様は、「心の貧しい者は幸いです」で始まる「八福の教え」を語られたあと、5章13節と14節の冒頭で、「あなたがたは、地の塩です」「あなたがたは、世界の光です」と語られました。
この「あなたがた」というのは、「山上の説教」を聞いている弟子たちのことですが、同時に、その弟子たちの周りにいた群衆、さらに今この御言葉を聞く私たちクリスチャンのことでもあります。
①あなたがたは地の塩、世の光です
イエス様は、「あなたがたは地の塩、世界の光です」ということをどういう意味で言われたのでしょうか。「地の塩」とは「この世の塩」ということです。塩はいろんな意味で無くてはならないものです。料理の味付けに、また防腐剤として、さらに国によっては塩は清めや厄払いのためにも使います。
そのように、塩は人間の生活において大切な働きをしています。したがって、「あなたがたは地の塩です」とは、私たちがこの世に対してそういう存在だということでしょうか。
では、「世の光」とはどんな意味でしょう。「光」とは暗闇を明るく照らすものです。私たちが光として輝き、罪に覆われた暗闇の世界を明るく照らすのだとイエス様は言っておられるのでしょうか。
そうすると私たちは、「いや私はとてもそんな者では・・・」と思ってしまいます。もちろん、地の塩、世の光を私たちの努力目標と考えれば問題なく受入れることができます。あるいは、それに近づくように頑張ろうということであればすんなり受け入れられます。
しかしイエス様は、「あなたがたは地の塩、世の光になるように努力しなさい」と言われたのではなく、「あなたがたは地の塩、世の光です」と言われたのです。これはイエス様の厳かな宣言です。イエス様は、ご自分に従う者がどういう者とされているのかを宣言されたのです。
②弟子たちの現実の姿
では、イエス様が「あなたがたは地の塩、世の光です」と言われた弟子たちは、実際そのような者だったのでしょうか。イエス様は彼らの働きを見て、「あなたがたは地の塩、世の光だ」と言われたのでしょうか。彼らの存在は世の人々に喜ばれ、受け入れられ、良い感化を与えていたのでしょうか。実はそうではありませんでした。
イエス様は「八福の教え」で「義のために迫害される人々の幸い」について語られましたが、この「迫害される」ということが当時の弟子たちの現実でした。つまり、彼らの言葉や行いは周囲の人々に受け入れられていなかったということです。
良い感化を与えるどころか、批判や非難を受けていたのです。弟子たちは語るべき言葉を語り、なすべきことなす時に、人々に良い影響を与えるどころか、キリストの故に、むしろ人々の非難や迫害を受けたのです。
イエス様は、「八福の教え」で「迫害される人々の幸い」をお語りになるのに、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」と言われました。そして、この「あなたがた」を受けて、13節の「あなたがたは地の塩です」と語られたのです。
つまり、地の塩、世の光であると言われているあなたがたとは、ののしられ、迫害され、悪口を浴びせられているあなたがた、ということです。キリスト教の歴史を見れば分かりますが、クリスチャンはそういう目に遭うのです。そういう信仰者に対してイエス様は、「あなたがたは地の塩です、世の光です」と仰ったのです。
③本当の地の塩、世の光とは
「あなたがたは地の塩です、世の光です」という宣言は、「八福の教え」に通じるものがあります。「八福の教え」で語られていることは、「このようになれば、た、このようにすれば幸いになれる」という教えではありません。イエス様は、「このような人々は幸いである」と宣言されたのです。しかも、そこに語られていることは、この世の尺度からして、とても幸いとは言えないようなことばかりでした。
「義のために迫害される」こともその一つです。迫害を幸いだと思う人などいません。しかしイエス様は、ご自分を信じて、その信仰のゆえに迫害され、悪口を言われる者に対して「あなたがたは幸いです」と言われたのです。
そして続けてその人たちに、「あなたがたは地の塩、世の光です」と宣言されたのです。ですから、地の塩、世の光として生きるとはどういうことなのかを知るには、「八福の教え」を振り返ればよいのです。そこに語られていた幸いな人たちこそ
が、地の塩、世の光なのです。
Desert Wind 2022年 3月号 案内・ニュース
◆ 3月2日(水曜日)からlentが始まります。lentとは、イースター前の日曜日を含まない40日間で、イースターを迎える準備の期間です。今年は4月17日がイースターですので、日曜日を含む46日前の3月2日がAsh Wednesday(灰の水曜日)と呼ばれ、悔い改めの心(灰は悔い改めのシンボル)でlentの期間を過ごし、イースターに備えたいと思います。
◆ 3月06日(日)礼拝後 1:30PMより日英合同で役員会が持たれます。
◆ 3月13日(日)礼拝後 12:30PMより婦人会の例会が持たれます。
◆ 今月も早天祈祷会、スモールグループ、昼の祈祷会、Zoom聖書クラスは通常どおり持たれます。
『絶望の中の希望』
証し:下鳥結香
私の生家は長野県にあり、家族は仏教に属していました。仏教といっても仏壇があるだけで、宗教全般に対しては全くといっていいほど無関心でした。そんな無宗教の家庭で育った私は、どんな困難も一人で乗り越えていける、努力すればなんとかなる、そう強く思い突っ走って生きてきました。
人生のゴールといえば、立派な学歴、高い地位、財産を手に入れること。なによりも両親の期待に応えることが私にとっての“成功”でした。振り返ってみると、高校の時から自分の心に無理をさせる生き方をしていたと思います。
人と比べては落ち込み、完璧主義で心配性で、他人の期待に応えようと必死で、自分の心の状態はまったく管理できていませんでした。様々な事情が重なって、徐々に心に“喜び”が無くなっていくような、まるで毎日暗いプールの中にいるような生活が数年続きました。
教会との出会いは丁度そんな中、サロンで出会ったあるネイルアーティストの導きでした。名前はユナさんといって韓国人ですが、日本語がペラペラで当時日本人の知人がまったくいなかった私にとっては、とても話しやすい方でした。
二回目のアポイントメントの時には、自分の人生について話し、その時に彼女が、“あなたは神様を信じますか?”と聞いてくれました。今まで宗教にまったく無縁で、バカバカしいとも思っていた私でしたが、なぜかその時は神様を信じてみようと思ったのです。
その日に、ユナさんはラスベガスにあるキリスト日本人教会に直接連絡をとってくれて、その週の日曜日にこちらの教会へと彼女と一緒に足を運びました。
一番最初の礼拝で鶴田牧師が話してくださったのが、99匹の羊の話でした。羊飼いが99匹の羊を残して見失った1匹の羊を探しに行くという内容で、まさに私がその一匹で、神様が自分のもとに帰ってくるように探し回って下さったんだと。
こんなに罪深いどうしようもない私みたいな人間を、まるごと愛してくれているのだと。言葉では言い表せないような平安に満たされ涙が止まらなかったことを今でも覚えています。
そして、創造主なる神が「私を造り、私を選び、私を愛し、私にすばらしい計画を持っていてくれること」を知りました。聖書を読み、ここに書かれていることをすべて信じるようになってから、不思議なことに、霊的に神様との関係が回復すると、精神的な領域も回復し始めました。
今思うと、全ては神様のご計画だったのです。病を通して私の心の弱さを教えてくださり、教会へ導いてくださったのだと信じています。
決して落胆しない希望、いかなる失望にも負けない希望、全てを諦めて自分自身すら終わりにしようと本気で考えた絶望の底で、もう一度がんばってみようと思わせてくれたこの希望は、神様だけが与えることのできる素晴らしいものです。
もちろんクリスチャンになったからといって悩みが無くなるわけではなく、不安な気持ちもよぎりますが、そんな時、いつも私を支えてくれる聖書の御言葉があります。新約聖書、ローマ人への手紙8章28節です。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
私の力や考えではどうしようもできないと思う度に、この聖句が希望を与えてくれます。どんな困難や苦しみも益となるとはなんと素晴らしいことでしょうか。
私は不器用で未熟な者だと自覚しています。これと言ったとりえがあるわけではありません。しかし唯一自信を持って言えることは、私はすでに人生で最大の一番大切な出会いを経験したということです。そして、同じような出会いを経験されている方々が大勢いらっしゃるかと思います。これは大変心強いことです。大変うれしいことです。
今も私はまだまだベイビークリスチャンですが、同じ病気で苦しんでいる人はもちろん、全ての人に神様の愛を知っていただけるように、日々勉強中です。そしてまだ導かれていない日本の家族一人一人が導かれるよう、また、私自身が証となれるよう霊的な成長をどうかご一緒にお祈り頂ければ嬉しいです。
最後に、神様へと導いてくれたユナさん、神様から離れそうになる度に引き留めてくれて、愛を送ってくださる教会メンバーの皆様に深く感謝申し上げます。ありがとうございます。
編集室・気まま便り
サイモンとガーファンクルが1970年初めに公表した「明日に架ける橋」という曲がアメリカで大ヒットしただけでなく、世界中を回った後、南アフリカに伝わり、当時アパルトヘイト(人種差別)に苦しむ黒人の心に響き、勇気と希望を与えた。
1991年アパルトヘイトが正式に廃止されてからも南アフリカの人々にはゴスペルとして今では現地の教会と学校で若い人々によって唄い継がれていると聞いた。
どこか懐かしい感じのするメロディーと悩み苦しんでいる人々に優しく寄り添うような歌詞が人種、文化、言語、習慣の違いを乗り越えて伝わり、長年に渡り人々の心に感動を与えている。
私も神様の愛に触れた感動を、多くの人々に伝えて行きたいと思った。 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 悔い改めは救われるために必要か?
「救いには悔い改めが必要ですか」という質問に対する答えは、「はい」と「いいえ」の両方です。 それは質問が何を意味するかによります。もし その人が、罪人が救われるためには、悔い改めて、心を変え、罪を犯すことをやめなければならないことを意味しているとすれば、答えは「いいえ」です。その理由は、私たちが罪を犯さず、善を行うことによって神の義の裁きから救われるわけではないからです。それでは行いによる救いになってしまいます。
私たちは、罪を犯さず正しいことをすることによってではなく、十字架上で私たちの罪を負うて下さったキリストを信頼することによって罪から救われます(1ペテロ2:24)。
私たちがキリストを信じて受け入れるとき(ヨハネ1:12)、私たちはその信仰によって義とされるのです(ローマ3:28、4:5、5:1)。そして、私たちが生まれ変わるのは神の働きであり、それによって私たちは罪から立ち返ることができます。 したがって、悔い改めは生まれ変わり(救い)の結果であり、そのための要因ではありません。
エゼキエル36:26-27 - 「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あ
なたがたに肉の心を与える。 わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。」
ヨハネ1:12-13 - 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
一方、救いには悔い改めが必要です。なぜなら罪についての考えを変えずには神の義の裁きから救われることはできないからです。罪から離れて神を敬うことを求めなければなりません。
ルカ13:3 - 「そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
使徒2:38 - 「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」
使徒17:30 - 「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」
悔い改めは明らかに福音のメッセージの一部です。しかし、私たちの救いは悔い改めによるものであると誤解しないようにする必要があります。 繰り返しますが、私たちの救いは、私たちが間違ったことをやめ、正しいことをするようになった結果ではないのです。それは行いによる救いです。
これは、罪の奴隷であり(ローマ6:14-20)、霊的なことを理解できず(1コリント2:14)、良い行いをできない不信者(ローマ3 :10-12)が、彼の罪深い性質に基づいて罪を犯すことをやめる選択をできるかどうか、クリスチャンの間でも難しい問題です。しかし、クリスチャンは、悔い改める能力は神によって与えられるべきものであることを知らなければなりません(ピリピ1:29、使徒11:18、2テモテ2:25)。
ですから、救いのために悔い改めが必要かどうかを尋ねるときは注意しなければなりません。本当の問題は、「悔い改めは救いの結果なのか」ということです。そして、その答えは「はい」です。しかし、悔い改めは、罪から立ち返ることは正しいことなので、人々に悔い改めるように命じることは救いのメッセージの一部でもあるのです。
罪は神の性質に反しているので、神はいつもすべての人に悔い改めるように命じられるのです(使徒17:30)。私たちが聖であることができなくても、神があなたに聖であることを命じておられるのと同様に(1ペテロ1:16)、神は完全さの基準であり、その基準は私たちの無能さのゆえに和らげられることはありません。
したがって、悔い改めも、聖であることも神の命令です。 そして私たちはその両方を神に頼らなければなりません。
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