DesertWind・ニュースレター January, 2022
『主に感謝しよう』(詩篇118:1)
LVJCC 牧師:鶴田健次
昔、備前の富岡村に『ありがた与一兵衛』という人がいたそうです。朝起きると「おはよう」の代わりに、「ありがたい、ありがたい」と言います。何がそんなにありがたいのかというと、「朝起きて、家族の顔を見られてありがたい」のだと。
またある時、小雨が降りだし急いで帰ろうと滑って転び、そこでもまた「ありがたい、ありがたい」と言います。転んで擦りむいて一体何がありがたいのかと尋ねると、「自分の落ち度で骨折してもよさそうなところを、ただの擦り傷ですんでありがい」・・・。 確かに、私たちは、感謝しようと思えば、どんな時にも感謝することはできるものです。
神様は、「すべての事に感謝しなさい」と言われました。良い時に感謝することは、誰にもできることです。しかし、苦しくて、悲しくて、大変な状況の中にあっても感謝をできるとすれば、それこそ御霊によって生きるクリスチャンの姿です。
① キリストによる救いを感謝する
この詩篇118:1から解かることは、主に対する私たちの感謝は、私たちが経験したキリストによる救いがその動機であるということです。この永遠に変わることのない救いの御業のゆえに、主に感謝しないさい、と詩篇の記者は言っているのです。
マタイの福音書16:26を見ると、「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」とあります。 人がいくら富と名誉と名声を得ても、それは一時的なもので、やがて必ず人生の終わりを迎えるのです。
その時、富と名誉と名声は過去のものとなり、何も残るものがありません。たとえこの世の富と名誉と名声を得ても、イエス・キリストを知らずにこの世を去ることほど空しいことはありません。
ノーベル賞を受賞したアーネスト・ヘミングウェイは、富と名誉と名声を手にした人です。しかし結婚生活には何度も行き詰まり、最後には「フィラメントが切れた電球みたいに空しい」との遺書を残して、猟銃で頭を撃って自殺しました。彼の行った先は、永遠の滅びです。たとえ、この世の栄光を手にしても、永遠の命を失えば何の意味もありません。
私たちクリスチャンがいつも感謝すべき理由は、この世の如何なるものも足元にも及ばない「永遠の命」という絶大な価値の恵みを既に与えられているからです。
② 本当の自分を見出せたことを感謝する
第二番目に、私たちが感謝すべきことは、キリストの愛によって、私たちが本当の自分を見出せたことです。イエス様を信じる前は、私たちは自分を失った者でした。正体不明の自分だったのです。
「あなたは、誰ですか?」「知りません。」、「どこから来たのですか?」「分かりません。」、「なぜ、生きているのですか?」「知りません。」、「死んだらどこに行きますか?」「死んだらそれまでだと思います。」というふうに、私たちは自分の正体が不明だったのです。
私たちが、正体不明の人間、道を失った人間として生きていたので、心に安定がなく、平安がなく、生きる意味も、目的も、価値も、知ることができませんでした。しかし、私たちがキリストを信じてからは正体が分かり、失っていた自分を発見することができたのです。
つまり、キリストを信じることによって、「あなたは、誰ですか?」「私は神様の子どもです。」、「なぜ、生きているのですか?」「神様に仕え、神様に栄光をお返しするためです。」、「死んだらどこに行きますか?」「天国に行きます。」 このように、私たちはキリストにあって確かな自分の正体を見出すことができたのですから、心から神様に感謝しなければなりません。
③ 天国の希望を与えられたことを感謝する
第三番目に、私たちは、永遠の天国への希望を与えて下さった神様に感謝しなければなりません。神様は、私たちを悪魔の支配から解放して下さいました。コロサイ1:13に、「神は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった」とあるとおりです。
私たちは律法から解放されました。律法は、私たちの罪に対し、その罰として永遠の滅びを定めましたが、イエス・キリストの十字架の贖いは、私たちに罪の赦しと、永遠の天国に生きる恵みをもたらしました。ですから私たちは神様に感謝するのです。
死を目の前にして、多くの人が恐れと不安を感じます。しかし、本当の信仰者は、死を前にしても感謝と希望を失うことはありません。それは、キリストが死からよみがえられ、永遠の命への道を明らかにされたからです。
キリストの死は私の死、キリストの復活は私の復活、キリストの天国は私の天国なのです。私たちはキリストと共に死に、キリストと共によみがえるのです。だから、私たちはいつも神様に感謝できるのです。
Desert Wind 2022年 1月号 案内・ニュース
◆ 1月2日(日)11:00AMより新年礼拝が持たれます。また礼拝後に新年の御言葉の分かち合いを致しますので、目標に掲げる御言葉を選んできてください。
◆ 1月2日(日)の礼拝後12:30AMより婦人会の例会が持たれます。
◆ 1月15日(日)午後5時よりキャンドルライトサービスが持たれます。
◆ 1月9日(日)礼拝後は日英合同の役員会が持たれます。
◆ 1月16日(日)拝後はポットラックで新年会が持たれます。特別賛美、日本舞踊、沖縄の踊りエイサーなどの出し物が予定されています。
『創価学会員からクリスチャンへ』
証し:鶴田 美代子
かつて40年間に渡って創価学会員だった私は1986 年頃から毎年一回は長崎より、息子が住むアメリカに来ていました。アメリカにいる間、家に居ても暇な時間が多く、何か面白い本はないかと書棚を探したのですが、キリストに関する本ばかりで仕方なく其の本を読みあさりました。その影響で、私はキリスト教のことが少しずつ分かるようになりました。
ビジネスマンから牧師になった息子は、当時住んでいたLAの郊外から、教会開拓のため毎週末ラスベガスへ通っていました。アメリカ滞在中は、私も息子夫婦と一緒にラスベガスに行くしかありませんでした。
道中、車内で沢山の先生方のテープを聞かされ、その中に金藤光一青年の証を聞いた時、「恐れるな私があなたと共にいつもいる」という聖書の言葉がなんとなく私の心の中に残って離れませんでした。
ラスベガスのアパートに着いた翌日はクリスチャンの人達が聖書の勉強に来られ、その度に「私、買い物に行ってくる」と言って、その場から逃げていました。昼も過ぎたので、もういないと思い帰って来たら、また第二軍の人たちが来ていました。
もう逃げる口実がないので隣の部屋に閉じこもっていると、「座っているだけでいいから一緒に話を聞けば」と息子に言われ、その人達の中に座りました。その人達は入門者クラスを勉強する人達でした。その時の勉強は、イエス・キリストが私たちの罪の贖いのため十字架にかかって死んで下さり、墓に葬られ、三日目に死からよみがえられたという内容でした。
日蓮は私のために死んではくれないと思いながら、それがまたきっかけとなり、入門クラスを受けるようになりました。そして、私の罪のために死んで下さったイエス様を信じ、2003 年 4 月 20 日のイースターの日に洗礼を受けました。その時の喜びは言葉では言い表す事が出来ません。孫やお友達もLAから祝いにかけつけてくれました。
洗礼を受けて数日後、私の帰国の日がやって来ました。帰りの飛行機の中で、今までの喜びは何処かに行き、急に淋しい思いにかられました。「神様、私は帰ったらたった一人のクリスチャンです。あなたは私と共にいて下さると約束して下さいました。私はどうすれば良いのですか。神様、教えてください。」と飛行機の中で祈りました。
こんな時、信仰深い人は神の声を聞いたなどと言われます。でも、私には何も聞こえません。「どうすれば良いのですか」と何度も何度も神様に問いかけました。すると、しばらくして、ふと家の仏壇を始末しなければという思いが与えられたのです。
そこで私は、そうだ、帰ったらまず仏壇の始末をしようと心に決めました。すると肩の荷がおりたようになり、眠りにつく事が出来、目覚めた時には成田の上空でした。
我家に着いたのは夜中の12時頃でした。早速、本尊をはずし、翌日、返しに行こうとした時、二人の学会員が、「もうアメリカから帰ってくる頃だと思い、寄ってみた」と言って来たのです。私は、「今あなたの所に本尊を返しに行く所だった」と言うと、二人は「そんな事をしたらバチが当たるから止めた方がいい」と言いました。
私が「キリストを信じるクリスチャンになったから、バチをあてる様な物はいらない。あなたが受け取ってくれないなら直接本部に持っていく」と言うと、その人が手続きの書類を書かないと受付けないというので、一緒に行って返してくれました。
しばらくすると妹が訪ねてきて、色々と話しても落ち着きがなく、言い難そうに「あの仏壇返してくれん?あの仏壇は死んだ夫の買った物だから、姉ちゃんには別の買ってあげるから」と言いました。しかし、私はもう仏壇はいらないクリスチャンになったのだからと言い、断りました。
翌日、私が買い物から帰ってくると、仏壇はもう私の家から運び出され、きれいさっぱりとしていました。その時、私は神様に感謝しますと祈りました。私に出来ない事を全て神様がして下さったからです。神様の御心を、それに従うと固く決心して神様に祈るなら、神様が働いて下さるということを知りました。これからも、この神様をどこまでも信じて信仰生活を全うしたいと思います。
編集室・気まま便り
新年をむかえるにあたり、私達の教会では毎年各自に示された聖句を新年礼拝の後にお互いに発表し合う。一年の目標を立てて、それを念頭において歩むという事は大変大事だと思った。そして年の終わりにはどのような歩みをしたかについて皆さんに報告する。
突然コロナという疫病が流行り、ロックダウンになってから、約2年が経つが、どんな事が起ころうとも日々の歩みは、祈りとみ言葉に専念するというクリスチャンとしての日課を愚直に守り続けることの大切さを知った。
今年も教会の皆さんと共に神様の与えてくださる平安の内に過ごす年となるよう祈っていきたい。 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 真理とは何ですか?
真理は、感情ではありません。真理は、考えではありません。真理は、聖書の中に見出される普遍的・絶対的な神の言葉です。カルトは真理を持っていないので間違いです。つまり彼らは、父・子・聖霊の神に関する、またキリストの十字架の働きに関する間違った理解のために、その救いの教理には誤りがあります。
誠実と善行は、神と人との間にある罪から来る断絶を埋めることはできません。キリストの血だけが、人間の罪を洗い清めることができます(へブル9:22)。誠実と善行は、確かに素晴らしいものですが、人間に永遠の滅びをもたらす罪の問題解決には全く無力です。
また、それが、「神様、私の心を見て下さい。どれだけ私が誠実かが解かるでしょう。私は天国に行く資格があるでしょう?」と言うように、神に受け入れられることを正当化する理由として持ち出されるとしたら、誠実も善行も誇りの化身になってしまいます。
もし、誠実と善行が神を満足させるのに十分なものであるならば、神は私たちの間違った考えを正すために聖書を与えられもしなかったでしょうし、私たちの善行がなし得なかったことをするために神の子を送ることもなかったでしょう。神が真実であると言われるものこそが真理であるということです。
神は唯一である
本当のキリスト教の教義は、神は唯一の方であるということです。この神の前にも後にも、造られた神は存在しません。神は他の神など知ることすらありません。全宇宙を探しても、この唯一の神だけが存在なさるのです。これを一神教と呼びます。
三位一体の神
神は、父と子と聖霊の三位格を持つ、三位一体の神です。その位格において、父なる神は子なる神とは違い、子なる神と聖霊なる神も違い、聖霊なる神は父なる神とは違います。しかし、父も子も聖霊もすべて永遠性を持つ全知全能の神です。三位一体に対する異論は、それが論理的でないということです。しかし、聖書は論理によって支配されるものではありません。神から来たものの中には人間の頭脳で理解し難いものもあります。その上、あらゆる創造物に神の手の業を見ることができます。
イエス・キリスト
キリストは、三位一体の第二位格の神です。またキリストは神であり、また人でもあります。つまり完全な神であると同時に完全な人でもあるということです。キリストは神の形であられましたが、ご自分を空しくして、人間の姿になられました。キリストは神と人との仲保者です。また、キリストは創られたものではなく、すべてのものの創造者です。
救いは信仰による
救いは、神からあなたに与えられるものです。それは無償のギフトとして与えられる永遠の命です。罪人は、十字架で身代わりの犠牲を捧げられたイエス・キリストに対する信仰によってのみ、神の目に義と認められます。義認は信仰によって成し遂げられるものです。私たちの努力や善行は、救いのためには何の役にも立ちません。
結論
真理は、ただ単にそれが真実であるから重要なのではありません。真理が重要である理由は、私たちが誰を、そして何を信じるかを明らかにするからです。信仰は不可欠な要素です。しかし、間違ったものに対する信仰は無意味です。だからこそ、本当のイエス・キリストを知り、このキリストに対する信仰を持つことが大切なのです。
永遠は、間違うにはあまりにも長過ぎます。特にイエス・キリストについてはそうです。
LVJCC・ニュースレター【アーカイブ】
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ラスベガス日本人教会
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