ラスベガス日本人教会
DesertWind・ニュースレター November, 2020
『神の安息に入る約束』(へブル書4:1 – 13)
LVJCC 牧師:鶴田健次
私たちの人生は旅のようなものであるとよく言われます。旅にも色いろあって、名所旧跡を訪ねる旅もあれば、道なき道を行くような旅もあります。既に誰かが作ってくれた道を行くのであれば比較的安心して行くことができますが、原生林や荒野を旅する場合は楽な旅ではありません。
聖書は、旧約時代のイスラエルの民がエジプトを出て約束の地に入るまでの旅を私たちの信仰生活になぞらえていますが、信仰生活はまさに荒野の旅でもあり、そこには多くの戦いがあります。
さて、今日は「安息」について考えてみたいと思いますが、私たちは一日の労働を終え、家に帰り、そこで安息を覚えます。あるいは、病院から退院し、「ああ、やっぱり我が家はいいなあ」と思います。ところが、そこは究極の意味での安息の場所ではありません。私たちには神が用意しておられる究極の意味における安息があるのです。それは天の安息です。
へブル書の著者は3章において、イスラエルの民がエジプトを脱出し、荒野の旅の後、安息に入れなかったことを記しています。3:11を見ると、「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らを安息に入らせない」と言われました。また3:19では、「彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります」とあります。
イスラエルの民は乳と蜜の流れる約束の地カナンに行こうとしていたのですが、その地は、いわば安息のひな型です。つまりヘブル書の著者が意識しているのは、地上の安息ではなく、天の安息なのです。イスラエルの多くの民は、地上の安息の地のみならず、この天の安息にも入ることが出来ませんでした。その理由は、彼らが神の御言葉に聞く耳を持っていなかったからです。
4章の3節、4節は、神が天地創造の御業を行い、七日目に休まれ、安息日を制定されたことが言われています。なぜここでこの事が述べられているのかというと、ヘブル書の著者は神が創造の御業を終えて休まれた七日目についての解き明かしをしているのです。
神は人間のために最終の安息をいつ備えられたのかというと、神が天と地を創造し安息を制定された時に、私たちが入る最終の安息、つまり天の安息をも確立されたのです。この場所に不信仰な民イスラエルは入ることができませんでした。聞く耳を持たず、心がかたくなだったからです。しかし、6節と9節を見ると、この安息は今、私たちのために残されているのだと言われています。
安息に入る条件は、福音を信じ、神の御言葉に従順であることです。出エジプトの世代も福音が説き明かされていたにも拘わらず、神が約束しておられた安息に入れなかったのは彼らの不従順が原因であったとヘブル書の著者は語っています。彼らへの福音とは、神の救いの約束を信じ、御言葉に従うことによって約束の地に入り、「聖なる国民」とされることでした。それはエジプトで奴隷の身分であった彼らにとって素晴らしい福音であり、神の安息に入ることでした。
しかし、その福音を彼らは踏みにじってしまったのです。彼らは困難に出会ったとき、「福音だと?冗談じゃない。エジプトでの生活のほうがまだましだった。神が安息を与えてくれるなんて嘘っぱちだ」というような意味のことを言ったのです。彼らは神の御言葉に従いませんでした。その結果、荒野で滅んでしまったのです。それは約束の地カナンに入れなかったというだけではなく、神が創造の七日目に備えて下さった真の安息にも入れなかったことを意味します。
ヘブル書の著者は、この書を読む人々が同じ過ちを繰り返さないために、御言葉への敬虔な思いを持って欲しい、御言葉に従う信仰を持って欲しい、そう呼びかけているのです。
Desert Wind 2020年 11月号 案内・ニュース
◆ 教会ハイキング: 11月11日(水)Calico BasinのRed Spring 駐車場に午前11時集合。Boardwalk 近辺の景勝地をハイキング。お弁当、水、歩きやすい靴。どなたでも参加OK!
◆ 11月22日の礼拝(日曜日午前11時)は日英合同の感謝祭礼拝です。どうぞお友達をお誘いのうえお出で下さい。なお、礼拝後は持ち寄りで感謝祭ランチョンが持たれますのでお楽しみに。
◆ 婦人会の有志の方々が千羽鶴を折って病の中におられる方々を励ましていて下さいます。感謝!
◆ 新型コロナの一日も早い収束を祈りましょう。またこのため に仕事を失った方々に必要な仕事が与えられるようにお祈りく ださい。
『神の教会はノアの方舟』
証し:佐藤 晴夫
いらっしゃいませ!
働いていたお店は、音楽会場も併設しており従業員も多かったので、その分、問題も多く大変でしたが、寿司マネージャーとして12年が経ち、仕事を任せられているという思いと同時に、会社にしがみついている自分もいました。
ラスベガスは世界のトップシェフが集まってるところ、ここでやってみたいと、以前から興味がありましたので、カラッと晴れたカリフォルニアの太陽が大好きでしたが、勇気を出し、昨年末に思い切ってベイエリアからラスベガスに引っ越してきました。
でも、あの時の私は自分でも気づかないほど心身共に疲れ果てていたのだと思います。人生に迷い、生活や特に仕事のストレスから逃れようとしていたのだと思います。
人生は航海です。私は漂流して教会にたどり着きました。今年の一月に教会を訪ねた時の私は迷える子羊でした。鶴田先生や皆さまに出会い、ラスベガス教会は、私にとってノアの箱舟で救われたような感じでした。
鶴田先生の導きのもと、バイブル入門クラスに参加しました。思いがけず教会のある方に聖書をいただき「聖書は神様からの手紙」だと言うので、「えっ、何が書いているんだろう!」と興味を持ち読み始めました。
なんという始まり方でしょう。初めの一文から引き込まれました。私にキリスト教に関する知識がないため、途中、読み進めるのが難しいところもありましたが、4ヶ月かけ、なんとか最後まで読み終えました。
これは、人類の宝だと思いました。この世での人生が終わる前に聖書に出会えたことを幸せに感じました。これまで、迷ったり悩んだりした時に、人生の指導書、成功者の物語など、いろいろな本を読んできましたが、これからは、この聖書一冊が私の道の光になりましたので安心です。
そして、東京葛飾、下町で育ちキリスト教会や聖書とは無縁に生きてきた私がこの6月に洗礼をさずけていただきました。
20年前、20代後半の一人の青年が、アメリカに恋い焦がれてニューヨークに渡りました。30までに芽が出なければ日本に戻ろうと、包丁一本、寿司シェフとして必死でサムライやってきました。そして、なんとか形にすることができました。
これまで、日本の文化の架け橋だと思い、寿司を作ってきましたが、この先、“満席の寿司バーでお客様が乾杯”っていうのはもうないと思うので、寿司の仕事は廃業して、今は新たな道を探っています。
そういったこともあり、いろいろ考えた末、日本帰国を検討しています。人生何があるかわからないものです。外国に行ったきり戻ってこない、わがままな一人息子でしたので、今はとにかく親のもとに帰りたいと思っています。
6畳一間、風呂もなく、便所は共同のアパートで親子3人の暮らしの子供の頃、親に感謝することもなく、いつもそこから抜け出したいと思って勉強してきました。そして今、若い頃に描いたものはほぼ全て叶い、思い出すのは、コタツを畳んで布団を敷いて家族3人川の字になって寝たあの頃です。
私は本当にばかでした。どれだけ親に愛され幸せだったかわからなかったのです。ぼろアパートでしたが、電気、水道が止まることはなかったし、食べるものに困ったことはありませんでした。何より、いつも親子一緒で笑い声が絶えませんでした。本当の幸せは些細な日常の中にあったのでした。
鶴田先生、みなさまに親しくしていただいたのにさびしいですが、教会の方々とはいつか天で会えますので安心です。
コロナの状況は悪いことばかりだと思いますが、私にとってはいいこともありました。それは、自粛によって聖書を読む時間を与えていただいたこと、そして、仕事がなくなったことにより、親のもとに帰る決断をさせていただいたことです。
50歳を前に日本で新たなチャレンジです。これも、”神のなさることはすべて時にかなって美しい”ということでしょうか。
神様の導きのもと、歩いていきます。アーメン
編集室・気まま便り
感謝祭を迎えるに当たり、毎年一年を振り返り、主の恵みを数えて感謝する事にしている。
今年はコロナの感染により世界中が大きな影響を受けたが、まずは身近な家族と教会の皆さんに感染者が出なかったことは感謝である。とりわけ高齢者と幼い子供達が守られた事を主に感謝したい。そして健康面だけでなく、長い間ビジネスを閉鎖したために失業した人達や経済危機を迎え苦難を通った人々もいたと思う。
終末には災害や疫病がはやり、世の中が混乱すると書かれているように終末に向かってどのように生きていったらよいかと真剣に考えさせられた年だった。ただ私達は何が起こっても死後永遠の命が保障されているという事が切実にそして大きな希望として迫ってきた。救われた恵みを感謝したい。。MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q “キリストの御座のさばき”とは何ですか?
A 聖書は、「末の日」に次の三つの裁きがあることを明らかにしています。
①「キリストの御座の裁き」・・・千年王国前の携挙された者たちに対する裁き。
②「栄光の御座の裁き」・・・千年王国開始時の患難時代で生き残った者たちに対する裁き。
③「白い御座の裁き」・・・千年王国後の死者に対する裁き。
「キリストの御座の裁き」の裁き主はキリストです。また、裁かれる当事者はクリスチャン全員です。主の来臨の時、「肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと」、贖われた者は全員、そのとき生き残っている者も、すでに眠った者も、全員が当事者です。確かに、キリスト・イエスにある者が罪に定められることはありません(ローマ8:1)。
しかし、忠実であったかどうかを裁いて、報いか損失かを決定する(1コリント3:14-15)には、信者に対しても特別な裁きの日(1ヨハネ4:17)が必要なのです。これは救いの問題ではなく、恵みの報いの量に関する問題です。
確かに、聖書は2コリント5:10で、私達は自分の良い働きの報いだけでなく、悪い働きの報いも受けると述べています。私達はみな、キリストの裁きの座で、善であれ悪であれ、自分の行いに応じて報いを受けることになるのです。
またコロサイ3:24-25では、「不正を行う者は、自分が行った不正の報いを受けます。それは不公平な扱いではありません」と述べられています。キリストの御座の裁きの前に現れることは、おそらく私達が考えるよりも、ずっと重大な問題だと思われます。「益」や「損失」について述べるだけでは、新約聖書のこのように極めて重大な教えに対して十分に正しく対応したことにはならないでしょう。
しかし、聖書はこれらの重大な教えを私達に示すことによって、聖さと忠実さ、また自己犠牲的な奉仕の必要性を印象づけています。救いは確かであり、神の御業は完全ですが、「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」というピリピ2:12の御言葉が依然として当てはまります。
裁きの基準は、私達の忠実さ(マタイ25:21、23)、私達の人生の総計、私達の成長の結果です。つまり私達の行いだけでなく可能性も、私達がどういう者であるかだけでなく、どういう者になり得たかも裁きの基準となります。また、働きよりも働き人、働きの数よりもその価値が基準です。達成したことだけでなく、何を求めて奮闘したかも基準です。
私達の働きの中で、犠牲が最も価値があり、私達の性質のうち、ただ見返りを求めない愛だけが価値があります。私達の持ち物のうち、奉仕によって得たものだけが価値があります。
何事においても主が最も注視されるのは、内面的な要素、欲求や動機、心のはかりごと、暗闇の中に隠されている魂の秘密です(1コリント4:5)。
その結果、主は正しい裁きを行なわれ、木、草、わらで建てた働きは燃え尽き、金、銀、宝石で建てた働きはいつまでも残るのです(1コリント3:12-15)。
このように、それぞれは受けるべきものを受け、えこひいきはありません(コロサイ3:24-25)。しかし最終的に、クリスチャンは誰もが救われ、誰もが輝きます。ただし、その栄光や輝きの度合いは異なります(1コリント15:40-42)。大きな器も小さな器もありますが、どの器も満たされます。栄光の程度や水準も色々ありますが(マタイ25:14-30)、全員が幸福であることには違いありません(マタイ20:1-16)。
忠実な者には特別に冠が与えられます。勝利の戦士には「義の冠」(2テモテ4:8)が、たゆみない走者には「朽ちない冠」(1コリント9:25-27)が、死に至るまで忠実な者には「命の冠」(黙示2:10)が、無私の働き人には「誉れの冠」(1テサロニケ2:19)が、群れの模範には「栄光の冠」(1ペテロ5:3-4)が与えられるのです。
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