DesertWind・ニュースレター April, 2022
『キリストの再臨に備えよう』(マタイ24:36-44)
LVJCC 牧師:鶴田健次
人は常に何かを期待し、何かを待ち望みながら生きています。そして、その待ち望むものによって、その人の心の持ち方が違い、生き方が違い、得るものが違ってくるのが私たちの人生ではないでしょうか。
では、私たちクリスチャンは、何を期待し、何を待ち望むべきでしょうか。仕事が上手くいき、生活が安定することでしょうか。幸せな家庭を築くことでしょうか。それとも子供が立派に成長することでしょうか。もちろん、これらはみんな素晴らしい事ですから、ぜひそうなることを信じて頑張りたいと思います。
しかし、そういうものはこの世の終わりと共に無くなるものです。やがて無くなるものは私たちが一番に待ち望むべきものではありません。
私たちは、絶対に確かなもの、最も価値あるものを一番に待ち望むべきです。それは何でしょう。それはキリストの再臨です。なぜ、キリストの再臨が一番に待ち望むべきものでしょうか。それは、キリストが再臨される時に、私たちの救いが完成するからです。
① キリストの再臨は必ずある
神の子キリストは、今から2000年前に人間の体をとってこの世に来られ、33年半の生涯を送り、私たちの罪の罰を代りに受けて下さり、死んで、墓に葬られました。
しかし、そのキリストは、死んで三日目に死からよみがえり、死に打ち勝つ道があることをこの世に証明されたのです。そして、復活の40日後に、生きたままで天に昇られ、やがて十字架に架かられたキリストを救い主と信じることで永遠の滅びから救われた人々を迎えに来ると約束されました。
ですから、初代教会の時代から今日に至るまで、クリスチャンたちはキリストの再臨を待ち望んできました。私たちが、この世の常識ではあり得ないキリストの再臨を信じるのは、それが聖書に預言されているからです。
キリストの再臨についての預言は、旧約聖書の中に約1500か所、また新約聖書にも全体の25分の1に当たる319節において記録されている大預言です。そして、その膨大な数のキリストの再臨預言はキリストの再臨が如何に重要かつ確実なものであるかを証明するものなのです。
② 再臨の時は誰にも分からない
いつの時代にも、キリストはいつ再臨されるのかということは世界中の大きな関心事でした。しかし、まず私たちがはっきりとさせておかなければならないことは、キリストの再臨がいつであるかは誰にも分からないということです。マタイ24:36に、「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません」とある通りです。
確かに聖書には、この世の終わりやキリストの再臨の前兆として起こる出来事について多くの預言があります。ですから、キリストの再臨の時が近いかどうかを判断することはできます。しかし、だからと言って、それが何年何月であるということは誰にも分かりません。聖書は、再臨の日は、旧約聖書にあるノアの日のように、人々が毎日を刹那的に、食べたり、飲んだり、楽しんでいる時に突然やって来ると言っています。
では、なぜキリストの再臨の時は、誰にも分からないように定められたのでしょうか。まず第一の理由は、信仰の真価が問われるためです。いつ来るか分からない事によって、キリストが来られた時に、私たちの信仰の真価が明らかになるのです。
また、もうひとつ、キリストの再臨の時が誰にも知らされない理由は、私たちが常に目を覚ましているためです。なぜなら、もし私たちが、キリストの再臨がいつであるかを知ったなら、私たちは誠実に生きることをしなくなるからです。
③ キリストの再臨に備える生き方
では、この「目を覚ましておく」とは一体どういうことでしょうか。
もし、あなたがノンクリスチャンで、キリストの福音に少しでも関心があるなら、心を開いて真理を求めようとする思いをもっと強く持つべきです。なぜなら、真の神を知り、その神の招きに応えることは、あなたの永遠を決める何よりも大切な事柄だからです。
次に、もし、あなたがクリスチャンであるなら、まずご自分の救いを明確にすることです。なぜなら、洗礼を受けたことや教会に来ていることが救われていることの保証ではないからです。
また、私たちクリスチャンは、救われた者として、いつも目を覚まし、イエス様がいつ来られてもいいように準備をしておかなければなりません。なぜなら44節にあるように、人の子、つまりキリストは、思いがけない時に来られるからです。
さらに、キリストの再臨に備えるとは、祈りの生活を大切にすることです。クリスチャン生活は霊的な戦いの連続で、祈りこそ勝利の鍵だからです。また、御言葉の学びに励み、福音宣教の働きに励み、多くの失われた魂を救いに導くことです。
Desert Wind 2022年 4月号 案内・ニュース
◆ 4月03日(日)礼拝後に愛餐愛があり、その後、日英合同役員会がございます。
◆ 4月10日(日)礼拝後は婦人会の例会が持たれます。
◆ 4月17日(日)イースターで日英合同礼拝が持たれます。なお礼拝で早苗Anderson姉の洗礼式が執り行われます。礼拝後はイースター愛餐会がございます。
◆ 独り子イエス様を十字架に架けてまで、私たち罪人を救おうとして下さり、そのイエス様を三日目に死からよみがえらせることによって死に打ち勝つ道があることをこの世に示された神様の偉大なる御力と私たちに対する深い愛を覚えつつ、 喜びと感謝をもってイースターをお迎えしましょう。
『ラスベガス伝道を振り返って』
証し:鶴田 潤子
ロサンゼルスに住んでいる頃のラスベガスの印象は、ギャンブル、巨大なホテル群、華やかなショーやネオン、グランドキャニオンに行く時に立ち寄る町というようなものでした。
当時、私たち夫婦はロサンゼルスの郊外に住んでいました。夏でも冷房の要らない一年中温暖な心地よい気候で、目の前には広大な太平洋と青い空が広がる180度のパノラマ、そんな景色を毎日見ながら過ごしていました。
夫はビジネスマンでしたが、ビジネスの傍らトーレンスで教会を開拓し牧会の働きもしていたの
で毎日とても忙しい生活でした。
そんな生活が一変したのは2001年の12月1日でした。日本人教会のないラスベガスでの日本人伝道と教会開拓が始まったのです。毎週、金曜日から日曜日の2泊3日でラスベガスを訪問することになりました。
毎回お弁当を作って、ちよっとした小旅行の気分でラスベガスを訪問するのは、ある意味、楽しみでもありました。しかし、毎週往復1000キロのドライブは結構大変でした。それでも、1年8か月の間、毎週ラスベガスを訪問し続け、合計85回の訪問で地球2周以上の距離を車で走りました。
主人は神様からラスベガスに腰を落ち着けて神様の働きをするようにと召しを受けました。一方、私はといえば、教会の土台が出来上がれば他の牧師に働きを委ねるのではないかと思っていたので、ラスベガスに住むことになるとは夢にも考えていませんでした。
しかし、主人は48歳の時点でビジネスを片付け100%の時間を主に捧げることになり、そんな現実を私はなかなか受け入れることができませんでした。
神様ちょっと待ってください。私たちの2人の子供はまだカリフォルニアの大学に行っていますし、27年間住み慣れたこの場所には長年の信仰の友がたくさんいます。
親しくしている趣味の友達もいて楽しい交わりをしています。そう言ってロサンゼルスを離れたくない理由を並べ、どうにか今までの生活を維持できないかと願っていました。
これから5年、10年、出費だけで収入がないことを覚悟しなければなりませんでした。犠牲にするものはあまりに多くありました。それに私たち夫婦ではなくても、もっと身軽に動ける独り者の適任者がいると思いました。
主人と同じ思いになれない自分、主に委ねて従いきれない自分、失われた魂の救いのためとは頭では解っていても気持ちがついて行かず、一人ずっと心の中で葛藤を覚えていました。
そんな中、神様は御言葉をもって私に御心を示して下さいました。
「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。」(ルカ10:41)、
「わたしはあなたに命じたではないか。『強く雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない。』」 (ヨシュア1:9)
2003年8月の暑い夏にラスベガスに引っ越してもうすぐ19年なります。また2002年8月22日に教会が設立されて丸20年を迎えようとしています。
ラスベガス教会の歩みが守られ、多くの魂が救いの恵みにあずかり、皆さんと喜びを共にできたことに目を向けると感謝の思いが溢れます。
すでに天に召された方々、日本に帰国した方々、他州に引っ越した方々が多くおられますが、沢山の出会いと別れがありました。そして、今ではそれはすべて私の思い出、何ものにも代え難い宝物になりました。
長年にわたり祈ってきた英語部も設立されました。計画通りに事が進まない時でも、主は私たちよりもずっと良い計画を持っておられることを悟ることが必要でした。
主のご計画にゆだね、主により頼むことこそ、教会の歩みだけでなく個人の人生にも大切なことだということを学ばせていただきました。
聖書の中で結びのない書は、「使徒の働き」だけです。主イエスは今も生きて働いておられます。聖霊行伝はまだ終わっていません。
「使徒の働き」の29章は私たちの教会と私たち自身が書きつづるものです。福音の力は決して妨げられることはありません。これからも主がラスベガス教会の働きを大いに祝福し、支え導いて下さることを信じ、心から感謝いたします。
編集室・気まま便り
今年もイースターを迎える時期となった。イースターというと、以前訪ねたイスラエルのゴルゴダの丘、イエス様が重い十字架を背負って歩かれたドロローサの道、葬られた園の墓の情景が浮かんで来る。
鞭打たれ傷だらけの体で何度も倒れながら十字架を背負って歩かれた時、人々に嘲けられ、ののしられて、心身共に限界のところを必死でたどり着いた末に十字架にかけられた。
その間何も言わず、ただただ人類救済の神様の御計画に従ったお姿が、現地に立った私の心に迫って来て号泣した事が思い出される。
復活したイエス様をお祝いするイースターを、今年も皆さんと共に喜びを持って迎えられる幸いを感謝します。 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 福音とは何ですか?
福音は、人間に対する神の最も大切なコミュニケーションです。 御子なる神イエスにおいて、私たちは、罪人の上に下される神の義の裁きから私たちを救う、神の愛と犠牲の啓示をいただいています。あなたが、まだクリスチャンでなく、どのように自分の罪が赦され、キリストに従えばいいかを知りたいなら、或いは、キリストの福音とは何かを知りたいと思われるなら、これはあなたのためのものです。
聖書は、Iコリント15:1-4で、福音とは何かということを言っています。
「兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと。」
聖書は、私たちが皆罪人であると言っています。これは、私たちが皆、神を怒らせたことを意味します。 私たちは皆、神の律法を破りました。したがって、私たちは罪を犯したことに関して有罪です。
この事のために、私たちは神から離れ、罪の中に死んだ者とされ、神を喜ばすことができず、永遠の滅びの罰を受ける者とされたのです。この裁きから逃れる唯一の方法は、キリストを受け入れ、イエスが十字架の上でなされたことを信じることです。
私たちは罪人なので、私たち自身の努力によって、この罪の罰を取り除くことはできません。ガラテヤ2:21にこう書いてあります。「もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死は無駄であったことになる」。
律法は、道徳的な行ないに関するものです。言い換えれば、私たちは自分の行ないによって義人になることはできません。なぜですか? 私たちが罪の中に死んでいるからです(エペソ2:3)。
これは、私たちが自分自身の罪を取り除くことができないので神がそれをされなければならないということを意味します。人となられた神であるイエスが、十字架にかかって私たちの罪をご自分の身に負われたのです(Iペテロ2:24)。イエスは私たちに代わって死なれました。イエスは私たちの上に下されるべき神の律法破りの罰の代価を払って下さり、十字架の上で死ぬことによって、父なる神の律法を全とうされたのです。
イエス・キリストを通してだけ、私たちは律法を破ったすべての者に下される罰から逃れることができるのです。あなたは神の公正な裁きから救われたいですか?
もし、クリスチャンになって、神に従いたいなら、あなたは神に背き、神の裁きのもとにあることに気付かなければなりません。あなたは、罪の罰を赦され、神の裁きから救われるために、十字架で死なれたイエスを仰ぎ見、イエスがなされたことに信頼しなければなりません。
これはイエスがなされた事に対する信仰だけによって成し遂げられるものです。あなたの誠意であれ、善行であれ、救われるために、イエスがなされたこと以外に、あなたが加えることのできるものは何もありません。
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