DesertWind・ニュースレター April, 2026
『十字架に立つ信仰の土台』(第一コリント2:1-5)
LVJCC 牧師:鶴田健次
私たちは普段、「信仰」という言葉をよく使います。しかし、「信仰とは何ですか」と聞かれると、意外とはっきり説明するのは難しいものです。教会に通うこと、祈ること、聖書を読むこと、良い行いをすること――どれも大切です。しかし聖書は、それらよりもまず「信仰の土台」が大切だと教えています。
家を建てるとき、一番大事なのは土台です。見えない部分ですが、ここがしっかりしていないと、どんなに立派な家でも崩れてしまいます。信仰も同じです。普段は問題なく過ごせていても、苦しみや試練に出会ったときに、「自分は何に支えられているのか」がはっきりします。
使徒パウロは、コリントの人々にこう語りました。自分は上手な話し方や難しい知識に頼らず、「十字架につけられたイエス・キリスト」だけを伝えると決めていた、というのです。それは、人の力ではなく、神の力に信仰を置いてほしかったからです。 今日はこの御言葉から、「十字架に立つ信仰」について考えていきます。
1.十字架だけに立つ信仰
パウロは、「十字架につけられたキリストのほかには何も語るまい」と決心していました。彼は本来、とても優秀で、たくさんの知識や経験を持っていた人です。それでも、それらに頼らなかったのです。なぜでしょうか。それは、人の力に頼って生まれた信仰は、同じように人の弱さによって崩れてしまうからです。
私たちも気づかないうちに、「これだけ祈ったから大丈夫」「こんなに奉仕しているから大丈夫」と、自分の行いを頼りにしてしまうことがあります。しかし、それらは体調や状況によって簡単に変わってしまいます。
しかし十字架はこう語ります。「あなたがどれだけできるかではなく、キリストがあなたのために何をしてくださったかが大切なのだ」と。だから信仰は、自分の頑張りの上に立つのではなく、ただ十字架の上に立つものなのです。
2.人の知恵ではなく神の力
パウロは、自分の語りが「分かりやすい説明」ではなく、「神の力によるもの」であったと言います。私たちは、物事が理解できると安心します。「なるほど」と思えると、納得できます。しかし人生には、どうしても理解できないことが起こります。なぜこんなことが起こるのか、どうして祈りがすぐに答えられないのか、説明できないことがたくさんあります。
そのとき、理解だけに頼っている信仰は揺れてしまいます。しかし神の力は、理解できなくても私たちを支えます。十字架は、一見すると弱さや敗北のように見えますが、そこに神の大きな愛と力が現れているのです。
ある人がこう言いました。「すべてが分かったわけではないけれど、十字架を見ると安心できる」。これは理屈ではなく、神の力による支えです。信仰とは、「全部分かってから信じる」ことではありません。「分からなくても神に任せる」ことです。そのとき、神の力が私たちを支えるのです。
3.揺るがない信仰の土台
パウロは、信仰がどこに立っているかが大切だと言います。信仰の強さよりも、「何の上に立っているか」が重要なのです。家の土台は普段見えませんが、嵐が来たときにその強さが分かります。同じように、人生の困難の中で、信仰の土台が明らかになります。
もし信仰が「理解できること」や「自分の努力」によって支えられているなら、思い通りにいかないときに崩れてしまいます。しかし、十字架に基づく信仰は違います。なぜなら十字架は、「神はあなたを愛している」「どんなときも共におられる」という確かな証だからです。
神はすべての理由を説明されるわけではありません。しかし、ご自分が苦しみの中に入って来てくださいました。それが十字架です。だから十字架の力とは、問題をすぐに解決する力ではなく、苦しみの中でも倒れないように支える力です。
ある信仰者はこう言いました。「信仰とは、すべてを乗り越える力ではなく、倒れずにいられる恵みだ」。これはとても分かりやすい言葉です。
私たちはもう一度、自分の信仰の土台を見直したいと思います。それは自分の努力でも、理解でもなく、「十字架につけられたキリスト」の上に立つことです。そのとき、たとえ嵐の中にあっても、私たちは倒れません。それは神が支えてくださるからです。
『神と共に歩む幸い』(その3)
証し:コールマン・善
しかし、私は、折られては再び接ぎ木されることを繰り返す生き方は勧めません。そのたびに受ける損傷は、やがて取り返しのつかないものになる可能性があるからです。
幸いにも、私たちは愛と赦しに満ちた神に仕えています。しかし、それは神の優しさに つけ込んでよいという意味ではありません。聖書は、主が赦されるお方であると同時に、 恐れるべきお方であることをはっきり示しています。
実際に聖書はローマ11章20節で、「思い上がることなく、むしろ恐れなさい」とはっきり語って います。異邦人として神の木に接ぎ木されたことを誇るのではなく、かつて切り取られ た神の民と同じ運命に陥ることを恐れるべきだと教えています。
21節にはこうあります。「もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも 惜しまれないでしょう。」この御言葉は私を恐れさせますが、同時に安らぎも与えます。 神はご自分の民であっても特別扱いされない、公平な神であることが示されているからです。私たちは皆、裁きの日に神の御前に立つとき、同じ基準のもとで裁かれるのです。
これらの御言葉は、私の心に本当の変化を起こしました。そして私は、接ぎ木されたい、 神につながっていたいと強く願うようになりました。自分の生き方が、永遠に神から離 れる一方通行であことも、プライドの覆いが取られてはっきり見えました。私は変わりたいと願いました。そこで毎晩聖書を読み、祈り、書き記し続けました。 BMTを終える頃には、一人の人間として、またイエス・キリストに従う者として成長したと感じました。
しかし、この道は決して簡単ではありません。この世はサタンの支配下にあり、神の愛 と憐れみから私たちを引き離そうとします。BMTを終え訓練を続ける中で、私は主と の関係を、深い交わりではなく知り合い程度のものにしてしまいました。以前と同じ生き方はしていませんが、救い主にふさわしい時間を捧げているとも言えま せん。「行いのない信仰は死んだ信仰だ」とよく聞きますが、私は長い間、その死んだ 信仰を実践してきました。
主のために生きない言い訳をするのは簡単で、最大の言い訳は「忙しすぎる」というも のでした。しかしこの証しを書きながら、その言い訳がどれほど弱いかに気づきました。 永遠の中では人生は一瞬なのに、創造主に感謝する時間さえ惜しんでいたのです。声に出して言うだけでも愚かに聞こえますが、それでも私は繰り返してきました。この 地上で行うことが、金銭的成功であれ一時的満足であれ、主との永遠の隔たりという代 償に値するものは何一つないと悟りました。
この証しを分かち合うことで、私は自分の経験を伝えると同時に、新しい年に神のため の時間を取るという決心を、自分と神の前で表したかったのです。新年の決意は続かな いと言われがちですが、母とデービットは、一年を通して主に献身することが可能だと示 してくれました。彼らにとっての献身は、聖書全体を読むことでした。私も共に行う機会がありましたが、 私は言い訳を選んでしまいました。
今年、私は行動する人間になりたいと願っています。それは主への信仰から始まります。 私のすべての行いが神に見られ、形づくられていることを知っています。言葉だけでは 足りません。今日語った言葉の実を携えてLVJCCに戻り、行動によって模範を示した いのです。
これからの一年、より意図的に、行動する神の民となる歩みに、皆さんも共に加わって くだされば幸いです
編集室・気まま便り
過日、故中村哲医師の事がテレビで放送された。アフガニスタンで医師を求めているという知らせに、幼い子供達を抱えていたが迷わず志願した。そして診察している内に薬が足りなくなり、やむなく日本に帰国して又帰るという事を繰り返すうちに、干ばつによる水不足が原因の病気が蔓延したのを見て、ここの人々には用水路を作る必要を感じて、土木工事の専門家に日本から来てもらい工事に携わった。
医療としては合計74万人を助けたそうだが、用水路建設により、数えきれない人々を助けた事になる。一人の人の良き行いが今でも現地の人々に受け継がれて、アフガニスタンから日本に医学の留学生が増え、地には農作物が育ち生活が向上しているとの事です。 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 日本人の神観と聖書の神の違いは?
A 「日本では古くから「八百万(やおよろず)の神」という言葉があるように、自然や祖先、土地などに神が宿ると信じられてきました。神は数え切れないほど存在し、それぞれが特定の役割や場所を持っています。山の神、海の神、田の神、さらには家や道具にまで神が宿ると考えられています。このような神々は、人間に比較的近い存在であり、私たちは祈りや供え物を通して、その加護を求めたりします。
また、日本人の神観では、「善か悪か」というよりも、「清いか汚れているか」という考え方が重視されます。何か悪いことが起こると、それは罪というよりも「穢れ」として捉えられ、清めることによって回復が図られます。このように、日本の神観は自然との調和やバランスを大切にする繊細な側面を持っています。
しかし、聖書が教える神はこれとは大きく異なります。聖書の神は唯一であり、天地万物を創造された絶対的な存在です。神は自然の中に宿るのではなく、自然そのものを造られた創造主です。聖書の冒頭に、「初めに神が天と地を創造された」とあるように、神は全ての始まりであり、全てを支配しておられる方です。
さらに、聖書の神は人格を持つお方です。ただ力を持った存在ではなく、愛し、語り、導かれる神です。同時に、この神は完全に聖なる方であり、罪を見過ごすことはなさいません。ここでいう「罪」とは、単なる失敗や過ちではなく、神に背く心や生き方を指します。聖書は「すべての人は罪を犯している」と教え、生まれながらのすべての人は神との関係が断たれている状態にあると語ります。
ここに決定的な違いがあります。日本の神観では、人は努力や儀式、行いによって神との関係を保とうとします。つまり、人が神に近づいていくのです。しかし聖書は、人は自分の力では神に近づくことができないと教えます。どれほど善い行いをしても、人間の善行では完全な聖さに到達することはできないのです。
そこで聖書は、驚くべきことを語ります。それは、神の側から人に近づいて来られたという事実です。神は人を愛するゆえに、イエス・キリストとしてこの世に来られ、人の罪を背負って十字架にかかられました。これは、人間の努力ではなく、神の恵みによって救いが与えられることを意味しています。
また、日本の神観では、神との関係は「お願いする」「守ってもらう」という側面が中心ですが、聖書では神は「天の父」として描かれています。神は遠い存在ではなく、私たち一人ひとりを深く愛し、関係を持とうとされるお方です。
まとめると、日本人の神観は「多くの神々と調和しながら生きる」ことを重んじるのに対し、聖書の神は「唯一の創造主であり、人格的に人を愛し、救いへと導かれる神」です。そして、人が神に近づくのではなく、神が人に近づいてくださったという点が最も大きな違いです。
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