ラスベガス日本人教会
DesertWind・ニュースレター September, 2021
『狭い門から入りなさい』(マタイ7:13 – 14)
LVJCC 牧師:鶴田健次
聖書の言葉は、そのすべてが神の言葉であり、天から私たちに向けて語られた言葉です。ですから、私たちは聖書の御言葉を神の言葉として、私たちの全存在を傾けて聞かなければなりません。それが聖書を読むときの私たちの姿勢です。
さて、マタイ7:13-14は、クリスチャンでない方にも馴染みのある言葉です。それは、おそらくアンドレ・ジッドの名作『狭き門』の影響でしょうか。
私たちは難関の大学に入る際に、「倍率10倍の狭き門」などと言ったりします。多くの人がその大学に入ることを望みますが、合格するのが難しい。そのような時に、「狭き門」という言い方がされます。
しかし、イエス様が言ってらっしゃる狭き門は、そういう意味ではありません。むしろ、多くの人が入ろうとしない門です。また、入るのが難しいわけでもありません。では、イエス様が言ってらっしゃることに耳を傾けてみたいと思います。
① あなたの前にある二つの門
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)
イエス様はここで、私たちの前に二つの門を示しておられます。それは、滅びに至る門と、いのちに至る門です。そして、滅びに至る門は大きく、その道は広いと言われています。
また、いのちに至る門は小さく、その道は狭いとあります。大きな門と広い道は滅びに至り、小さな門と狭い道はいのちに至るということです。
別の言い方をすれば、大きな門と広い道は地獄に行き、小さな門と狭い道は天国に行くということです。そして、イエス様は私たちを、狭い門から入りなさい、と招いておられるのです。
第三の門とか、中間の道とかいうものはありません。また、どちらも選ばないということもできません。片方を選ばないとすれば、自動的にもう片方を選ぶことになります。それは、自分を滅びに導く広い門か、それとも、自分を永遠の命に導く狭い門か、そのどちらかなのです。
② 二つのものの比較
では、この「狭い門」とは何を指しているのでしょうか。それはイエス様ご自身を指しています。そのあとの「狭い道」も同じです。ヨハネ10:9に「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます」とあります。
同じくヨハネ14:6には「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とイエス様は言われました。イエス様ご自身が、私たちが救いに至る唯一の門であり、道なのです。
さて、ここでイエス様は、ご自分を命に至る狭い門、また狭い道に例えながら、滅びに至る大きな門、また広い道と対比しておられますが、大きな門、広い道とは何でしょうか。
ここには二つのことが示されています。その一つは、パリサイ人たちです。彼らの道は、律法を守ることによって神様に義と認められ、救いに至ろうとする道です。それはまた世の中の多くの宗教が示す道でもあります。
次に、もう一つ、この大きな門、広い道は、この世の栄華を求める人々が通る門であり道です。いつの時代でも、この大きな門に人々は殺到します。
この門に殺到する人は、そもそも救いとか、永遠の命など求めてはいないのです。救いが必要だとも思っていません。イエス様は、それは結局の所、滅びに至るのだと言われるのです。
③ 天国への道は一本道
ところで、皆さんの中には、自分がしたいようにではなくイエス様に従わなければならないのであれば、やっぱり狭い門ではなくて広い門の方が良い。狭い道ではなくて広い道の方が良い。そう思う方もおられるかも知れません。しかし、勘違いしないで下さい。
この狭い門も、そこから続く狭い道も、自分の力で門を開き、ひたすら努力をして歩まなければ救いに至らない、ということではないのです。
イエス様ご自身が門であり、道なのです。ということは、私たちがこの門を通る時も、この狭い道を歩む時も、私たちは一人で頑張るのではないのです。私たちを招いておられるイエス様が共にいて下さるのです。
これがとても大事なことです。イエス様が私たちを招かれたということは、その招きに応えた者に対して、イエス様が共にいてその人を通して働かれるということです。
天国への道、救いへの道は、自分の力で切り開いていくのではありません。道は向こうから開かれてくるのです。イエス様が道だからです。
ですから、この狭い道は、確実に私たちを永遠の命へ、救いの完成へ、また神の国へと導いてくれるのです。私たちが狭い門から入れば、その後は神の国へ通じる一本道なのです。
Desert Wind 2021年 9月号 案内・ニュース
◆ 9月5日(日)礼拝後ソーシャルルームにて、ポットラックで日本に帰られる高田みゆき姉妹の歓送会が持たれます。日本での信仰生活が守られますようにお祈りください。
◆ 9月12日(日)礼拝後に日英合同で役員会を行います。 役員の働きのためお祈りください。
◆ 9月19日(日)礼拝後に婦人会が持たれます。
◆ 9月26日(金)礼拝後に持ち寄りランチをいただいた後、礼拝堂にて映画鑑賞会を開催致します。友人知人をお誘いの上多数のお越しをお待ちしています。題名は追ってお知らせします。
◆ 夏の期間は、毎週月曜日のZoomでの聖書クラスは9:00AMから持たれます。どなたでもご参加ください。
『希望は失望に終わらない』(下)
証し:中島マリ子
その頃に和歌山教会に佐古純一郎牧師が来られてお説教をして下さいました。タイミングよく中島の弟が佐古純一郎先生が書かれた、「現代人は愛し得るか」という本を貸してくれて、読んだときに、聖霊が働き、「私が幼い頃から漠然と求め続けていた、真実で永遠に変わらぬ神様にようやく出会えた」と思いました。
それから「未知の外国の事やこれからの人生の事をこの限られた小さな頭で一生懸命想像しても無理な事。それよりも私のこれからの人生全てをこの神様にゆだねて生きていこう」と思いました。1969年のクリスマスに洗礼を受けた時、感謝と喜びが心にあふれて涙が滝のように流れました。
その時与えられたみことばがローマ書5章2節から5節のみことばでした。 「またキリストによって、今私達の立っているこの恵に信仰によって導き入れられた私達は、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら私達に与えられた聖霊によって神の愛が私達の心に注がれているからです。」
当時はまだ聖書を理解していなかったので、「患難さえも喜んでいます。」というのは理解し難い事でしたが、「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す。」という箇所は外国に住むという事は並大抵なことではないと苦労を覚悟していましたので、身の引き締まる思いでこのみことばをしっかりと握り締めて、翌年1970年5月に一時帰国した中島と和歌山教会で結婚式をあげ、6月はじめにトロントに渡りました。
それからの私の人生は言語、文化、生活様式全てが違う。そして10月から4月まで寒いという気候の変化に適応するのは大変でしたが、1年目より2年目というようにチャレンジしていけば、そこに神様が道を開いてくださるという事を実際に経験することができました。
そして神様を信じて生きていったら、どのような試練や困難にあっても乗り越える力と知恵を与えて下さるし、逃れる道も備えて下さいました。そして乗り越えた後には新たな世界が広がり、人生に希望を抱く事が出来、この希望は決して失望に終わることがないという神様の約束に大いに励まされて今日まで生きて来ることができました。
クリスチャンになってから変化したことは、「人の目や批判を全く気にしなくなった」という事です。人々の中傷に一気一憂していた生活から、全知全能の神様がこの世の全てを支配しておられると思うと何も怖くなくなったのです。
生まれつき劣等感の強い性格で、最悪の事態を想定する心配性でしたが、「だから、明日のための心配は無用です。明日の事は明日が心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:34)のみ言葉が心に響き徐々に心が落ち着いていきました。また自分の心の奥に潜んでいる残酷な思いと自分の尺度で人を量り批判していた事に気がついた事もありました。
色々な事情が重なり、教会を去る人達を身近にみて、ただ神様だけを見上げて生きていかないと、人はすぐに罪に紛れた道を歩んでしまう弱い存在であるという事。そしてそのような存在である事を神様は認めて下さっている。それを聖書を学ぶことによってわかりました。
又修行を積んだり、善行をする事が救われる条件ではなく、「イエス様を救い主として信じる信仰だけで救われる」という事。そして「あなた方が私を選んだのではなく、私があなた方を選んだのだ」という事等々を理解した時に、今迄神様に対して抱いていた先入観が打ち砕かれました。そして全ての縛りから解放され、広く深い神様の愛の中に安心して身を委ねて歩む心の平安を得ました。
現在娘1人と息子2人が夫々結婚し家庭を持ち、日系アメリカ人として社会に貢献し、6人の孫が与えられ、孫達の成長を眺めつつ、喜びと共に祈りの日々を過ごしている事を感謝しています。
編集室・気まま便り
30年余り前に購入したビデオカメラで収録した物をDVDに焼き付け直してもらった。子供達が小中学校の頃の日常生活をあれこれ撮ったものを見て、昔の生活が蘇ってきた。
和やかに食事したり、家の修理を家族全員でした時の事、釣った大量の魚の鱗を取っている様子等々が映し出された。
最も夫婦喧嘩や深刻な状況は撮っていないが、今見ると自分で思っていたよりずっと良き家族の営みであったと思えて来た。 人生には山あり谷あり。どこの家庭でも夫々に問題は抱えている。
その問題を家族全員が助け合い支え合って超えて来た。私達の過去を振り返ると「砂の上の足跡」の詩のように、そこには神様の足跡のみが残っていると思い感謝があふれてきた。
MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q なぜ神はエデンの園に善悪の知識の木を置かれたのですか?
アダムとエバは、神から「取って食べてはならない」と禁止されていた「善悪の知識の木」の実を取って食べてしまい、神に対して罪を犯してしまいました。そのために彼らの中に罪が入り込み、死ぬ者となり、それから生まれるすべての人間がその運命の基に置かれることになるのです。
そこで誰もが疑問に思うのです。では、なぜ神はわざわざ、そのような危険な木を生えさせたのか?この木がなければ彼らは罪を犯さなかったであろうに・・・・と。
では、その答えを考える前に、神とはどんな方であるかを考えてみたいと思います。まず初めに思い浮かぶのは、神は愛であるということです。では愛とは何でしょう。人はどのようにして本当の愛を知ることができるでしょう。
たとえば、神が愛することしかできないようなものとして人を造られたとしたら、人は何の選択肢もないまま、愛することしかしません。愛するという選択肢しかないのですから、それは主体性も自由もない機械的な愛であり、本物の愛ではありません。
本物の愛は、機械的な愛ではなく、強制される愛でもなく、自分で決断し、相手のために自らを捧げることです。愛とは主体的な行為であり、自らの自由意志をもって選び取るものです。
神が、エデンの園に善悪の知識の木を置かれたのは、人が、神に命じられたとおり、自ら進んで命の木を選ぶという自由を与えるためでした。初めから命の木しか置かなければ、確かに人は善悪の知識の木を選びようがありません。
しかし、神は善悪の知識の木を置くことによって、人が自由意志を行使できるよう選択肢を与えられたのです。しかも、その禁止令(取って食べてはならない)は、神と人間との基本関係を明らかにするためのものでした。
つまり人間は自由であるが、神の戒めに従うという神への従順こそが人間に真の自由と幸いをもたらすものであり、神と人間の基本関係であることを教えようとされたのです。
神は、確かに人が善悪の知識の木から取って食べることをご存知でした。しかし同時に、取って食べないこと、つまり人が自ら真実を選ぶことを期待しておられました。
また人は、善悪の知識の木から取って食べればどうなるかを知っていました。にもかかわらず、人は目の前の幸せに気がつかないまま、神への従順を捨て、神との人格的交わりを失い、霊的生命の終わりをもたらすことになるのです。
ところが、善悪の知識の木の実を食べ、霊から肉へと転落した時、人は、真の幸福が何と価値あるものか、真の愛が何と尊いものであるかを悟るようになりました。
そのことに自分で気がついて欲しいゆえに、神は、人が自らのもとを去って行くのを、そのままにされたのです。その代わりに、神は堕落した人間に救いの道を残されました。
人が自分のもとを去って行っても、帰って来るための道を残されたのです。人がエデンから追放された時、神は命の木への道を守られました。
ノアの洪水の時も、箱舟を用意し、その中に入るようにと呼びかけられました。神は、あなたを愛しておられるからこそ、あなたが自分の自由意志を行使し、神の愛を選ぶことを待っておられるのです。
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