ラスベガス日本人教会
DesertWind・ニュースレター August, 2021
『救われた者の生き方』(ローマ書12:3-21)
LVJCC 牧師:鶴田健次
パウロはローマ書12章1節で、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と勧めました。この献身の勧めを理解するためには、1~11章にある救いの教義を正しく知る必要があります。
パウロは、人はキリストを信じる信仰によって救われると教えました。ところが、ただキリストを信じるだけで救われるために、神はその独り子の命を犠牲にされたのです。
この重大な事実をもとに、キリストを信じて救われた者は、心からの感謝をもって自分自身を神に捧げることが当然の応答であり、最も理にかなった生き方ではないかというのがパウロの主張です。
また、この献身には、一度主に自分自身を捧げることと、その後も捧げ続けていくという二つの面が含まれています。だから私たちは「この世と調子を合わせてはいけない」のです。
そして、自分の中にある間違った考えを御言葉に基づく正しい考えと入れ替えながら聖霊によって造り変えられ、救われた者にふさわしい生き方をする者になっていくのです。
① 謙遜の勧め
まずパウロは、1節の献身の勧めを土台に、全てのクリスチャンに謙遜であるようにと勧めます。しかもそれは単なる謙遜の勧めではなく、与えられた賜物を互いに尊重し合い、お互いのために用いることによって謙遜になりなさいというものです。
神の教会を建て上げるためには、各自が賜物を用いた奉仕を心がけることが大切です。体に多くの器官があっても、すべての器官が同じ働きをしないのと同様に、教会にも様々な器官が必要なのです。
体には目も耳も口も鼻も必要です。また手も足もなくてはなりません。そうしたすべての器官が一つとなってはじめて健全な体として機能するのです。これがキリストのからだ神学です。
ですから本当の一致というのは、みんなが同じ事を考え、同じ事をするところにもたらされるのではなく、一致の中にある個人差をお互いが認め合うところにもたらされるものです。
つまり、それぞれの違いが、衝突を招くための違いではなく、お互いの弱さを補い、より幅のある働きをするための違い、あるいは、お互いの違いを通して学び合い、励まし合い、助け合うための違いであることに気づくとき、そこに本当の謙遜と自由と一致が生まれるのです。
② 本物の愛に生きる
教会は、愛によって特徴づけられる所です。人々が最も必要としているものは愛です。しかし、この世にその愛を見出すことは困難です。ですから、教会は人々の必要に応え、本物の愛を証しする場になるべきです。
教会は、愛のある人々が集まっているから愛の共同体なのでしょうか? そうではありません。人は誰でも自分のことしか考えない自己中心な罪人です。ところが、そんな罪人が神の愛に捕えられ、神の愛をいただくことで少しずつ愛の人に変えられていき、そうして教会は愛の共同体になるのです。
9節を見ると、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい」とあります。この「偽りがあってはなりません」というのは、演技をしてはならないという意味です。世の中には演技の愛が何と多いことでしょう。しかし、教会では愛に偽りがあってはなりません。本物の愛が必要なのです。
では本物の愛とは、どんな愛でしょう? ここにその一つの特徴が描かれています。それは「悪を憎み、善に親しむ」というものです。人間は非常に弱く、罪の力は強力です。そんな私たちがすべきことは悪を憎むこと、そして、いつも善に密着することです。それが本物の愛に生きる秘訣です。
③ 真の勝利者の生き方
自分を愛してくれる人を愛することはできても、自分に敵対する人を愛することはなかなかできません。そのような人たちに対して、クリスチャンはどんな態度を取ればいいのでしょうか。
14節を見ると、「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません」とあります。また21節には、「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」とあります。
クリスチャンは自分に敵対する人を祝福すべきであり、呪ってはいけないのです。悪に対して悪をもって報いるのではなく、善をもって悪に打ち勝たなければなりません。そこで私たちは思うのです。そんなの無理です。自分に悪意を持つ人をどうやって祝福できますか。
しかし、クリスチャンはそうすべきなのです。イエス様の尊い血潮によって罪を赦され、神の子供とされた者は、自分の敵を愛し、迫害する者を祝福すべきなのです。
それがクリスチャンの勝利の道だと聖書は教えているのです。なぜなら、神の御心を行なう者の上に、神が勝利の御業を成して下さるからです。
Desert Wind 2021年 8月号 案内・ニュース
◆ 8月1日(日)は日英合同礼拝です。
◆ 8月8日(日)の礼拝後に日英合同で役員会が持たれます。 役員の働きのためお祈りください。
◆ 8月15日(日)の礼拝後に婦人会が持たれます。 多数ご出席くださるようお願いいたします。
◆ 夏の期間は、毎週月曜日のZoomでの聖書クラスは9:00AMから持たれます。どなたでもご参加ください。
◆ 8月20日(金)6:00PM-9:00PM、8月21日(土)10:00AM-1:00PMにSCCRのオンライン・リトリートが持たれます。講師はホノルル教会の関真士牧師で、「イエスとの出会い〜御言葉の中に飛び込もう!」という主題で3回のメッセージをして下さいます。また奥様の関れい夫人が証しをして下さい
『希望は失望に終わらない』(上)
証し:中島マリ子
私は1946年3月5日東京で生まれました。父は若い時に肋膜を患ったために兵役を逃れました。そして繊維関係の仕事をしていた母の叔父の要請で戦争中は満州に行き、その後上海で暮らしていました。
ですから2才年上の兄は満州生まれでした。幸い上海は港に近かったので戦後引き揚げ船に比較的早く乗ることができ、1946年1月に母は8ヶ月の大きなお腹をして日本に無事帰国し、3月に私が生まれたという事です。
そんなわけで私の幼少期は戦争で焼け野原になり、何もかも失った人々が必死で立ち直ろうとしている時でした。
東京の目白に住んでいましたから、時々池袋に買い物に出るとカーキ色した軍服を着た兵隊が戦争で手足を無くした人もいて地べたに座って物乞いしている姿と幼い男の子がぼろぼろに破れた服を来て一生懸命靴磨きをしていました。アコーデイオンの奏でる哀愁を帯びた音楽とともに60年経った今もはっきり覚えています。
私が初めて教会を訪ねたのは小学2年生の時でした。兄の友達で北海道から移ってきた家族がいて、大変明るく逞しいお母さんでしたが、ある日私を一緒に目白の椿山荘の向かいにあるカソリック教会に連れて行ってくれました。
名前は東京カテドラル聖マリア大聖堂・関口台教会と言ったと思います。どんな子供でも受け入れ包み込んでくれるようなサンデースクールの先生に出会い、この世にこんなにも優しい人がいるのだと思いました。
お祈りの仕方を丁寧に教えてくださり、教会から帰った後、家で誰も見ていない所で一人で手を合わせてお祈りをしたものでした。
伝道の書12:1「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」のみことばのとおりです。クリスチャンホームでは当たり前の家族で一緒にお祈りしたり、神様について話し合ったり、教会に一緒に来て礼拝を守り、サンデースクールで学ぶ事は私の経験から大変重要だと思いました。
高校を卒業した後、父の仕事の関係で和歌山に移りました。そこでミッションスクールの短大保育科を卒業して、和歌山市内の幼稚園で4年間先生として働きました。
1968年のクリスマスに後に結婚した中島という人と出会いました。そして「明日キャンドルサービスがあるので僕が通っている教会に来ないか」と誘われるままに訪れたのが、日本キリスト教団和歌山教会でした。プロテスタントの教会は初めてだったので少し緊張しましたが、皆さんが暖かく迎えて下さいました。
12月24日、クリスマス・イブの夕方にキャンドルサービスの礼拝をして、終わった後は若い人達がキャロリングといって数台の車に分乗して、教会員の入院している病院、老人ホーム、自宅を回り、ロウソクの明かりを頼りに賛美歌を歌いました。
終わって教会に帰ったら、婦人会の方々が暖かいお汁粉を用意してくださっていて、冷え込んだ体を暖める事ができました。その時牧師さんがお祈りするのを初めて聞いて感動しました。
というのがカソリック教会では決まり文句のお祈りがあるだけで、神様に自分の言葉で語りかけるようなお祈りはしなかったからです。
それから 中島との交際が始まったのですが、彼は会った時すでにカナダのトロントに移住することを決めていました。
初め聞いた時は驚きましたが、私の父が欧米崇拝の人で常にアメリカの本を読み情報を得ている人でしたので、私はその影響を受けて育ったので、外国には強い憧れを持っていて、旅行でよいから将来行きたいとは思っていたところに外国に移住する人と出会ったわけです。
翌年69年7月に中島は単身トロントに渡りました。それから私は大変な日々を送ることになったのです。それは甲状腺の病をもつ母が一人娘の私が結婚して外国に住むことを大変悲しみ心配し反対していました。
また中島の家を訪ねるといつでも大歓迎を受けるという天国と地獄を往復しているようでした。私自身も段々日が経つにつれて外国生活に対する不安が募ってきてあれこれ悩んでいました。 (つづく)
編集室・気まま便り
日本人の笑顔について、1 位は店員の接客時の笑顔がよい。2位は酔っぱらった時の笑顔が自然でよい。3位、主に地方に行った時見かける人々の自然で温かい笑顔。
又外国人には理解できない笑顔と習慣の1位は口を手で隠して笑うしぐさ。2位は笑顔で謝ったり否定する。3位、真剣な話をしている時に笑う。愛想笑いと照れ笑いと作り笑いは外国人にはおかしな感じにとられたり、嘘っぽく感じたり、酷い時は誤解されたりもする。
習慣というのは恐ろしい位私達の意識の中に沁み込んでいる。素直な感情表現と発言の自由な国に住むようになってから、習慣の元である価値観事態が変わった。MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 聖書的には地球の起源をどう考えるべきですか?
地球は明らかに来るべき消滅の徴候を見せています。エントロピーの法則(閉鎖系における混沌は時とともに増大する)が示すように、地球上のすべてのものは上方ではなく下方へ向かっているという悲しい現実があります。進化論の主張に反し、自然は生物も無生物も創造できないばかりか、改良すらできないことを多くの自然科学者たちは確信するようになりました。
太陽系の恒星である太陽も、毎秒 400 万トンにものぼる膨大な質量を失いながら巨大な核エネルギーを発散していますが、その損失は取り返すことができません。
こうして、高レベルのエネルギー系は必然的に低レベルのエネルギー系まで下げられており、その法則は生物系においても同様で、人間も動植物も進化論の必然的進歩という考え方とは逆に、漸進的無秩序に向かっていることを観察事実は物語っています。
また、比類なき神の言葉である聖書は、その創世記において、宇宙、地球、またすべての動植物、および人類が 6 ~ 7000 年前に 6日間で創造されたことが描かれていますが、それに対して、この世の科学は、宇宙と地球には 40億~140億年の歴史があり、人類は少なくとも 50万年以前から地上に存在していたとします。
また聖書は、あらゆる生命が神の創造によるものであると教えていますが、それに対して、科学は、あらゆる生命が進化の結果であると主張します。
ニュートンは、りんごが木から落ちるのを見て、地球に引力があることを発見しましたが、なぜ地球に引力があるのでしょう。しかも、もしこの引力が今以上に強ければ、すべての物が重過ぎて非常に不自由です。
また、もしこの引力が今より弱ければ、あるいは引力がなければ、すべての物がフワフワ浮いて困ってしまいます。ところが、この世の科学は、私たちの生活にほどよい不思議な引力がなぜあるのかという問いに対し何の答えも持っていません。
また地球の動きひとつを考えてみても、それは謎に満ちています。毎日一回転する(自転)ので、昼と夜があり、私たちの生活に便利です。
当たり前のように繰り返される毎日の睡眠と活動が、この昼と夜の存在と見事に調和してることを考えれば、これらすべてのものが偶然の一致と考えるより、同じ創造者の業であると考えるほうが理にかなっているように思えます。
地球の自転の原動力は何でしょう。すべての天体の動きの原動力は何でしょう。科学はその答えを知りません。時計の針は、正確に時間を刻みながら回りますが、ネジをまくか電池を入れなければ動きません。また、どんなに正確だといっても、一ヶ月に 1 、 2秒の狂いは生じるでしょう。
ところが、地球は 9億1千万kmもある太陽のまわりを、私たちに分かる如何なる原動力も使わずに、時速 10万3880 kmの速さで回り続け、一年かけてもとの位置に戻ってくるのに1秒の狂いもないのです。
時計でさえ、誰かが作らなければ、偶然に出来上がることなど考えられません。ましてや時計よりも遥かに正確で巨大な地球が、誰の手にもよらず、ひとりでに偶然に出来上がることなど考えられるでしょうか。聖書は、この美しい地球が、偶然の産物ではなく、至高者なる神の創造によるものであることを明らかにしているのです。
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