ラスベガス日本人教会
DesertWind・ニュースレター February, 2021
『信仰が試されるとき』(ダニエル書3:13-30)
LVJCC 牧師:鶴田健次
紀元前605年、エホヤキムがユダ王国の第18代目の王であったとき、バビロン帝国の王ネブカデネザルはユダ王国の首都エルサレムを征服し、エホヤキムとその親族、貴族の中から優れた若者たちを人質としてバビロンに連れて行きます。
その人質の中に、ダニエル、シャデラク、メシャク、アベデネゴという4人の優秀な若者がいました。神はこの4人に特別な知恵と知識とを与えられたので、バビロンのどんな博士たちも彼らに並ぶ者はいませんでした。
ネブカデネザルは、権勢を誇るために金で自分の像を作り、すべての国民にそれを拝ませ、拝まない者は燃える炉の中に投げ込むと宣言しました。
ところが、ある日、シャデラク、メシャク、アベデネゴの3人がこの像を拝んでいないところを見つかり、王に訴えられてしまいます。王は激しく怒り、3人を呼びつけて、もう一度チャンスを与えるので金の像を拝むように、さもなければ燃える炉の中に投げ込むと言いました。
しかし、王に対し3人は、「もしそんなことになれば、私たちの神は、その燃える炉から私たちを救い出して下さいます。たとえそうでなくても、私たちは金の像など拝みません」と答えるのです。
① 信仰生活には戦いがある
このように、ダニエルと、シャデラク、メシャク、アベデネゴの4人の若者たちは、エルサレムを離れ、異教の地で突然、思いがけない窮地に立たされてしまいます。
それは偶像礼拝を強いられる迫害でした。神を知らないバビロン人にとっては何でもないことが、神を信じる者には大きな問題、命にかかわる問題でした。このように、神を信じるがゆえに直面する問題、これを信仰の戦いと言います。
かつてこれと似た状況が、韓国でもありました。1910年から1945年の間、韓国は日本の統治下にありました。その時、日本は神社をあちこちに建て、韓国人にそれを拝むように強制しました。拝まされた人々の中にはクリスチャンもいました。偶像礼拝を強いられるということは彼らにとってどんなに屈辱的だったことでしょう。
今は、日本でもアメリカでも、信教の自由がありますから、何を信じても命の危険にさらされることはありません。しかし、それでも熱心に生きようとするクリスチャンにとっては、この偶像礼拝の問題は今も大きな問題、また信仰生活の戦いです。
② たとえそうでなくても、という信仰
金の像を拝まなかったために、燃える炉に投げ込まれることになったシャデラク、メシャク、アベデネゴの3人は、ネブカデネザルにもう一度チャンスを与えられ、もし金の像を拝むなら助けてやるが、拝まなければ燃える炉に投げ込むと言われます。
ところが彼らは、ネブカデネザルに対して、「王様、そのようなチャンスは要りません。もしそんなことになれば、私たちの神は、その燃える炉から私たちを救い出して下さいます。たとえそうでなくても、私たちは金の像など拝みません」と答えるのです。
彼らの信仰には、神に対する徹底的な信頼があります。つまり自分たちを救ってくれれば信じるけれど、救ってくれなければ信じないという人間中心の信仰ではありません。たとえ神がどうされようが、神はどこまでも神であり、全ての主権は神にあるのだという神中心の信仰、それが彼らの信仰でした。
ネブカデネザルは、怒りに満ち、炉の温度をいつもの7倍に上げるように命じます。そして、3人を服のままロープで縛り炉の中に投げ込みます。ところが、王が炉の中を覗くと、炉の中の3人が火の中を歩き回っていたというのです。
③ 火の中に入られるキリスト
ネブカデネザルは、炉に投げ入れられたのは3人の筈なのに、炉の中には4人の姿が見える。そして4人とも何の害も受けず、火の中を歩いている。しかもその4人目は神の子のようだと言って驚いています。
まさに、この神の子というのは、『生ける神の子キリスト』を暗示しています。本当ならば、燃え盛る地獄の火の中で、永遠に滅ぶべき運命にある私たちを救い出すために、自らその火の燃える炉の中に入って来て下さった。それが十字架につかれたキリストの姿です。
また同時に、火の中にいる神の子キリストが暗示するものは、私たちが人生の試練という炉の中で苦しむとき、キリストがその試練の中に来て下さって、私たちを救い出して下さるということです。
皆さんは、燃える炉の中を通るような試練や困難を経験されたことがありますか。あるいは、「私は今その試練の中にいます」という方がいらっしゃるかも知れません。
であれば、どうぞその燃え盛る炉の中に共にいて下さるキリストに目を向けて下さい。キリストは、決してあなたを見放されることはありません。必ずあなたを支え、導き、助けて下さる。それがこの物語が語りたいメッセージです。
Desert Wind 2021年 2月号 案内・ニュース
◆ 2月07日(日)日英合同礼拝が持たれます。
◆ 2月13日(土)7:30AMより、当教会駐車場にて朝市が催されます。日本のいろいろな興味深い物が販売されます。
◆ 2月14日(日)の礼拝後は日英合同役員会が持たれます。役員会の働きのためにお祈りください。
◆ 2月28日(日)1:30PMよりLiving Trustの説明会が持たれます。日本語の通訳付きです。
◆ 新型コロナの一日も早い収束を祈りましょう。
『すべてが神様の御手に』
証し:David Love
「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ1:6)
生まれ変わった信者として、あなたは、「主よ、私の人生をあなたにお捧げします。次のステップは何ですか?」と神に問うている自分に気づいたことはありませんか?
私は救われて間もなく、それと同じことを問うている自分に気づきました。しかし直ぐに答えが与えられたわけではなく、それを求め続けていた期間は、私にとって成長の過程でした。
そして、私に言えることは、これまでの旅路(11年)の中に主の御手が働いていたことを見ることができるということです。
私の次のステップ…….まず私が最初にやろうとした最も重要なことの一つは、神のために自分の時間を空けるということでした。それが何であろうと、必要があれば私は何でもしました。
洗礼を受けた教会で、私はさまざまな方面の奉仕を始めました.。私はサテライトキャンパスで礼拝のホストまでしました。
それは内向的な私には想像もできないことでした。 400人の前で話すことなど死ぬほど怖いことでした(笑)。最初は簡単ではありませんでしたが、それをしていくうちに私は成長し、福音を分かち合うことが大好きだったので、次第に快適な気持ちになりました。こうして今振り返ると、私は神の訓練に心から感謝します。
そのように私は福音を分かち合うことを本当に楽しんでいました、そして、そうすることへの私の情熱はますます強くなっていきました。しかし、疑問もありました。
福音を分かち合うための正式な訓練を受けたことがなかったことで少し劣等感を感じていました。しかし、主は御言葉で私を安心させて下さいました。
そして、マタイの福音書28:19-20にある宣教の至上命令が私の心の奥深くに届きました。そして私は、「主よ、あなたが望まれるなら、どんな事でも私をお用い下さい」と祈りました。そして、なんと主はそのようにして下さったのです!
2018年、私は日本人の美しいクリスチャン女性と出会いました。私は直ぐに彼女との関係を感じました。私たちは交際を始め、お互いの教会を訪ね、お互いの牧師に会いました。
彼女の教会は私の教会よりかなり小さかったのですが、私はその教会を訪問することが楽しみでした。
優子はまた、ケンジ牧師の話とその歩まれた道を少し話してくれ、私は凄いなと思いました。私はケンジ牧師をとても尊敬していて、彼は神の人であることが分かりました。
私は優子との本当のつながりを感じ、そしてこれは確かに神の導きだと思いました。それで、私はためらうことなく彼女にプロポーズし、2019年2月にケンジ牧師の司式で私たちは結婚しました。
結婚した当初、私たちは両方の教会に通い続けました。私は私の教会のスタッフであり、優子も自分の教会に深く関わっていました。
私たちは一緒に礼拝を守りたかったのですが、それがどのようになされるべきか確信が持てませんでした。私たちは祈り、すべてを神の御手に委ねることにしました。
神様のタイミング…… 2020年の初め、祈りに多くの時間を費やした後、私は自分の教会のスタッフとしての立場を辞任し、新しいシーズンを迎えることを決心しました。
新型コロナが登場してから間もなくのことです。教会は一時的に閉鎖され、それは大きなショックでした。
しかし、家で集会を守り、信仰の歩みをスキップすることはありませんでした。ラスベガス日本人教会が、他の多くの教会より早く再開したとき、私は優子と一緒にそこでの奉仕に参加し始めました。
その時から、すべての事が自然に一列に並び始めたように見えました。ある日、ケンジ牧師と私は一緒に昼食をしながら、私が英語のミニストリーをリードするとしたらどのようになるかを話し合いました。
それで、妻と話し合い、祈り、私たちはこうして今日ここにいます。私たちは一つの部屋を改装し、素晴らしい英語部の礼拝堂を作りました。こうして神様を称えるために、二つの文化が一つの目的のために並んでいるのです。
最後に、私は皆さんに聞いて頂きたいです。それは神は素晴らしいということです。
神は私たちの中に大きな可能性をご覧になるだけでなく、そのため
に共に働き、私たちを主の似姿に変えて下さるのです。
イエス様は私たちをキリストにあって完全な者として父なる神に示されます。神はあなたを神の作品として造り始められました。そして神はそれを完成させて下さるのです。
編集室・気まま便り
インドの貧困層のため家事代行サービスの会社を現地に起業した日本人女性、水流早貴(つる さき)の事が紹介されていた。
インドを訪問した時に貧困地帯に住み子供を持つ女性が低賃金で重労働を強いられている現状を見て、何か自分にできないかと考え、自ら日本の家事代行サービスの会社に勤めて学び、再びインドに戻って起業した。
コロナウイルスで休業期間も無事きりぬけ、今は貧困地域を回って雇用を増やしている。
収入が倍増したと現地の女性に大変喜ばれていた。日本式の清掃の仕方は評判がよく、コロナ禍で衛生面に感心が深まり、需要が伸びたとの事。
「最も小さい者のひとりにしたのは、私にしてくれたこと。」マタイ25:40
MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 反キリストが現れる前に背教があると聞きましたが・・
A 聖書の終末預言によれば、反キリストが現れる前に背教が起こることについて次のように予告されています。
「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、先ず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。」
(第二テサロニケ2:3)
この「不法の人」とは「反キリスト」のことです。彼はクリスチャンには忌み嫌われますが、世界中の人々が彼を支持し、世界の総督として迎えられるはずです。それはちょうどヒトラーが歓呼の声で民衆に迎えられ、政権を手に入れた時のようかも知れません。
では反キリストが現れる前の「背教」とは何でしょうか。もし現代が背教の時代なら、どういうところに背教の具体例を見ることができるでしょうか。
背教には様々な聖書的な説明が必要でしょうが、黙示録3章のラオデキヤの教会に対する記述をもとに考えると、霊的なことを軽んじて、この世的な活動を重んじる惑わしが背教の初めであることが分かります。その行き着く先はキリストの否定です。
実際、背教の時代は1900年ごろから始まっていると言われています。具体的な事例を言えば、1910年にアメリカの長老派と呼ばれるプロテスタント教団の会議では、次の5つの全てを信じる人々をキリスト教原理主義者として規定し、極端なキリスト教の狂信の例としました。
1)聖書が神の霊観を受けた書物であること
2)イエスが処女マリアから生まれたこと
3)イエスが罪の代価となり十字架上で死んだこと
4)イエスの復活
5)イエスの行った奇跡が事実であること
この会議が行われる少し前までは、この5つは殆どのクリスチャンたちにとって当たり前のことでした。
ところが現代においては、カトリックはもとより、プロテスタントの指導者レベルにまで自由主義神学の影響が及び、聖書信仰から逸脱するようになったのです。教会の世界的な連帯活動もちょうどこの頃から活発になってきます。
その顕著な例がエキュメニカル運動です。エキュメニカル運動とは、カトリックが中心になって推し進めている神概念の統一運動のことです。
宗教の違いがもたらす闘争のゆえに、ニューエイジ的な考え方、つまり全ての宗教は同じ神の別の表現であるとする考え方が支持され、神概念の統一が叫ばれるようになったのです。
しかし、この考え方は三位一体の神を唯一の神とするキリスト教信仰とは相反するものです。
聖書の終末預言によれば、これらの宗教統合の動きはさらに加速する筈です。そして聖書に記されている反キリストと呼ばれる人物が登場することになるのです。
彼は宗教統一のムーブメントを利用して世界のリーダーとなりますが、やがて彼はこの世界統一宗教を否定して自分が神であると宣言するのです(第二テサロニケ2:4)。
クリスチャンにとって、背教は既に始まっています。しかしこの世的な目で見れば、今後は神についての宗教概念が統一され、良い宗教と悪い宗教の区別が付きやすくなる便利(?)な基準が設けられ、その考え方を受け入れない人々は偏屈者とされ、大患難時代には投獄されたり殺されたりすると聖書は預言しています。
そして今はその直前の時代にあるというのが聖書信仰に立つ多くのクリスチャンたちの見解です。
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