DesertWind・ニュースレター Septembe, 2022
『キリストの寛容』(第一テモテ1:12 – 17 )
LVJCC 牧師:鶴田健次
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。」(第一コリント13:4-7)
この「愛の讃歌」と呼ばれる聖句には、愛とはどういうものであるか、またどういうものでないか、ということが15の表現で述べられています。そして、その冒頭で述べられているものが「愛は寛容である」という言葉です。
イエス様のもとには、あらゆる種類の人々がやって来ましたが、イエス様はそのすべての人々を受け入れなさいました。罪深い生活をしていたサマリヤの女も、また嫌われ者の収税人ザアカイも、イエス様に受け入れられ、イエス様の寛容に触れて、その生涯が変えられた人たちです。また、「愛はすべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」とあります。つまり、「寛容の愛」はすべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐えるのです。
① キリストは、あなたを忠実な者と見て下さる
第一テモテ1章12節の後半で、パウロは「キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださった」と言っています。パウロは、神の霊感によって、イエス様が自分をこの務めに任命されたのは自分を忠実な者と見て下さったからだということを知ったのです。
聖書の中には、イエス様が誰かを見られたというところが幾つもあります。たとえば、a)主は、ペテロとアンデレが網を打っているのをご覧になった。b)主は、生まれつきの盲人をご覧になった。c)主は振り向いてペテロをご覧になった。
このように、イエス様は色んな人に心を向け、その人をご覧になりました。それによって、見られた人は立ち上がることができたのです。なぜなら、イエス様のすべての人を受け入れて下さる寛容な眼差しには、人を立ち上がらせる力があるからです。イエス様を三度裏切ったペテロがイエス様のしもべとしての生涯を全うできたのは、イエス様が寛容の眼差しをもってペテロをご覧になったからです。
② キリストは、罪人を救うために来られた
15節には、「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」とあります。テモテの手紙は、パウロの晩年に書かれた手紙です。彼は人生の円熟期において、自分の生涯を振り返りながら、自らを「罪人のかしら」であると告白しています。
あの偉大なパウロがなぜ…と驚きます。しかし、この告白には、どこか明るい感じが漂っています。それは、自分のことを罪人のかしらであると言いながら、そこには自己卑下という否定的な感情が混じっていないからです。彼は自分の罪を知るにつれて、その罪をも赦して下さるイエス様の真実と愛の大きさに圧倒され、あえてこんな表現をしているのだと思います。
暗い所では白く光る電球も、太陽のもとでは薄暗いオレンジ色に見えてしまいます。同様に、どんなに素晴らしい人も、神に近づくにつれて、自分の醜くさがより明らかにされます。したがって、自分の問題を問題にしないで、他人ばかりを問題にする人は、神様から遠い人だということです。
③ キリストの寛容は、あなたの模範になるため
16節には、「しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです」とあります。
ここで言われていることは、イエス・キリストがあなたに寛容を示されたのは、それを経験したあなたが、これから救われる人々の模範となるためであるということです。つまり、クリスチャンはイエス様の寛容を身につけ、周りの人々に寛容を示していかなければならないのです。
寛容という言葉は、原語のギリシャ語では「マクロスミア」と言います。それは、大きな心、広い心という意味です。また、そこから転じて、大きな心、広い心で、人に対する悪い評価を遅らせる、あるいは、いつまでも悪い評価をしないという意味です。
パウロという人は、クリスチャンの迫害の先頭に立っていた人物です。パウロは、かつては「寛容」のひとかけらもありませんでした。ところが、神様はそんなパウロを大きい心、広い心で受けとめて下さって、彼をキリストの迫害者からキリストの伝道者へと変えて下さいました。神様はまたパウロに大きな寛容を示しつづけ、その経験を通して、パウロ自身もやがて人々に寛容を示す人に変えられていったのです。
Desert Wind 2022年 9月号 案内・ニュース
◆ 9月04日(日)は持ち寄り愛餐会後、日英合同で役員会が持たれます。
◆ 9月11日(日)は礼拝後婦人会が持たれますので、婦人のみなさんのご参加をお願いします。
◆ 9月12日、13日の両日6:00PMよりZoomでSCCRオンラインリトリートが持たれます。
◆ 9月18日(日)は愛餐会の後、礼拝堂にて映画会を行います。タイトルは”Son of God”です。友人知人をお誘いあわせてお越しをお待ちしています。
『慈悲深くなろう』
証し:ゼン・コールマン
つい最近、僕は運転免許取得の為のテストを受けて、大人への一歩を踏み出すことができました。とても緊張しましたが、過去6か月間は母と一緒に運転し、交通規則を学び、路上体験を実際にしてきたので、できる限りの準備ができているように感じていました。
母とDMVに行き、同じ学校の友人を見つけたので、声を掛けると、彼はすでに2回も失敗し、3回目の試験を受けるのだという恐ろしくなるようなことを言いました。彼の話は僕をとても緊張させました。
彼の説明では、最初のテストにパスすることがまるで不可能ででもあるかのように聞こえました。僕は手のひらに汗をかき、その内全身に汗をかき始めました。フロントデスクに行くように名前を呼ばれたので、自分の名前を言い、書類を渡す手が震えそうになりました。
しばらく心を静めて考えていたら、僕は交通法規に関して十分な準備ができていない状態で来てしまった事に気が付きました。そう考えていると、検査官が僕の名前を呼んだので、テストを受けることになりました。
僕たちは車に乗り込み、決められた道を運転して回りました。運転している間、彼女は僕がどのように運転しているか些細な事まで批評するので、彼女が話せば話すほど僕の合格の可能性が遠のくように感じました。
彼女が「ここの制限速度は?」と聞いても、僕にはすぐには分からず、暫くして「時速25マイル」と言うと、彼女は 「正解」と言い・・・、では、なぜ35マイルで運転しているの?」と言われて、僕の心は折れそうになりました。
しかし、逆にそれが僕を奮い立たせ、このテストのことを前向きに考えるようになりました。DMVに戻ると、自分の下手な運転を補うために、検査官と少し世間話をしました。ホワイトボードのある部屋に入ると、検査官からお母さんを連れて来るように言われたので、連れて来て、ドアを閉めました。
不吉な予感 1:彼女はホワイトボードに近づき、ため息をつきました。不吉な予感2:彼女は僕の運転テスト全体をバラバラにし、3つの確実に不合格な箇所を挙げました。この時点で、僕はすでにもう一度戻って来てテストを受けるのがどれほど苦痛であるかを考えていました。
しかし、彼女は変化球を投げてきました。どんな変化球かというと、「こんな結果だったけど、あなたを合格にするわ」と言ったのです。僕は唖然とし、感謝の気持ちに全身を包まれ、心から安堵しました。僕はひざまずいて彼女に感謝したい衝動に駆られましたが、その思いを抑え、「どうもありがとうございました」と敬意を表してお辞儀をしました。母がお礼を言うために彼女の名前を聞くと、なんと彼女の名前はMercy(慈悲)でした。
そして、このことは僕に、神様が僕たちに天国に入る機会を与えることによって示された慈悲を思い出させてくれました。僕たちは破滅状態の人間であり、みな罪人であり、神様とは比べ物にならないような存在なのに、永遠に神様と共にいる機会を与えられるということは驚くべき慈悲の表れです。
慈悲を表すことは、神様だけがなさることではありません。この運転検査官が僕に見せてくれたように、僕たちは自分の生活の中で慈悲の心を他の人々に表すことができます。聖書を見ると、最も偉大な慈悲の現れの一つであると考えられる箇所があります。それは神様が私たち罪人の身代わりとして死なせるためにご自身の独り子をこの世に送られたことです。
これはヨハネの福音書8章3節から11節を思い出させます。4節以降は彼女が姦淫の現行犯で捕らえられたことを示しているのですが、幾つかの理由から、僕にとって慈悲の最大の表れの一つであり、その理由は、神様がモーセに授けられた律法を女が破ったにもかかわらず、また全知全能の神様がこれらの律法を作られたにもかかわらず、イエス様が慈悲を示されたということです。
特に悪がはびこっている今の時代では、僕は、人々が信じられないほど早く人を裁き、非難するという例をたくさん見てきました。僕たちは慈悲の心を示さなければなりません。なぜなら、今日において慈悲が死にかけている概念のように思われるからです。
編集室・気まま便り
鶴田先生による聖書クラスでガラテヤ書を学んだ時、パウロが繰り返し「イエス様を救い主と信じる信仰によって義と認められる。律法を守り行うことによって義とされるのではない。」と語っている事を自分に置き換えて瞑想してみた。
頭では理解していても果たして本当に心からそう信じているかというと、私の中には長年の日本の習慣から沁み込んだものがあって、それは「善い行いをしないと神様に認めてもらえない。」という思いがあり、それにがんじがらめに囚われていた事に気付いた。
その思いから解放されて、自分の罪と無能力さに気付き、神様の前に素直にへりくだる事が出来た時、心に平安と真の自由が与えられた。このような信仰へと導かれた事に深く感謝した。
MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 患難時代の前兆について教えて下さい(その2)
Aそれでは、前回に続き、聖書の御言葉をもとに患難時代の前兆について整理してみます。
●多くの人々の愛が冷える
イエス様はマタイ24章12節で、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます」と言われました。今日、多くの人が人間としての愛を失いつつあります。「すべての悪の根」である金銭欲は、人を顧みず、愛を弱めます。そして人は神を拒むようになります。
また、その結果、弱者や自分の期待にそぐわない人、自分の益にならない人に対する暴力を引き起こします。さらに、被造物もまた、人の愛が冷えることを証しています。その証拠に、地球は無関心と利益追求のために捨てられた廃棄物によって汚染されています。これも愛の欠如の顕著なしるしです。
●快楽を愛する
使徒パウロは第二テモテ3:1-5で、「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、・・・・・神よりも快楽を愛する者になり・・・」と言っています。パウロの言葉は今から2000年前のものですが、まさに今を生きる私たちにも当てはまる言葉です。特に近年のモラルの低下や人間性の低下は目に余るものがあります。
現代人はこの世に執着し、物質主義、快楽主義に陥っています。快楽が人の生きる目的になると、それは人間性を堕落させます。性的な快楽を追求すれば、いずれ破綻する羽目になります。
●空想話にそれて行く
パウロは第二テモテ4:3-4で、「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、・・・・・・、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になる」 と言っていますが、この世は空想話で満ちています。マンガ、アニメ、映画、ゲーム、バーチャルリアリティなどは、すべて空想で、現実ではありませんが、人はこれらの空想話に喜んで時間とお金を費やします。
かつては子供のものだった空想遊びは、今や大人のものです。人は次々に発売されるゲームに夢中です。企業は物を売るためにと、空想話を次々に作り出し、人々はそれが嘘だと知りながら、それらを熱狂的に支持します。
人々は空想の世界で罪を犯すことは罪ではないと思いますが、それは大きな間違いです。心の中で犯した罪は人を病ませ、いずれ滅びをもたらすのです。 最近の流行には、ある傾向があります。
「獣」「竜」「魔法使い」「悪魔」は、以前はすべて悪役でしたが、今や主役の座を築いています。まるで世界中の若い世代が、反キリストである「獣」と、悪魔である「竜」の受け入れ準備をしているかのようです。
●モラルの逆転
イザヤ書5:20では、「・・・悪を善、善を悪と言っている者たち。 彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている」と言われています。かつて伝統的に悪とされたことは、今や善となり、善は悪となりました。まさにモラルの逆転です。モラルの倒錯は、罪の最終段階です。特に近年の顕著な例は同性愛です。
近年、同性愛に対する見方がメディアによって塗り替えられています。同性愛に対して否定的な人は、まるで差別主義者のように扱われるようになりました。同性愛を肯定するニュースが頻繁に流されます。なぜこの世は同性愛を広めることに躍起になっているのでしょうか。
聖書によれば、同性愛は罪です。罪とは的外れを意味し、異常なことを表します。しかし、この異常なことを正常なことに置き換える考え方が世界中で広まっているのです。 これは「時のしるし」です。
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