ラスベガス日本人教会
DesertWind・ニュースレター December, 2020
『やみは光に勝たなかった』(ヨハネ1:1-13)
LVJCC 牧師:鶴田健次
最近よくメールで、「アメリカは正しい方向に向かっていると思うか?」というアンケートが送られてきます。それに対して、私は「アメリカは間違った方向に向かっていると思う」と答えます。アメリカだけではありません。日本もヨーロッパも、世界中が私たちの期待とは違う方向に向かっているように思います。いったい世界はどうなるのか、という不安を多くの人が抱いています。まさに終末の時代を予感させます。
その中で、それぞれの国は、羅針盤を失った船のように、方向性を見失って漂流しています。世界中の誰もが将来に不安を抱き、大きなストレスを抱えています。この現実に目を向けると、人類の将来に希望を見出すことは困難です。しかし、そういう現実の中で、一年の終わりを迎えつつ、クリスマスの意味を心に留めるとき、そこに大きな慰めを得ることができます。
ヨハネ1:5を見ると、こう記されています。「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」 たとえ、この世の悪がどんなに強大で、また闇がどんなに深くても、最終的には、どんな悪も闇も光であるキリストには勝てないのです。
また、ルカ2:10-11には、こうあります。
「御使は言った、『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。』」
クリスマスのメッセージは、突き詰めれば、神の目には私たち人間の命は尊いもので、そのことを明らかにするために救い主キリストが来られた、ということです。これは、人間の尊厳を軽視するこの世の風潮とは真っ向から対立する概念です。
ハンディを負った人、年老いた人、回復の見込みのない病人、生産性のない人、このような人たちに生きる意味や権利があるのか? ノース・フロリダ大学のクリス・ガバード博士は、かつてこの種の問いに対して否定的見解を持っていました。彼は、知的能力を高く評価するような環境に育ったために、「正常に機能しない頭脳」を軽蔑するようになりました。その結果、大きなハンディを負った人たちの自殺は認められるべきであるという立場を取るようになったのです。
ところが彼は、息子の誕生を通して、自らの見解に変更を迫られるのです。彼の息子は、出産の際に、脳に回復不可能な傷を負いました。そして今も、脳性麻痺のために盲目で、全身が不自由な状態にあるのです。ガバード博士はこう語っています。
「誕生した息子を見て、私の心は揺れた。・・・それまでは、このような状態の新生児は、生かしておかない方がいいと考えていた。しかし、今、目の前にいるのは私の息子である。彼は最先端の医療用保育器の中で眠っていた。・・・私を一番驚かせたのは、その子が私に似ていることであった。予想だにしなかった衝撃が私を襲った。彼は、私が子供時代の写真から抜け出て、そこにいるかのような顔をしていた。」
今日、ガバード博士は、ハンディを負った新生児の尊厳を擁護する論客の一人になっています。聖書は、人間は「神のかたち」に造られているがゆえに尊い存在なのであると教えています。人間の尊厳の根拠は、そこにあるのです。外から見る人間の姿がその人のすべてではありません。目に見える部分は、ほんの一部分に過ぎないのです。むしろ目に見えない魂と霊が、その人の本当の存在であり、それこそが神のかたちに似せて造られた尊い存在なのです。
ガバード博士は、脳性麻痺を負いながら生きている自分の息子を、こよなく愛しています。それは、その子が自分のコピーのような存在だからです。それと同じように、創造主である神は、「天の父」として「問題だらけ」の私たちを愛しておられます。その愛の表現が、御子イエスが人となられたというクリスマスの出来事なのです。
Desert Wind 2020年 12月号 案内・ニュース
◆ 12月16日(水)5:00PMよりキャンドルライト・サービスが持たれます。またそのあとでリフレッシュメントが用意されてます。どうぞお友達をお誘いのうえお出かけください。
◆ 12月20日(日)11:00AMから日英合同でクリスマス礼拝が持たれます。主イエス・キリストのご降誕を心からお祝いしましょう。なお礼拝後はポットラックでクリスマスランチョンが持たれますのでどなたでもお出で下さい。心より歓迎いたします。
◆ 12月30日(水)は12:00PMより年越しそばをいただき、それから一年の恵みを分かち合う望年祈祷会が持たれます。
◆ 新型コロナの一日も早い収束を祈りましょう。
『クリスマスの思い出』
証し:バンクス・香織
イエス様のご降誕おめでとうございます。天地を造られた神様から私たちに与えられた最高の贈り物を思い、主イエスキリストの御名をたたえ、感謝します。
クリスマス前になると、我が家に与えられたギフトを思い出します。6年前のクリスマス前のことです。神様が私たちの祈りを聞いてくださり、待望の第二子と第三子をこの世に誕生させてくださいました。第一子の長男が生まれた後、第二子、第三子の双子が誕生するまでに困難があったので、第二子と第三子の出産は私にとって大きなミラクルの連続でした。というのは、双子の誕生までに、何度か妊娠しても流産し、胎の命はこの世で会えずに神様のもとに戻って行きました。その時は、沢山悲しみの涙を流しましたが、生も死も全て神様の許しの中で起き、この世ではこの手に抱くことはできませんでしたが、私が神様のもとに戻った時会えるという希望を持って、乗り越えて来ました。また、御言葉や賛美、神の家族のお祈りや慰めと励ましを通して与えられた希望と神への信頼が、この悲しい出来事を悲しみに終わらせず、神様との関係を深めてくださり、神様により頼むことにより希望へと導いてくださいました。
このような道のりを経て、神様が6年前のクリスマス前に私たちに第二子と第三子を与えて無事誕生させてくださったので、ただただ神様に感謝です。私の体型は小さめなので、この体型を見て産婦人科の先生は二人の胎児が入っていることを知りとても驚いていました。ウルトラサウンドで初めて二人の映像を見た時は、私も夫も同様にびっくりしました。最初は順調に妊娠生活を送っていたのですが、ちょうど20週に入った時、切迫早産で絶対安静となり、急遽入院となりました。当時長男は9歳で、夫は仕事をしながら学校や習い事の送り迎えをしてくれたり、私達の事を案じて、母が日本から手伝いに来てくれたり、家族一丸となって頑張っていました。私は胎児たちを守るためにトイレ以外はベットと体がくっつくのではないかというくらい安静にしていました。そんな中、毎日ベッドの上で御言葉を読み、賛美し、祈祷会でお祈りの祈祷依頼に添って祈りのサポートをお願いしたりしました。また、兄弟姉妹も胎児と母体の健康のために祈りで支えてくださったり、訪問して励ましてくださったり、本当に神様を愛する兄弟姉妹と家族に感謝しています。
その後予定日より9週間早く生まれ、NICUに7週間入院後、クリスマス前、12月23日に帰宅しました。予定日より9週間早く生まれて来ましたが、そのタイミングは絶妙なものがありました。というのは、日本で仕事をしていた私の双子の姉が、忙しい中5日間だけ会社から休みをもらい、会いに来てくれたのですが、到着した翌日夜に陣痛が始まり、二児に対面したのでした。まるでベビー達が「ママの双子のお姉さんに会いたい」と言っているかのようでした。
神様の愛と恵の中でこの世に誕生した二人なので、ミドルネームに夫々シェイラ(Shayla)には愛と、ジュエル(Jewel)には恵とつけました。2016年のクリスマスの2日前、ライトアップされた我が家に二児が帰って来た時、家族全員を家に運んでくださった神様の粋な計らいと我が家に来たクリスマスプレゼントを神様に深く感謝し主の御名を褒めたたえました。
私は主に申し上げよう。 「我が避け所、わがとりで、私の信頼する我が神」と。 主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。 あなたは、その翼の下に身を避ける。 主の真実は、大盾であり、とりでである。 詩篇91:2,4
編集室・気まま便り
人生とは自分探しの旅といわれるが、最近読んだ榎本保朗師の「一日一章」の中に「神から愛されている自分を見つけ、私のようなつまらない者、罪を犯し、神から遠ざかっていた者を見捨てないでこんなにも愛されているという事に気付く事である。それが自分の信仰である。」と書いてあり納得した。
さらに「すべての人々が神から愛されているということを思うとどんな人をも受け入れ愛して行ける。」大事なポイントだと心に受け止めた。
全ては神の愛から始まり終わるのである。「あなたの敵を愛せよ。」というみ言葉も人間の力では到底できない事だが神様を信じて歩むときに神様が可能にして下さる。素晴らしい世界だと思った。 神様の愛の中、大いなる希望を持って新年を迎えたい。MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 十字架の死の後、イエスはどこに行かれたのか?
A 聖書はイエス様が十字架で死なれた直後どうなったかを具体的には述べていません。そのために、イエス様がどこに行かれ、何をされたかという問いに対する答えには様々な議論があります。
そこで、ここでは幾つかの異なる見解を紹介し、皆さん自身がそれらの見解を知った上でどの立場を取るかを決定する助けになればと思います。おそらくこの問題を扱うのに最も適している御言葉は第一ペテロ3:18-20でしょう。
「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。」(第一ペテロ3:18-20)
イエス様が復活の前に何処におられて何をされたかについての一つの見解は、イエス様がハデス(最後の審判まで死者が留まっている場所)に行かれ、霊的な獄にいる人々に宣べ伝えることをされたというものです。ここでの「宣べ伝える」は、ギリシャ語で“ケルッソ”という言葉が使われています。これは「宣言する」という意味で、福音を宣べ伝えることを意味する“ユーアゲリゾー”とは別の言葉です。したがって、ここでの最もあり得る解釈は、イエス様がハデス(霊的な獄)にいる人々に彼らが救われるための福音を宣べ伝えたというのではなく、彼らに福音の奥義を宣言したというものです。
では、「獄に捕らわれている霊ども」とは誰のことでしょう。ある人々は、それはノアの洪水の時代に生きていた人々で、その洪水で死んだ人々のことであると主張します。また他の人々は、十字架の前に死んだすべての人々のことであると信じています。第二ペテロ2:4-5によれば、前者の立場が有力のようです。また他のオプションとしては、エペソ4:8-10をもとにすれば、イエス様が単にご自身の十字架の業に関する事実を獄に捕らわれた霊どもに示されたという解釈です。
またある神学者たちは、イエス様の十字架と復活の間の三日間、イエス様はアブラハムの懐に下り(ルカ16:19-31)、人々に福音の奥義を宣言し、それから神と共に住むために彼らを天国に導いたと信じています。その見解は、人々が十字架の贖いの後まで天国で神の御許に来ることが許されなかったということになります。十字架の後、イエス様は死んで、アブラハムの懐に下り、福音を宣言し、そしてそこにいる人々を天国に導かれたということです。
結論として、たとえ私たちがその三日間、イエス様が何処におられ、何をされたかを確定できなくても、イエス様が福音のメッセージ(彼らを救うためではなく)を獄に捕らわれた霊どもや、あるいはアブラハムの懐にいる人々に示されたということは明らかなようです。
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