ラスベガス日本人教会
DesertWind・ニュースレター January 2020
『感謝と賛美がもたらすこと』(詩篇100:1−5)
LVJCC 牧師:鶴田健次
脳科学者たちによれば、人間の脳には230億の細胞があり、その脳細胞の98%が言葉の影響を受けているそうです。自分の発する言葉があらゆる神経系に影響をもたらし、自分の考えや行動を支配し、人生を支配するのです。特に神に対する感謝の言葉は、私たちの人生に測り知れない恵みをもたらします。
さて詩篇100:4には、「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ」とありますが、これは感謝と賛美をしながら神を礼拝しに来なさい、という勧めです。
人類最初の人アダムの堕落以来、人間の中に罪が入り込み、そのために神を神としてあがめず、感謝もせず、神が造られた万物を素晴らしいとも思わなくなりました。この決して当たり前ではない、感謝すべきものをそう思えないのは、神を認めないからであり、そういう人間の状態を、聖書は霊的に死んでいる状態と言います。
そのために、たとえ平安な気持ちでいたくても、幸せを感じ、喜びの心を持ちたくても、神を認めない者の心は自己中心で、憎しみと、怒りと、ねたみと、批判的な思いで満ちているので、幸せも喜びも平安も感じることができません。多くの人は、いい大学を出て、一流会社に就職して、地位や名誉や富を得れば幸せになれると思っていますが、そういうもので幸せになるのではないのです。
世界的な心理学者マーティン・セリグマンは、物質が与える満足は「バニラアイス」に例えることができると言いました。つまり、物質的な喜びは、始めはとても美味しく感じても徐々に溶けて美味しくなくなるバニラアイスと同じだということです。
立派な家を建て、良い服を着、美味しい食べ物を食べるのは、始めは非常に良いのですが、しばらくすれば、それが普通になってしまい、そのうちに何の感激もなくなってしまうものです。それは感謝の心がなくなるからです。
また、感謝と賛美は、心の憎しみを取り除き、怒りを沈め、心を晴れ晴れとします。箴言17章22節を見ると、「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」とあります。つまり、心の楽しみは良い薬だということです。感謝の言葉は、心を楽しませます。心に楽しみがあれば、いわば体の中の薬の工場が良く働き、健康を整えます。しかし心に憂いがあれば骨までも乾いてしまうのです。
UC DAVISとマイアミ大学の心理学教授が共同研究をし、感謝と心理的な変化結果を発表しました。それによると、感謝をし、神を賛美すると幸せだと感じ、楽天的な性格に変わるそうです。そのおかげで、喜びのなかった人が喜ぶようになり、活力が溢れる生活をするようになり、難しいことを処理する能力が増すそうです。
ソルジェニーツィンは、11年に渡るシベリア収容所での苦しみの中で癌にかかり、余命わずかとなった時に、イエス・キリストを信じ、九死に一生を得ます。彼は出獄してから収容所の惨状を暴露する小説、『収容所郡島』を書いて1970年にノーベル文学賞を受けました。
この本の中で、「収容所よ、ありがとう」と告白しながら、自分がシベリアの収容所に11年間、閉じ込められていなければ、決して『収容所郡島』という本を書かなかっただろうし、ノーベル文学賞を得ることもできなかっただろうと言いました。逆境がむしろ祝福になったのです。イエス・キリストを信じ、感謝することを知る人生を得たので、逆境を克服することができたのです。
私たちの生活の中で感謝できることはいくらでもあります。感謝は神の祝福を受け取る器です。最も幸せな人は、最も多くのものを持っている人ではなく、最もたくさん感謝した人であると誰かが言いましたが、本当にその通りだと思います。
私を導かれた主
証し:Cabico 光子
「神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちにまっとうされるのである。」(ヨハネ第一の手紙 4:12)
私は6人兄弟で男3人、女3人の長女として沖縄で生まれました。生家が海の近くにあり、物心がついた頃には浜辺で遊ぶのが日課でした。真夏の暑い太陽の下で、帽子もかぶらずに髪の毛が茶色になるまで泳いだり、貝を拾ったりして、自然豊かな土地で、とても楽しい幸せな子供時代を過ごしました。
海で溺れる子供がいなかったのは、今思うと神様が既にこの時から守っておられ、また私を導いていて下さったからだと思います。
私の祖母は、私が小学生頃にはクリスチャンで、私も祖母に連れられ何度か教会に行きました。祖母は私に聖書の有名な箇所の物語をよく話してくれました。祖母はクリスチャンの友達と定期的に集会を持ち、従兄弟にも3人のクリスチャンがいました。
1967年の夏、ハワイアンパーテイで、ハワイ出身の男性と知り合い、彼の巧みな話術と行動力に押されて、翌年の68年に結婚しました。
結婚後は二人の男の子に恵まれ、その後主人の転勤で沖縄からアメリカの三つの州を移り過ごしました。それから、イギリスのロンドンの田舎へ転勤になりました。雨の多い国で湿気があり、家族の誰かが咳をし始めると他の者も1週間あまりも咳込みました。
周囲は一面が麦畑で、慣れない生活がこのまま4年間も続くかと思うと気がめいりましたが、そんな生活の中での一つの楽しみは、週一度、家族でロンドンに出て買い物をし、レストランで食事をすることでした。
私にとって、住みにくい試練の多いイギリス生活ではありましたが、そんなある日、私に二人の息子を愛し思いやりのある子に育てるようにと強い思いがしめされました。そして私はそうさせて下さいと思わず神様の前で祈っていました。
神様はクリスチャンでもない私の祈りを聞いて下さったのでしょうか。二人の息子は思春期においても何のトラブルもなく健康で素直に成長し、家族や子供達を知る人達からは、どうしたらこんないい子に育つのかと聞かれるほどに立派に育ってくれました。これも神様が子育ての知識を私に与えて下さったからだと思っています。イギリスでの勤務は予定より早くなり、3年半で再び沖縄に戻ってきました。
その後、1982年に、次の勤務地であるラスベガスに引っ越す事になり、主人は Nellis Airforce Base で働きました。この地に引っ越して来た時、息子達は上の子は高校を卒業し、下の子は中学1年生でした。
それから8年後の1990年、主人はリタイヤしました。しかし、その間、私たち夫婦の間には様々な理由で溝ができてしまい、子供達は独立していたこともあり、思い切って主人のもとを去る決心をしました。
新しい歩みを始めた私は、しばらくして、ラスベガスに来た時から親交のあった同じ沖縄出身の栄子さんに導かれ、信仰を持つに至りました。そして1997年、イエス様を救い主として信じ、洗礼の恵みにあずかりました。そのおかげで、辛い日々の中にあっても主が私を支え導いて下さいました。
祖母が生きている時、幼い私を教会に連れて行ったり、聖書の話しをしてくれたりして、どんなにか私の救われることを願い、祈ってくれたことでしょうか。回り道をしながらも、人生の大切な節目の度ごとに神様は私を助けて下さり、全てを良きに変えて下さいました。今は鶴田牧師のイエス様の教えを聞く日曜日の礼拝が本当に楽しみです。
「神はわれらの避け所、また力である。悩める時のいと助けである。」(詩篇46:1)
Desert Wind 2020年 1月号・ニュース
◆ 1月2日10時より、サリー姉宅で今年最初のネリスのSGの集会が持たれます。
◆ 1月5日は日英合同で新年礼拝が持たれます。礼拝後に今年1年間の年間聖句の発表会がございます。
◆ 毎週月曜10時から教会で聖書勉強会が持たれています。「目から鱗」のこの勉強会に是非ご参加ください。
◆ 1月19日の愛餐会後に礼拝堂にて新年会が開催され、沖縄舞踊、特別賛美など楽しい企画がいっぱいです。
◆ 1月26日の愛餐会後に婦人会の例会が持たれます。
◆ 1月の体操教室はお休み。次回は2月2日2時から行われます。参加無料。背骨コンディショニングの体操を覚え、ご自宅でお手軽にできる健康促進としてお役立てください。
編集室・気まま便り
日本を飛び出し海外生活が長くなり、ふと気が付くと多民族が共存する社会にいつしか適応して生きて来た事を思う。
日本で24歳まで暮らしてきた私は単一民族で一斉教育と和を重んじる社会を振り返り、自分を押し殺す事に慣れていた。それがアメリカに住むようになり、日常生活の会話の中でも盛んに、個人の意見や感情を聞き合う。それにすぐには答えられなかった。
自分の意見をはっきりと述べる訓練を受けてきていないからだ。調和を重んじる社会と個を大切にする社会の違い。それはやはりアメリカ社会の根底に聖書的考え方が浸透しているからだと思う。
神様は私達一人一人に「高価で尊い」と聖書を通して語りかけて下さっている。その愛に生かされてきたゆえにあらゆる困難を乗り越えてこれたと思う。
MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 救われるって、何から救われるの? 救われなきゃいけない理由って何?・・・
キリスト教では「救い」という言葉をよく使います。「救い」は聖書が取り扱う最も重要なテーマです。他の宗教でも「救い」という言葉を使いますが、その意味するところは必ずしも同じではありません。大辞林の辞書によれば、「救い」とは、「助けること」、「救済」、「人の気持ちを慰め、明るくする」こととあります。
では、キリスト教でいう「救い」とは何でしょう? 何から救われることを意味するのでしょう? キリスト教の救いは、人間の罪に対する神の裁きから「救われる」ことを意味します。神の言葉である聖書は、罪の起源について記していますが、それは人類最初の人アダムが神の戒めに背いたことが原因でした。その結果、彼によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのです(ローマ5:12)。そして、 「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなり」(ローマ3:23)、「罪の報酬として死を与えられ」(ローマ6:23)、全人類に「一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まった」(へブル9:27)のです。
しかし、罪のために永遠の滅びが定められた人間を神はなおも愛して下さり、永遠の滅びの原因となっている人間の罪の問題を解決するために大切な独り子イエス・キリストをこの世に遣わされたのです。そして、私たちの身代わりとして十字架につけ、三日目に死からよみがえらせることにより、信じる者の罪を赦し、永遠の滅びではなく永遠の命を与えることとして下さったのです。これがキリスト教の「救い」です。
では、救われなきゃいけない理由は何故でしょう? その答えは簡単です。それは、すべての人が罪人であり、一人の例外もなしに、罪の裁きとしての永遠の滅びが定められているからです。とはいえ、自分に罪があることを認められない人には、罪の裁きとして永遠の滅びが定められていると言われてもピンときません。したがって、そういう人は救われなければならない理由も必要性も感じないので、救いを求めることもしないのです。
イエス様は、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」とおっしゃいました。つまりイエス様が言われたことは、たとえ病人でも、自分を健康だと思っている人は医者を必要と思わないのと同様に、罪人であるにも拘わらず自分を義人だと思っている人は救い主キリストを必要とは思わないものだ、という意味です。
聖書が問題にする罪とは、アダムから引き継いでいる原罪のことで、すべての人の中にある生まれながらの罪の性質です。この原罪のゆえに人は誰でもしてはならない事をして、毎日のように罪を犯し続けているのです。そして、それらの罪は大小の違いに関係なく神の裁きの対象であり、その罰は死(霊的な死、肉体の死、永遠の死)であるというのが聖書が明らかにしている大切なメッセージです。
したがって、この事実を基に考えれば、この世に生を受けた者は一人の例外もなく、永遠の滅び(地獄)という崖っぷちに立たされており、生きている間に救い主キリストを信じる信仰によって罪の赦しをいただき、永遠の命を手に入れなければならない重要な課題を背負っているという結論に至るのです。
ラスベガス日本人教会
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