ラスベガス日本人教会
DesertWind・ニュースレター November, 2021
『満ちあふれる神の恵み』(エペソ書1:1-6)
LVJCC 牧師:鶴田健次
まず1章1節を見ると、パウロはエペソのクリスチャンたちを「聖徒」と呼んでいます。これは原文のギリシャ語では「ハギオス」と言って「聖い」という意味です。
しかし、私たちクリスチャンが「聖徒」と呼ばれるのは私たちが聖く正しい生活をしているからではありません。私たちは決して「私は聖く正しい者です」などとは言えない者です。
しかし神様は、たとえ私たちが、どんな過去を持っていようが、どんな罪を犯した者であろうが、イエス・キリストにあって、すべての罪を赦し、聖い者として下さったがゆえに私たちは聖徒なのだということです。
私たちは、人生において、どれだけクシャクシャになり、ドロドロになる経験をしたことでしょうか。そういう経験を通して、「ああ私はダメな人間だ」と思うことがあったかも知れません。
しかし、たとえ私たちがどんな失敗をし、どんな間違いを犯しても、私たちの人間としての価値は少しも変わるものではないことを神様がイエス様の十字架を通して教えて下さいました。
それによって初めて、私たちは何物によっても損なわれない自分の価値を見出すことができたのです。ここに神様の恵みの世界があります。
①神の恵みとは何か
パウロは、この手紙の1章2節で、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」と言っていますが、彼は、クリスチャンにとって最も必要なもの、また大切なもの、それは神様からの「恵み」と「平安」だということを言いたいようです。
ところで、聖書が教える「恵み」とは何でしょうか。それは自分に受け取る資格のないものを受け取ることで、英語で言えば、to receive what we don’t deserve です。つまり、ここでいう「恵み」は、イエス・キリストの十字架の恵みのことです。
すべての人間は、自分の罪のために神から有罪判決を受けているというのが聖書の人間観です。そして、この有罪判決の具体的な罰は永遠の滅びです。これは、すべての人が気付かなければならない重大な事実です。
ところが、神様はご自分の独り子キリストに私たちの罪を負わせ、十字架で裁くことによって私たちの罪を裁き、そのキリストを死からよみがえらせることによって、罪の赦しと死に対する勝利を勝ち取って下さいました。
そして、この罪の赦しと永遠の命という測り知れない祝福を、イエス・キリストを信じるすべての者に無償のギフトとして与えることとされたのです。これが「恵み」です。
②神に選ばれた恵み
3節から神に対するパウロの賛美が始まるわけですが、原語のギリシヤ語では、なんとこの3節から14節までが一つの文章になっています。
パウロは、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように」と神を賛美してから、その賛美が次から次へと湧き上がり、ついに14節まで途切れることがなかったのです。
つまり、神の霊的祝福があまりにも素晴らしいので、賛美が止まらなかったということでしょう。では何がパウロをして、それほどまでに素晴らしい恵みと思わせたのでしょうか。その一つは、神の選びということです。
私たちは、自分の信仰生活を振り返りながら、自分がキリストを信じることができたのは、あの時に、あの人が導いてくれたからだとか、あの時のあの特別な体験が自分の心を神に向けさせてくれたからだとか考えます。もちろん、それも忘れてはならない大切なことです。
ところが聖書は、それよりもずっと前に、神がすでに私たちを選んでおられたという驚くべき事実を明らかにしています。しかも、それがいつだったかというと、「世界の基の置かれる前から」だというのです。何という驚くべき恵みでしょうか。
③神の子とされる恵み
パウロは神様によって、天地の造られる前から選ばれていた恵みについて語りながら、続いての節で、「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです」と説明しています。
神様は、私たちを罪の裁きから救い出すために選んで下さっただけではなく、私たちをご自分の子にしようと決心されたのです。
続いて7節を見ると、「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです」とあります。この「神の豊かな恵みによる」という言葉は、別の言い方をすれば、「神の恵みを全部つかって」ということです。
つまり神様が、私たちの罪を赦して下さるのは、たくさんの恵みの中の一部によってではなく、神様が持っていらっしゃる全ての恵みを用いてというのです。つまり、簡単に赦されたのではなく、すべてを犠牲にしての赦しです。そこに、私たちに対する神の愛が表わされたのです(ローマ5:8)。
Desert Wind 2021年 11月号 案内・ニュース
◆ 11月7日(日)礼拝後婦人会がありますので、 女性会員の方は一人でも多くご参加下さいますようお願いします。
◆ 11月11日(日)11時からCalico Basinでハイキングが予定されています。子供さん達もご一緒に楽しい交わりのひとときを皆さんですご しましょう。
◆ 11月14日(日)持ち寄りランチの後、日英合同 役員会がございます。役員の働きのためお祈りを お願いします。
◆ 11月21日(日)は感謝祭礼拝です。なお礼拝後は感謝祭愛餐会がありますので、一年を振り返り神様に感謝を捧げる ひとときを持ちたいと思います。知人友人をお誘 い合わせてお越し下さい。
『神に挑む人間の習性』
証し:善・コールマン(15歳)
みなさんこんにちは。今日は、現代においても、とても関連性のある聖書の物語をシェアしたいと思います。その物語は、「バベルの塔」のお話です。もしかしたら「なぜバベルの塔が現代に関係あるのか?」と思われるかもしれませんが、コミュニケーションと神への挑みの視点から見て関連性があります。
バベルの塔のお話は、とても興味深いお話です。まず初めに、このお話から世界史のある時期は、地上に住む全ての人が一つの同じ言語を話していたことがわかります。
続いて民は東に旅を続け、住みやすそうな平地を見つけそこに定住しました。物語はこう続きます。民はたとえ全地に散らされることがあっても、人々に忘れられることがないよう彼らの名を上げるために、頂が天に届く塔を建てることにしました。
主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りてこられ、人間が完全な調和を保って、協力しながらシームレスに働くことができたのは、皆が同じ言葉を話していたからであることをご覧になられました。
主はこれをみて、もし彼らのしたいようにさせたら、彼らが塔を建てることを止めることはできず、協力しあって働けるのはその妨げとなるものが何もないからだと推測されました。
そこで主は「さあ、降りて行って、そこでの彼らの言葉を混乱させ、彼らが互いに言葉が通じないようにしよう。」と仰いました。
こうしてお互いを理解し合うことができなくなり、主は人々をそこから地の全面に散らされ、異なる言語が作られました。
このお話をもう少し深く見ていきましょう。このお話は人間が創造主に挑もうとするときに何が起こるか、というとても良い例です。それは、過去にない苦難を彼ら自身に持たらす結果になるのです。そして今日でもたくさんの有力者が神に挑む姿を見ることができます。
一つの例として、コメディアンであるKathy Griffinのエミー賞授賞式でのスピーチが挙げられます。彼女はこのように言いました。「たくさんの人がここに上がり、受賞したことに対して、イエス様に感謝を捧げます。
しかし、イエス様よりもこの賞に関連のない人はいない、ということをみなさんに知ってほしいと願います。今やこの賞が、私の神です!」
彼女はコメディアンなので、時には過激なネタを面白おかしく伝えることはわかりますが、このスピーチが語られたのは小さなコメディークラブではなく、かなりスケールの大きい場所であったのです。
彼女は、年に一度数百万人の人々が見るエミー賞でこのようなスピーチをしたのです。この内容から、やがてクリスチャンの信仰が試され、クリスチャンが迫害される日がすぐにでも来ることがわかります。
このように自信を持って言えるのは、主がすでにそのようにおっしゃっているからです。ヨハネ15章18、19節には、「もし世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかしあなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。
それで世はあなたがたを憎むのです。」と書かれています。このように世は僕たちを憎むことが書かれており、もし聖書がそのように言っているなら、それは真実なのです。
なぜなら聖書に書かれた預言は全て実現しているからです。だからどんな試みを通る時も、みなさんが硬い信仰に強く立つことができるために、そして多くの混乱が起こる前に、今こそが僕たちの人生を主の御手に委ねる絶好の時なのです。
もしかしたらこのようなことは僕たちの上には起こらないかもしれませんが、そうだとしても唯一の神の御手に人生を委ねることは賢明なることです。
編集室・気まま便り
「聖書を読んだ30人 夏目漱石から山本五十六まで」という本を読んだ。作家が多いが皆今の東大を出た秀才ばかり。中には宣教師との出会いによって導かれてクリスチャンとなり、社会福祉事業で活躍した人もいた。
読後の感想として、聖書はいかに難解で、正しい解釈をしてもらわないと理解できない書であり、更に導く人がいないとクリスチャンになれない。
特に川端康成、芥川龍之介、太宰治は聖書を読んでいたし、作家なので洞察力に優れた人達であったと思うが、イエス様の十字架の意味と神様の深い愛に触れる事が無かったために自殺している。
読みながら大変残念な日本の歴史だと思った。それゆえに「私のような者でも福音を伝えるためにお使い下さい」という献身の思いが強められた。 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q「ネフィリム」とは何ですか?
「ネフィリム」とは何か? これはよくある質問ですね。ネフィリムという言葉は創世記6:4と民数記13:33に登場します。創世記6章は大洪水の話で、1-7節は神が大洪水を起こされた原因が書かれているところです。その原因は人類の堕落です。その状況をご覧になった神は「大洪水」によって人類の歴史を再スタートさせようとされました。それが大洪水が起こらねばならなかった理由です。では、創世記6:4を見てみましょう。
「神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。」(創世記6:4)
この聖句は、学者たちの間でも幾つもの解釈があるところなので、ここではその主な解釈を紹介し、現時点での私の見解を述べたいと思います。
まず第一に、神学者の中には、「ネフィリム」を堕天使と解釈する人たちが少なくありません。その理由は、「ネフィリム」には「落ちる」という意味があるからです。そこから「堕落した者」=「堕天使」という訳が生まれたのです。
では、創世記6:4の幾つかの言葉を見てみたいと思いますが、まず最初に「神の子ら」という言葉です。この言葉は、ヘブル語で「ブネイ・エロヒム」と言い、「神に創られた男」という意味で、「ネフィリム」の代用語です。
当時、ヘブル語を話す人々は、「ブネイ・エロヒム」は「神に創られた男」という意味で、それを「ネフィリム」と理解していました。しかし、ヘブル文化を持たない人々が「ブネイ・エロヒム」を直訳すると、その「落ちる」という意味を念頭に置いているので、「ブネイ・エロヒム」とは「堕天使」のことという解釈になるのです。
イエス様はマタイ22:30で、天の御使いたちは結婚しないと言われました。ですから天使たちは結婚しないのです。ところが結婚しないのは「良い天使」のことで、「堕落した天使」は人間と結婚することもあるという意見もあります。
しかし、良い天使であろうが悪い天使であろうが、天使は人間とは違うDNAを持っている筈なので人間との間に子供を持つことはできないと解釈すべきではないでしょうか。
第二の見解は、「神の子ら」とは「セツの家系」の「信仰のある人たち」のことであり、「人の娘たち」とは「カインの家系」の不信仰な娘たち」のことだというものです。
それを前提に、信仰者と不信仰者との間に生まれたのがネフィリムだという解釈です。そして、地上の人々の信仰が崩れて行ったので、ノアの洪水が必要だったのだというわけです。
第三の見解は、悪霊に憑かれた人間の男性が人間の女性と結婚し、「昔の勇士であり、名のある者たち」であるネフィリムという子孫を産んだとするものです。
しかし、この「ネフィリム」という言葉は、実は「ナファール」という言葉から派生したもので、本来は「暴力で人を支配する者」という意味です。ところが、4節の後半はネフィリムを「良い人」と印象付ける訳になっています。
創世記6:1-7は、大洪水が起こされたのは人間の悪が蔓延したからだという内容が書かれているところなので、この文脈の中で「良い人ネフィリム」が登場するのは辻褄が合いません。これらのことはすべて直訳が招いた誤訳の結果です。したがって、創世記6:4は次のように意訳されるべきだという見解があります。
「その頃、暴力的で悪名高いネフィリムが現れると全地に広がった。神に創られた人間であったが、親から子に引き継がれるのは、悪い行いばかりであった。」
つまり、ネフィリムとは暴力で人を支配する乱暴者だという見解です。
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https://lvjcc.com/lvjcc_news_letter_5-2019/
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