DesertWind・ニュースレター October, 2026
『一歩を踏み出す信仰』(創世記12:1−9)
LVJCC 牧師:鶴田健次
先が見えない時、私たちはなかなか一歩を踏み出せません。祈ってはいても、「もし失敗したらどうしよう」「今の生活はどうなるだろう」と考えます。神様を信じたい気持ちと、不安な気持ちが同時にあるのです。
アブラハムも、そうした場所に立たされました。神様は「あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」(創世記12:1)と言われました。けれども、行き先は詳しく教えてくださいません。土地も親族も父の家も、当時の彼にとって暮らしを支える大切なものでした。それを離れるのは、簡単な決断ではなかったでしょう。
十九世紀、中国へ向かった宣教師ハドソン・テーラーにも、現地で何が待つかは分かりませんでした。それでも彼は船に乗りました。港でどれほど中国のために祈っても、船に乗らなければ着けないからです。私たちにも、考え、祈ったうえで、歩き始めるべき時があります。今日はアブラハムの姿から、その信仰について三つのことを考えます。
1. 信仰は、すべてが分かってから従うことではない
ヘブル人への手紙には、アブラハムが「どこに行くのかを知らずに出て行きました」(11:8)とあります。彼は行き先を知らずに出発しました。しかし、自分を呼ばれた神様のことばは聞いていました。創世記も「アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った」(12:4)と記しています。
神様が彼に約束されたのは、単に新しい住まいではありません。「わたしはあなたを祝福し」と言われたのです。アブラハムが自分の力で将来を確かなものにできたから出発したのではなく、約束してくださった神様を信じて出発したのでした。
私たちは何かを決める時、よく考える必要があります。祈り、御言葉に耳を傾け、人の助言を聞くことも大切です。それでも、従うべきことが分かっているのに、怖くて先延ばしにすることがあります。誰かに謝ること、長く抱えてきた恨みを手放すこと、示されている働きを始めること。信仰とは、怖さが消えることではありません。怖さを抱えながらも、神様のことばに従うことです。
2. 信仰の一歩は、誰かの祝福につながる
神様はアブラハムに「あなたは祝福となりなさい」と言われ、さらに「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創世記12:2〜3)と約束されました。神様が彼に与えようとされたものは、彼一人のためではありませんでした。この約束は、やがてアブラハムの子孫として来られるイエス・キリストへとつながっていきます。しかし故郷を出た日のアブラハムには、そこまで見えていなかったでしょう。
日曜学校の教師エドワード・キンボールは、靴屋で働いていた青年D・L・ムーディーを訪ね、キリストの愛を語りました。一人の青年に会いに行く、小さな一歩です。ムーディーは後に伝道者となり、多くの人に福音を伝えました。キンボールには、あの日の会話がどこにつながるか分かりませんでした。
私たちも、結果のすべてを見ることはできません。それでも、寂しい人に電話をかけることはできます。疲れている家族の話を聞き、一人のために祈ることはできます。「私を祝福してください」と祈るとともに、「今日、私を誰かの祝福として用いてください」と祈りたいものです
3. 信仰は、踏み出した後も神様と歩き続ける
アブラハムの信仰は、故郷を出た一日で終わりませんでした。彼は旅の途中で祭壇を築き、主の御名を呼び求めました(創世記12:7〜8)。神様の約束がすべて実現したから礼拝したのではありません。まだ旅の途中で、分からないことが残る場所で、神様に向き直ったのです。
私たちは、問題が解決すれば感謝できます。病気が癒やされ、祈りの答えが見えれば、喜んで礼拝できるでしょう。では、まだ何も変わらない日はどうでしょうか。アブラハムが祭壇を築いたのは、まさにそのような時でした。「主よ、まだ先は見えません。それでも、あなたを信じます」。彼の礼拝には、そのような思いがあったのではないでしょうか。
私たちも今いる場所で神様を呼び求めることができます。家庭に心配事がある日も、体がつらい日も、聖書を開いて祈ることができます。立ち止まる日があっても、また主に助けを求めればよいのです。未来のすべては見えなくても、今日の一歩を主と共に歩む。その日々の積み重ねが、私たちの信仰の歩みです。
『生まれ変わった人生』(その2)
ドリュー・リー・ヒューズ
そして洗礼を受け、私の中にはさらに大きな変化が起こりました。20歳から長く続けていた大麻をやめたのです。しかも、「我慢してやめた」というより、不思議なことに吸いたいという思いそのものがなくなりました。聴く音楽もヒップホップからゴスペルへと自然に変わっていきました。
大麻が合法であるアメリカに来てから、長年好きだった大麻をやめることになるとは、自分でも想像していませんでした。日本の友人に話すと、「普通は逆でしょ」「信じられない」と言われます。しかし私は、この変化は自分の意志の力だけではなく、聖霊が働いてくださった結果だと信じています。
入門クラスで鶴田先生が、「この兄弟を試みにあわせず、悪からお救いください」と祈ってくださり、「心の王座をキリストに明け渡すことが必要だ」と教えてくださった言葉も、深く心に残りました。それまでの私は、人が何と言おうと自分の心の赴くままに生きていました。しかし今度は、「自分がしたいこと」ではなく、「神様は何を望んでおられるのか」を考えるようになりました。
第一コリント12章3節には、「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」とあります。かつては大麻や音楽や遊びが私の心を支配していました。しかし今、私は「イエスは主です」と告白することができます。誘惑が完全になくなったわけではありません。それでも、御言葉によって誘惑に「NO」と言い、神様に従って生きたいと思うようになりました。
そんな中、鶴田先生から「これからの人生のビジョンは何ですか」と聞かれました。私は、「神様が望まれる道に従っていきたいです」と答えました。「それが献身の道でも?」そう聞かれた時も、「はい。神様が望まれるなら従います」と答えました。自分の心を本当に満たしてくださるのは神様しかいない。そのことを経験した私は、献身への道を受け入れました。これからJTJ宣教神学校で学び、牧師を目指して歩んでいきます。
もちろん、今でも課題があります。人にイエス様のことを話そうとしても、断られることがあります。札幌へ帰省した時には、お寺の跡継ぎである同級生や、ヤクザになった同級生に再会しましたが、自分がクリスチャンになり牧師を目指していることを話せませんでした。「相手を選んでイエス様のことを話している自分がいる」と気づかされました。
しかし使徒4章12節には、「この方以外には、だれによっても救いはありません」とあります。そしてイエス様は、「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)と命じられました。これからは人を恐れるのではなく、キリストの香りを放ち、良い種を蒔く人生を歩みたいと思っています。涙とともに蒔いた種を、いつの日か喜びとともに刈り取ることができると信じています。
人気アーティストのライブや、有名なハンバーガー店に長い行列ができているのを見ることがあります。そこには確かに喜びがあります。しかしライブの感動もやがて薄れ、昼にお腹いっぱい食べても夕方にはまたお腹が空きます。この世のものが与えてくれる満足には終わりがあります。しかしイエス様は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4:4)と言われました。 私はかつて、自分の好きなことを好きなだけすることが自由であり、それが幸せだと思っていました。
しかし神様に出会って分かったことがあります。本当の自由とは、自分の欲望のままに生きることではなく、自分を造り、愛してくださっている神様に従って生きることでした。神様から離れていた時も、神様は私を見捨てず、私の歩みを導き、必要な経験さえ備えてくださいました。そして今、私の心を満たすものは、この世のものではなく神様です。
これからどこへ導かれるのか、私にはまだすべて分かりません。しかし一つだけはっきりしています。イエス・キリストを主として、神様が望まれる道を歩んでいきたい。そして、私自身が受け取った福音を一人でも多くの人に伝え、良い種を蒔き続ける人生を歩んでいきたいと思います
編集室・気まま便り
小学生が誰にも言えない悩みをAIに話して、徐々に癒されていったという話を日本語テレビで見ました。
いわゆる心療内科の専門家がしているカウンセリングをAIが代わってしていて、ほとんどは同調しているのですが、それでもこういう悩みは自分だけではないのだと、勇気づけられていく。
小学1年の時に友達の輪に入っていったら、一瞬皆が黙ってしまい、空気が緊張した時の経験がトラウマとなって以来、友達に話しかけられなくなっていた男子が、AIに相談している内に、気持が和み、勇気も与えられ、友達に話していけるようになったのです。
AIが色々な分野で使われ、人間の生活に貢献してくれる時代が来ています。 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q どうして聖書が本当に神の言葉だと言えるのですか?
A これは大変重要なテーマです。これに答えるには多くの紙面が必要ですが、今回は重要なポイントを幾つか述べてみたいと思います。まず聖書が神の言葉であるという事実は、聖書自身の「聖書はすべて神の霊感によって書かれた」という供述によって知ることができます。聖書66巻は、1600年間の間に、40人の人々が互いに連絡を取り合うこともなく書いたものですが、その内容は、まるで一人の人が書いたかのように、完全な調和と一貫した主題を持ち、少しの矛盾もありません。このような不思議な事があり得る説明は、聖書の供述を受け入れる以外にありません。
次に、聖書が神の言葉であるなら、それは最近出版された本ではあり得ません。むしろ、時代を超えて、古くから生き続けて来た本こそが、そのような主張にふさわしいと言えます。この点で、聖書は、他の書物に抜きん出て、その資格を有するものです。ちなみに、イスラム教のコーランは今から1300年、仏教の経典は今から2400年前に書き始められましたが、聖書は今から3500年も前に書き始められたものです。しかもそれは、ただ「古い」だけではなく、今もなお世界中の人々に多大な影響を与え続けています。
また、不思議なことですが、聖書は決してこの世の人々に歓迎されながら、このような地位を得たのではありません。むしろ何千年にも渡って、様々な迫害や激しい攻撃を受け続けてきました。たとえば、世界の政治権力が聖書を滅ぼそうとしました。また様々な宗教が聖書の真理を覆い隠そうとしてきました。あるいは近代では、人間中心主義や人間万能主義の思想が聖書に立ち向かっています。そのように、いつの時代にも、聖書がこの世に好まれた時代など一度もなかったのです。しかし、それでもなお、聖書は大変な勢いで広がり続け、その地位を保ち続けているのです。
もし聖書が神の言葉であるなら、それは絶対に間違いのない、正確なものでなければなりません。過去の歴史を振り返ると、多くの学者たちが聖書の間違いを指摘してきました。しかし様々な学問の発展と共に、彼らの間違いが明らかになり、聖書は、自然科学の面でも、歴史の面でも、人間の主張にまさって正確な書物であることが証明されてきました。
さらに聖書が神の言葉であることを証明する最も説得力のある説明は、聖書預言の成就です。聖書には多くの預言があり、それらの成就の仕方は、まことに驚くべきものです。イスラエル国家の回復、栄華を誇ったバビロン帝国の興亡、イエス・キリストの生涯など、すべての預言がその通りに成就しました。人間の言葉なら、そうはいきません。
では、この聖書は、誰のために、また何のために書かれたのでしょう。聖書は、ただの雑学や耳学問のために書かれたのではありません。聖書は、もっと真剣な目的のために書かれました。それは、まことの神から離れてしまったあなたが、神のもとに立ち返り、イエス・キリストを信じる信仰によって、永遠の命を得るためです。
LVJCC・ニュースレター【アーカイブ】
https://lvjcc.com/lvjcc-news-letter-december-20
過去に発行されたラスベガス日本人教会・ニュースレター(PDF)はこちらをクリックしてください。
ラスベガス日本人教会
Las Vegas Japanese Community Church
1800 East Desert Inn Rd. Las Vegas, NV 89169TEL: 702-250-0966 | https://lvjcc.com/