DesertWind・ニュースレター November, 2026
『キリストの再臨に備えよう』(マタイ24:36−44)
LVJCC 牧師:鶴田健次
人は常に何かを期待し、何かを待ち望みながら生きています。そして、その待ち望むものによって、その人の心の持ち方が違い、生き方が違い、得るものが違ってくるのが私たちの人生ではないでしょうか。
では、私たちクリスチャンは、何を期待し、何を待ち望むべきでしょうか。仕事が上手くいき、生活が安定することでしょうか。幸せな家庭を築くことでしょうか。
それとも子供が立派に成長することでしょうか。もちろん、これらはみんな素晴らしい事ですから、ぜひそうなることを信じて頑張りたいと思います。
しかし、そういうものはこの世の終わりと共に無くなるものです。やがて無くなるものは私たちが一番に待ち望むべきものではありません。私たちは、絶対に確かなもの、最も価値あるものPを一番に待ち望むべきです。
それはキリストの再臨です。なぜ、キリストの再臨が一番に待ち望むべきものでしょうか。それは、キリストが再臨される時に、私たちの救いが完成するからです。
キリストの再臨は必ずある
神の子キリストは、今から約2000年前に、人間の体を取ってこの世に来られ、33年半の生涯を送り、私たちの罪の罰を私たちの代りに受けて下さり、死んで、墓に葬られました。
しかし、そのキリストは、死んで三日目に死からよみがえり、死に打ち勝つ道があることを世に証明なさいました。そして、復活の40日後に、生きたままで天に昇られ、やがて十字架に架かられたキリストを救い主と信じることで永遠の滅びから救われた人々を迎えに来ると約束されたのです。
ですから、初代教会の時代から今日に至るまで、クリスチャンたちはキリストの再臨を待ち望んできました。私たちが、この世の常識ではあり得ないキリストの再臨を信じるのは、それが聖書に預言されているからです。
キリストの再臨については、旧約聖書には約1500の預言が、また新約聖書にも、全体の25分の1に当たる319節において記録されている大預言です。そして、その膨大な数の預言は、キリストの再臨が如何に重要かつ確実なものであるかを証明するものなのです。
再臨の時は誰にも分からない
いつの時代にも、キリストはいつ再臨されるのかということは世界中の大きな関心事でした。しかし、まず私たちがはっきりとさせておかなければならないことは、キリストの再臨がいつであるかは誰にも分からないということです。
マタイ24:36に「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません」とある通りです。
確かに聖書には、この世の終わりやキリストの再臨の前兆として起こる出来事について多くの預言があります。ですから、その時が近いかどうかを悟ることはできます。
しかし、だからと言って、それが何年何月であるということは誰にも分かりません。聖書は、再臨の日は、旧約聖書のノアの日のように、人々が毎日を刹那的に、食べたり、飲んだり、楽しんでいる時に突然やって来ると言っています。
では、なぜキリストの再臨の時は、誰にも分からないように定められたのでしょうか。まず第一の理由は、信仰の真価が問われるためです。いつ来るか分からない事によって、キリストが来られた時に、私たちの信仰の真価が問われるのです。
また、もうひとつ、キリストの再臨の時が誰にも知らされない理由は、私たちが目を覚ましているためです。なぜなら、もし私たちが、キリストの再臨がいつであるかを知ったなら、私たちは、誠実に生きることをしなくなるからです。
キリストの再臨に備える生き方
では、この「目を覚ましておく」とは一体どういうことでしょうか。もし、あなたがノンクリスチャンで、キリストの福音に少しでも関心があるなら、真理を求めようとする思いをもっと強く持つべきです。なぜなら、真の神を知り、その神の招きに応えることは、あなたにとって何よりも大切な事柄だからです。
次に、もし、あなたがクリスチャンであるなら、まずご自分の救いを明確にすることです。なぜなら、洗礼を受けたことや教会に来ていることが救われていることの保証ではないからです。
また、私たちクリスチャンは、救われた者として、目を覚まし、イエス様がいつ来られてもいいように準備をしておかなければなりません。なぜなら44節にあるように、人の子、つまりキリストは、思いがけない時に来られるからです。
さらに、キリストの再臨に備えるとは、祈りの生活を大切にすることです。クリスチャン生活は霊的な戦いの連続で、祈りこそ勝利の鍵だからです。また、御言葉の学びに励み、クリスチャン同士が互いに愛し合い、伝道の業に励むことです。
『神様の愛』
証し:文子・ガストードー
初めまして。私は文子・ガストードーです。ラスベガスには、11年住んでいます。家族は、旦那のアーロン、娘のさくらと息子のサムエルです。2023年に娘のさくらが小児癌を発症し10ヶ月にわたる治療中、LVJCCの皆さんにもお祈りしていただき、ありがとうございました。
私がLVJCCにお世話になり始めたのは、コロナ前の聖書クラスからなので、少なくても5年前からです。ティーンエージャーに突入した子供達の子育てで、行き詰まったことがきっかけでした。
普段は家族でSMPCという教会に行っています。ずっと日本語で聖書を学びたいと思い、行き詰まったタイミングで鶴田先生の聖書クラスに行き始めました。今でも毎週水曜日のオリーブの会で、日本語で聖書を学ぶことができることに感謝しています。
私が信仰の道に入ったのは、旦那のアーロンによってでした。青森県十和田市で生まれ育った私は、神様を知らずに生活していました。三人兄弟の末っ子で、自由奔放な性格でした。
自分の好きなものには、一直線で、周りの目も気にならない程でした。地元の市役所で働いていた時、隣町の三沢米軍基地で働いていたアーロンと知り合いました。外国人アーロンとの交際は、一つ一つが新鮮でした。
毎週日曜日の礼拝に行くのも顔より大きなピザを食べるのも、彼らにしてみれば当たり前のこと。外国人も文化が違っても考えることは似ていて、同じ人間なんだということ。
その流れで、アーロンとの結婚が決まったときも、アーロンと義母にクリスチャンになることを望まれたので、結婚するということは結婚相手の文化、宗教を受け入れることだと思い、クリスチャンになることを決めました。
言語の壁があって教会にはなじめなかったので、いつも引っ越し先で、日本人ママのクリスチャングループを必死に探していました。
アメリカに移住5年後の洗礼式でようやく、主イエス•キリストが私の罪のために十字架で死んでくださったということを、自分のこととして心で理解しましたが、それでもまだ自分の中に信仰が根を張っていませんでした。
私達の生活は結婚当初から同じで、アーロンは仕事で家を空けることが多いので子供達のしつけは私がしなければいけない。いつも心に余裕がありませんでした。子育てを楽しめませんでした。
喜びと感謝がありませんでした。子供達に神様の愛を教えてあげられませんでした。私自身も神様に、叫び助けてもらうことをしませんでした。
子供達の育て方、接し方などの問題はその都度、育児書、ネットから必要な情報を探していました。しかし子供達が小さな時はそれで何とかなっていたものが、子供達がティーンエージャーになり、今までの方法ではたち行かなくなりました。
その頃の私を子供達はよく、「ママはいつも怒っている」と言っていたのを覚えています。最近19歳になる息子のサムエルに、「ママはよくどんな顔をしている?」と聞いたところ、私の目を見てニッコリ笑ってくれました。
20歳の娘のさくらも、昔は私を怖がって私の顔色をいつも伺っていて、寄り付かなかったのですが、最近は私を抱き締めて、「ママ大好き」と何度も言ってくれるようにまりました。
数年前、鶴田先生に、「子育てで大事なことは何ですか?」と質問をした時、色んな答えを期待していたのですが先生は、「愛ですね」という答えでした。
あまりにも短い回答に私は当時ピンとこなかったのですが、現在の私は、神様の愛と大きな恵みを理解し、その都度喜びや感謝で満たされるようになりました。悩みは恐らくこれからもあります。その時は、神様に祈り、神様の言葉を求め、神様の声に耳を傾け従います。
編集室・気まま便り
若い時、日本の教会に通っている内に救われて、今年で57年になりますが、当時は教会の人々が何事も前向きに捉えて、「神様に感謝」という言葉を連発しているのを聞いて、内心(理解しがたい)と思ったものでした。
しかし、その後結婚して外国に住んで、試練を超えた今、本当に心から、神様の愛の中を守られて過ごしてきたことを感謝する気持で一杯です。
いつも最悪の事態を想像して心配が絶えなかった性格がすっかりポジテイブ思考に変身しています。全知全能の神様を信頼してすべてをゆだねる事によって平安が与えられました。 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q なぜ博士たちは、イエス様に黄金・乳香・没薬を贈ったのでしょうか?
赤ちゃんの誕生を祝う贈り物として、黄金・乳香・没薬という組み合わせは、少し不思議に感じられるかもしれません。しかし、イエス様がどのようなお方かを知ると、この三つの贈り物には深い意味があることに気づかされます。
まず、「博士たち」とは、ギリシャ語では「マゴイ」と呼ばれ、星の動きを調べたり、その意味を読み取ったりする、宗教的な知識にも通じた賢者たちでした。彼らは、ユダヤ人の王としてお生まれになった方を捜し、礼拝するためにやって来たのです。
ただ、聖書には、なぜこの三つを選んだのかという説明はありません。ここでお話しするのは、イエス様の生涯に照らして、教会が昔から受け止めてきた贈り物の意味です。
黄金——王であるイエス様に
黄金は、昔から王に捧げるにふさわしい、貴重な贈り物でした。王を捜していた博士たちが黄金を持って来たのは、自然なことだったのでしょう。
しかし、彼らが出会ったのは、宮殿で大勢の家来に囲まれた王ではありませんでした。母マリアと共にいる、幼いイエス様でした。それでも彼らはひれ伏し、礼拝しました。
目の前の幼子を王として敬い、自分たちの宝を捧げたのです。黄金には、そのような敬意が表れていると考えられます。
乳香——神の御子であるイエス様に
乳香は、木の樹脂から採れる香料で、燃やすとよい香りがします。旧約聖書では、神様への礼拝に使われていました。
そのことから、乳香は、イエス様が礼拝を受けるにふさわしい神の御子であることを表す贈り物とされてきました。博士たちが、当時どこまでそのことを理解していたかは分かりません。
ただ、彼らは贈り物を渡して帰っただけではなく、イエス様の前にひれ伏して礼拝したのです。
没薬も木の樹脂から採れる香料ですが、遺体を葬るときにも使われました。ヨハネの福音書19章には、ニコデモがイエス様の埋葬のために、没薬と沈香を混ぜたものを持って来たと記されています。
生まれた子どもへの贈り物に、埋葬に使うものが含まれていた。そう考えると、私たちは少し立ち止まらされます。イエス様は、私たちの罪を負い、十字架で命を捨てるために、この世に来てくださいました。
その生涯を振り返ると、誕生の時に捧げられた没薬にも、やがて迎える苦しみと死を思わせる意味が見えてきます。
黄金は王としての尊厳を、乳香は神の御子であることを、没薬は救いのための苦しみと死を表す。このように、教会は三つの贈り物を受け止めてきました。なお、聖書には博士たちが何人だったかは書かれていません。
「三人」と言われるようになったのは、贈り物が三種類あったためです。それよりも心に留めたいのは、彼らがイエス様を求めて旅をし、ひれ伏し、大切な宝を捧げたことです。私たちも、その姿に倣って、心からの礼拝を主に捧げたいと思います。
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