DesertWind・ニュースレター February, 2024
『強くあれ、雄々しくあれ』(ヨシュア記1:1-9)
LVJCC 牧師:鶴田健次
ヨシュア記1:1-9は、神がヨシュアに語られた言葉ですが、神は2節で、「今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り」(口語訳)と、イスラエルの民と共に立つことをヨシュアに命じておられます。
この「共に立つ」ということは、パウロの手紙に繰り返し出てくる「互いに」という概念と同じ意味を持つ言葉です。教会は、この「共に立つ」、また「互いに」を大切にするべきです。なぜなら教会は神の民の共同体だからです。
神はカナンの地をアブラハムとその子孫に与えると約束されました。ところが、アブラハムの子孫はその約束を忘れ、430年もの間エジプトに定住し、彼らが約束の地に来たとき、すぐにその地を所有することはできませんでした。
カナンの地には既に先住民がいて、畳一枚の土地すら、何もしないで手に入れるということはできませんでした。たとえ約束の地とはいえ、その先住民たちと戦って勝ち取らなければならなかったのです。
これは私たちに対する教訓です。神はイエス・キリストを通して、救いと共に数多くの恵みを約束して下さいました。しかし、その恵みの約束は、私たちが、いわば様々な敵と戦いながら勝ち取らなければならないものであって、自動的に手に入るものではないのです。
①ヨシュアに語られた神の言葉
7-8節を見ると、「 ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである」とあります。
ここで神は、御言葉を行い、御言葉と共に生きるようにと命じておられます。常に御言葉に聞き、御言葉に留まるならば、私たちのなす事はすべて栄えるのです。なぜなら 御言葉を通して神が共にいて戦って下さるからです。
②私たちに語られた神の言葉
主は、きょう私たちにも同じ御言葉を語っておられます。ヨシュアに語られたように、神は、私たちに約束された恵みの領域をはっきり知るようにと言っておられます。
もちろん聖書の創世記から黙示録において、主は数えきれない約束を私たちに下さいましたが、何よりも私たちは、イエス様が十字架で体を裂き、血を流し、代価を払って買い取って下さった恵みの領域をちゃんと知らなければなりません。
神は、十字架を通して、罪の赦しと、神の子としての身分を私たちに下さいました。また十字架を通して、聖さと、聖霊の満たしを下さいました。十字架を通して、癒しと健康を下さいました。さらに十字架を通して、繁栄と祝福を下さいました。
また、十字架を通して、よみがえり、永遠のいのち、天国を下さいました。これが私たちに与えられた恵みの領域です。これらはすべて、私たちが手に入れるべきものです。なぜなら、これらは私たちのものだからです。
③私たちの戦いの場
では最後に、私たちの戦いの場は一体どこでしょう。私たちは何をもって、どのようにサタンと戦えばいいのでしょうか。サタンはいつもゴミの山を持ち歩きながら、私たちの心に色んなゴミを投げ入れようとします。
サタンは、憎しみと、敗北と、落胆のゴミを私たちの心に投げ込もうとします。世の人々はこれに抵抗もできず、そのままゴミを受け入れています。そして、憎しみのゴミが入れば憎しみ、敗北のゴミが入れば敗北し、落胆のゴミが入れば落胆するのです。
ですから私たちは、絶えず心の中に見張りを置いて、サタンがゴミを私たちの心に投げ込めないようにしなければなりません。私たちは、いつも肯定的で、積極的で、創造的で、生産的な思いを持たなければなりません。
愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制が心になければなりません。もし憎しみ、怒り、ねたみ、恐れ、不安が心にあれば、私たちは敗北してしまいます。
だから。「油断することなく、あなたの心を守れ。命の泉はここから流れ出るからである」と言われているのです。つまり私たちの考えが戦いの場なのです。
『真の礼拝者になろう』
証し:鶴田潤子
新年になり、早一か月が過ぎました。日本では元日早々思ってもみなかった大きな地震が発生し、多くの人々が悲しみと痛みの中におられます。
さて、今年1月7日の新年礼拝で示されたラスベガス教会の今年の教会標語は、『真の礼拝者になろう』でした。メッセージで語られた3つのポイントを分かち合いたいと思います。
①礼拝の大切さ
新年礼拝のメッセージを聴いて思わされたことは、「私たちの教会では、一体どれだけ真の礼拝が捧げられているだろうか?ということでした。確かに私たちは賛美をします。
お祈りもします。聖書からのメッセージも頂きます。しかし、どれだけ真実に神様を礼拝し、神様を褒め称えているかと問われました。
また、私たちが神様を礼拝するのに誰かが一緒である必要はなく、私たちの礼拝は、それを一人でするのを神がご覧にならないうちは、十分に神様を喜ばせるものとはならないことを学びました。つまり、神様の前に一人で出ることが大切だということです。
それができていなければ、公同の礼拝においても、ただ礼拝に集ってはいるけれど、真の礼拝は捧げられていないかも知れません。
礼拝の基本は、まず個人的に神様の前に出ること、そして個人的に神様を礼拝し、神様を褒め称え、神様と親しく過ごすことだと言われました。
そういう個人の礼拝の生活があってこそ日曜日の公同の礼拝が霊と真とをもって捧げられるものになるのだということです。
②礼拝がもたらす神の祝福
私たちが神様を礼拝し、神様を褒め称えるとどうなるのでしょうか? 神様は、神様を礼拝し、褒め称える者に、さまざまな奇跡をもって臨んで下さるのです。
聖書には、たくさんの病の癒しや奇跡が記されています。癒しを受けた人は、必ず、神様を礼拝し、神様を褒め称えています。
使徒の働きの3章で、生まれつき足なえが癒されたとき、彼は「歩いたり、踊ったりしながら、神を賛美した」と書いてあります。神が望まれることは、神の民が神を礼拝すること、そして神の教会が神を礼拝することです。
しかし、それ以上に神が望まれるのは、一人ひとりが一人でいる時に神を礼拝することだと学びました。そのように、神を礼拝する私たちの姿勢が、私たちを真実な公同の礼拝へと導くのです。
新年を迎え、神の子の尊い犠牲によって救われた私は、救い主イエス様に対し、次のような思いで生きていこうと思います。
「イエス様、私はあなたに感謝します。私はあなたを褒め称えます。私はあなたを愛します。あなたは私の主、私の神です。神様、私はあなたを礼拝し、あなたを褒め称えます。あなたこそ、生けるまことの神です。私はあなたと契約を結びます。私は生きている限り、どんなときにも、あなたの御名をほめたたえ、あなたを礼拝することを約束します。」
➂礼拝がもたらす御業
私たちは、たとえ問題や困難の中にいる時にも神様を礼拝すべきです。多くの人は「問題や困難が解決したら、神様をほめたたえますよ」と言われるかも知れません。しかし、それは大きな間違いです。私たちは問題の只中にあっても、神様の前に伏して、礼拝を捧げるべきです。
福音書を見ると、ある人たちはイエス様の前にひれ伏して礼拝しました。会堂司ヤイロの一人娘が死にかかっていたとき、ヤイロはイエス様の前にひれ伏しました。イエス様はヤイロの信仰を通して、死んだ娘をよみがえらせて下さいました。
それから、らい病人がイエス様のところに清めて下さいとやって来ました。彼は、イエス様にひれ伏してお願しました。イエス様が「わたしの心だ。きよくなれ」と言われると、すぐにらい病が消えました。
彼らは、ひれ伏しながら、イエス様に求めたのです。私たちは神様に対して、自分の問題をくどくどと言うべきではありません。神様は私たちの問題をすでにご存知なのです。
ですから、私たちは、その代わりに、神様を礼拝し、神様と親しく交わることが必要です。なぜなら、神様は私たちの礼拝を喜び、それを通して私たちに必要な救いを与えて下さるからです。
これからの一年、密室の祈り、もちろん公同の礼拝においても、主を心から褒め称える言葉を語って、主を礼拝したいと思います。そして、私たち全員が生ける神の御業を経験させていただきたいと願います。
編集室・気まま便り
過日、鶴田先生がメッセージの中で、詩篇23篇の中の「たとえ死の陰の谷を歩むとしても」の箇所で、「洞窟とトンネルの違いがわかりますか?」と問われました。
答は「トンネルには出口があるけど、洞窟にはない。」 そして「人生の中には暗い長いトンネルを通っているような時を必ず皆経験しますが、苦難が過ぎて、明るい所に出た時、振り返るとトンネルというのは大きな山を通り越すには最短距離だったという事がわかります。更にその試練は自分には必要な事だったと思えるものです。それは試練を通して神様を知ることができたからです。」
私にもこのような経験がありました。でも今は神様を見上げて感謝と喜びに満ちた日々を送っています。 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 神は良いお方なのになぜ自然災害が起こるのですか?
A この疑問は人類が昔から問い続けてきたものですね。特に自然災害で多くの犠牲者が出るたびに、人は、神がいるなら何故?という問いかけをしてきました。この疑問に対してはいろんな角度からの考察が可能ですが、ここでは聖書の記述に沿って考えてみます。
①自然災害の本当の原因
まず、この自然災害をもたらす自然界はもともと神によって造られたものです。神は天地万物を六日間で創造し、その造られたすべてのものをご覧になり、「それは非常に良かった」と言われました。つまり、それらすべての被造物は完全であり、そこには完璧な秩序があり、死もなく、破壊もなく、否定的要素など一切なかったということです。
ところが、最初の人アダムが神の命令に背いて罪を犯したことで、罪のないアダムに罪が入り、その罪のために彼は死ぬ者となりました。
ローマ書5:2にはこうあります。「こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった。」
また創世記3:17では、「あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる」と言われています。
このように、人類の代表であるアダムの罪は神との断絶を招き、本人のみならず、すべての人間、すべての被造物に罪と死と呪いをもたらすこととなったのです。その結果、人間や動物や植物などすべての生き物は時間と共に老化し、やがて死を迎えるという定めの中に置かれてしまいました。
そして、呪われた自然界も秩序を失い、地震や洪水や津波などの混沌と破壊をもたらすものとなり、鉄は錆び、岩石は風化し、すべてがエントロピーの法則のもとに閉じ込められることになったのです。
②被造物の贖い
しかし、愛の神は、イエス・キリストの十字架の贖いを通して人間を神と和解させ、死の定めから救い出し、永遠の命をもたらして下さいました。そして、すべての被造物が呪いのもとに置かれたのは人間の罪が原因なので、人間の罪の贖いが完成した暁には、すべての被造物は贖われ、呪いと滅びの束縛から解放されることになるのです(ローマ8:20、21参照)。
さらに、人間の贖いの完成によって人間は正真正銘の神の子どもとされるので、ローマ8:19に「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます」とあるように、すべての被造物が人間の贖いの完成を切実な思いで待ち望んでいるのです。
③自然災害の中にも神の恵みが
自然災害は人に苦難をもたらしますが、神はそれを良いことのために用いられます。苦難を通して、神は私たちの心を砕き、忍耐や練達、謙遜や素直さという成熟した心を与えて下さるのです。また苦難は、人間に神なき状態の悲惨さを知らせ、反省や警告を与え、神のもとに導いてくれます。そのために神は人が苦難を経験することを容認されるのです。
「苦しみに会ったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたの掟を学ぶことができました。」(詩篇119:71)
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