DesertWind・ニュースレター October, 2024
DesertWind・ニュースレター October, 2024
『神に近づきなさい』(ヤコブの手紙4:8 – 12)
LVJCC 牧師:鶴田健次
皆さんは、信仰生活において神様から離れていると感じることはありませんか? しかし、そんな時でも、神は決してあなたを見放さず、あなたが心を開いて神に近づくのを待っておられます。
では、神に近づくとはどういうことでしょうか。それは、単に教会に来ることではありません。私たちが日々の生活の中で、心から神を求め、神の意志を探り、従おうとする姿勢を持つことです。祈りを通じて、御言葉に耳を傾けることで、また互いに愛し合うことで、私たちは神に近づくのです。
イエス様は、私たちに父なる神との親しい関係を求めることの大切さを教えて下さいました。イエス様はいつも静かな場所で祈り、父なる神との親しい交わりを大切にされました。私たちも、その模範に倣い、父なる神様との関係を深めるための時間を持つべきです。
① 神に近づきなさい
私たちは日々、神に近づく人生を歩まなければなりません。聖書には、「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい」(ヤコブ4:8)とあります。悪い人に近づけば悪い影響を受け、善い人に近づけば善い影響を受けるものです。同様に、私たちは神に近づくことで神の恵みを受けるのです。
神に近づくとは、神が嫌う罪を遠ざけ、二心を持たず、神だけを信頼することです。世の中では世を愛し、教会では神を愛するという人がいますが、そのような人を神は「二心の者」と呼ばれます。ただ主だけに焦点を合わせ、神を見上げ、信仰をもって歩むとき、神の恵みと祝福が臨むのです。
神の御前に進む道は、御言葉と祈りです。神は祈る人に、さらに多くの恵みを与えてくださいます。ヘブル書4章16節には「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と記されています。
② 主の御前でへりくだりなさい
このような恵みを体験するために、聖書は「主の御前でへりくだりなさい」と語っています。私たちはへりくだらなければなりません。ヤコブ書4章10節には「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます」とあります。
人間は高慢であり、利己的です。神に仕えると言いながら、神よりも自分を優先してしまいます。だからこそ、神は謙遜な人を探しておられるのです。詩篇147篇6節には、「主は心の貧しい者を支え、悪しき者を地面に引き降ろされる」とあります。神は謙遜な人と共におられ、その人を通して御心を成し遂げられるのです。
イエス様も弟子たちに「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」と教えられました。謙遜は成熟したクリスチャンの姿であり、私たちが一生を通して学び続けるべき重要な姿勢です。
中世の聖人アウグスティヌスは、「イエス様の教えで一番重要なことは何ですか?」と問われ、「謙遜である」と答えました。その弟子が「二番目に重要な教えは何ですか?」と尋ねると、彼は「謙遜である」と答え、さらに「三番目に重要な教えは何ですか?」と問われると、「それも謙遜である」と答えました。それほどまでに、謙遜はクリスチャンの人生において重要なのです。
③ 互いに悪口を言ってはならない
ヤコブが教会の中で最も問題視したのは、クリスチャン同士が互いに悪口を言い合うことでした。ヤコブ書4章11節には「兄弟たち、互いに悪口を言い合ってはいけません」と書かれています。ここでの「兄弟」とは、クリスチャンを指しています。私たちは、互いに非難したり裁いたりするべきではありません。裁きは神様がなさることであり、私たちがそれを行うなら神の役割を奪うことになります。
神が私たちに命じられたことは、「互いに愛し合いなさい」ということです。レビ記19章18節には「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」とあります。隣人を愛さず、悪口を言い合い、争うことは、神様の命令に背くことです。
ある日、律法の専門家がイエス様に「律法の中で最も重要な戒めは何ですか?」と尋ねました。するとイエス様は「神を愛し、隣人を愛することが最も重要な戒めである」と答えられました。私たちが隣人を愛するならば、家庭や教会、そして社会の問題も解決されるのです。
『南加リトリートに参加して』
証し:ヘインズ・なおみ
今年5月、東海岸バージニア州から主人の転勤でラスベガスに引っ越してきたばかりです。右も左もわからず、日本人教会に通い始めて早々に教会のご案内で8月末のクリスチャン・リトリートに参加しました。メイン講師は、動画で何度も拝見したことのある有名な中川健一牧師のレクチャーということもあり申し込みは数日で埋まったそうです。
3年程前に洗礼を受けたばかりの私はクリスチャン歴が短く、まだまだ未熟で聖書の理解が浅く、腑に落ちないことばかりです。聖書についてもっと深く勉強したいと常々思っていたので、2日間のレクチャー参加は大変有意義な経験になると思いました。今回のリトリート参加では、聖書に関する様々な疑問を少しずつですが解決の糸口を見つけることができ、また次回のリトリートに参加したいと期待を抱かせてくれました。
ラスベガスを早朝に出発し、砂漠が続く丘陵風景から緑の山々に景色が変わり始めた頃にはすでにロサンゼルスにあともう少し。片道4時間プラスの道のりは、洋子姉とのおしゃべりであっという間でした。リトリート主催地は修道女のリタイアメント・コミュニテイー用として建築され、高台の緑溢れる森の中にひっそりと隠れるように建っており、キャンプ場のように広い敷地内は迷路のようでした。
参加者は皆が勉強熱心なクリスチャンで、日本からも数名、NY州やGA州など遠方からの参加者も多く、学ぶ事以上に交わることにも熱心でとてもフレンドリーな集まりでした。参加者と食事を共にし、賛美と祈り、学びの集いは聖書の理解を深める絶好の機会でした。
リトリートのオープニングは、カリフォルニアの賛美グループがリードしました。メインボーカルの小坂Asiahさんが賛美し始めると、不思議なことに私の頭頂がビリビリし始めて、聖霊の臨在を感じました。Asiahさんは最近14歳の娘さんを癌で亡くした経験を証されましたが、話を聞きながら子供を亡くした親の心情を思うと涙が止まりませんでした。
人はそれぞれにいろんな形の苦悩があり、苦しみ抜いて、神にたち帰れるのだと思いました。賛美を歌うAsiahさんは、その瞬間に彼女の魂が神と繋がって、神に心から感謝する姿を私に見せてくれました。全てを委ね、真剣に神に賛美を捧げる、そんな感動的な賛美でした。
ハイライトである中川牧師のレクチャーは“聖書が教える霊的戦い”というテーマで、旧約聖書から現代に至るまでの神の国vs悪魔の国の葛藤をサマライズし、当時の歴史的背景を交えながら聖書の流れを解説することにポイントをおいて進行しました。
新約聖書の時代になり、ローマ時代に国教となった後に爆発的にキリスト教が拡大した流れと同時に、悪はいつの時代でも霊的な戦いを仕掛けている事、それを知る重要性を詳細に説明してくださいました。後半は、現在に至る私たちの価値観の変化に対して、いかにして巧妙に悪が働いているかという現実でした。
様々な宗派や宗教が溢れ、オリジナルの聖書的な世界観を否定する現代の価値観変容は、中絶問題を含め多様な世界観や道徳観を生み出しています。ましてや、それは現在の私たちの政治観にもリンクしているという現実的な面がもっとも問題で、これからの大統領選に対する投票の重要性を再認識しました。
霊的戦いは現実世界の戦いであり、レクチャーによって点と点が線でつながった箇所が多々あり、意味不明だった聖書の教えがクリアになり、聖書を読むことがもっと面白くなってきたように思います。コロナに感染して長い間体調がすぐれない中川牧師でしたが、長時間のレクチャーを喉の調整をしながらジョークを交えながらで、楽しくお話を聞くことができました。
「アバ、父よ、あなたにはできないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください。」マルコ 14:36 この御言葉にあるイエス様のように全てを父なる神に委ねる信仰へと成長したいと願っています。今回のリトリートを準備し主催してくださった鶴田牧師とスタッフに心から感謝致します。
編集室・気まま便り
最近息子から漢字の名前でサインされたレシートの写真が送られてきて、その名前の読み方を尋ねてきた。それは過日息子の家族がラスベガスに滞在した時、ホテルからルームサービスの費用を請求されたが、「これは人違いだ」と抗議して、サインの名前をどう読むかホテルに伝えたそうだ。日本からの観光客はクレジットカードを使った時、漢字でサインをするので、ホテルの係員が困って息子の所に持ってきたようだ。
息子にバイリンガルを生かして積極的に世の人々、困っている人を助けるようにと勧めておいた。私が多くの人々の温かい親切を受けてきたから出た言葉だった。神様の戒めを忠実に守り善き行いを実践している人々に感謝である。 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 「先の者は後になり、後の者は先になる」とはどういう意味ですか?
A 「マタイ20:16の「後の者は先になり、先の者は後になる」という言葉は、イエス様がブドウ園の労働者のたとえ話を通して伝えられた教えの一部です。このたとえ話は、神の恵みと救いに関する深いメッセージを含んでいます。
①神の恵みの平等性
ブドウ園の労働者のたとえ話では、異なる時間に雇われた労働者たちが、最終的に同じ報酬(1デナリ)を受け取りました。この報酬は、彼らが働いた時間や努力に関係なく、主人(神)の恵みによって与えられたものです。つまり、このたとえ話は、神の恵みが時間や行いに基づかず、無条件にすべての人に与えられることを示しています。早く信仰に入った者も、後に入った者も、同じ救いと報いを受けることができるのです。
②人間の期待と神の逆転
「先の者は後になり、後の者は先になる」という言葉は、人間の価値観や期待が神の価値観とは異なることを強調しています。人間的には、長く信仰を持ち続けた者や多くの善行を積んだ者がより多くの報いを受けると考えがちですが、神の国ではそれが必ずしも当てはまりません。むしろ、謙虚に神の恵みを受け入れる者こそが先に祝福されるという逆転の現象が起こるのです。
③「先の者」とは誰か?
この文脈において、「先の者」というのは、パリサイ人や宗教的なエリート層を象徴していると考えることができます。彼らは、神に最も近い存在であるかのように自負し、自分たちが救いを受けるのは当然だと考えていました。彼らは長い間、律法に従って信仰を守り続けてきたため自分たちが「先に救われる」と信じていたのです。
しかし、イエス様のたとえ話は、神の国における価値観の逆転を示しています。律法を厳格に守り、自分の行いに誇りを持つ「先の者」たちが、実際には神の国で後にされるという驚くべき警告を与えています。彼らは形式的には信仰を持っていたものの、神の真の恵みや謙虚さを理解していなかったため、神の国ではその位置を失うことになるのです。
④ 「後の者」とは誰か?
「後の者」というのは、当時の社会で宗教的に軽んじられていた人々を指しています。これには、罪人や徴税人、異邦人、またはユダヤ教の伝統に従わなかった人々が含まれます。イエス様は、これらの「後の者」たちにも神の国の祝福が開かれていることを示されました。彼らが謙遜な心で悔い改め、神の恵みを受け入れたとき、彼らは神の国で大いに祝福され、先に救われることができるのです。
⑤まとめ
結局のところ、このたとえ話は、誰が先に救われるか、誰が神の前で優れているかは、人間の価値基準ではなく、神の恵みと愛の尺度によって決まるということを教えています。パリサイ人たちのように、自分の功績や律法の行いに頼る者は後にされ、神に依り頼み、謙虚に恵みを求める者が先にされるという逆転が、イエス様のメッセージの核心なのです。
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