DesertWind・ニュースレター September, 2024
『イエス・キリストは神である』(マタイ26:62 – 63)
LVJCC 牧師:鶴田健次
「そこで大祭司が立ち上がり、イエスに言った。『何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているのは、どういうことか。』 しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。『私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。』」(マタイ26:62-63)
この言葉は、ユダヤの最高議会でイエス・キリストが裁判にかけられた際に、ユダヤ教の大祭司がイエス様に向かって決定的な答えを求める尋問をした時の言葉です。イエス様は、大祭司に「おまえは神の子キリストなのか」と追求された時、「そうだ」と言えば死刑になることを知りながら、「その通り」だとお答えになりました。
それはイエス様が本当に神であられたからです。もしイエス様が、本当は人間であるのに、それを知りながら嘘をついたのであれば、イエス様の死は犬死にであり、その死には何の意味もありません。それどころか、イエス様が神であると信じて、迫害の中で進んで死んでいった殉教者たちに対して、イエス様の嘘は赦されるものではありません。それはとんでもない嘘です。
しかし、果たしてイエス様がそのような嘘つきであり得たでしょうか。また、殺されると分かっていながら、わざと嘘をつくでしょうか。そんなバカなことはありません。イエス様は嘘をついたのではないのです。
あるいは、もしイエス様が、本当は人間であるのに、神であると思い込んで、ご自分を神だと主張されたのだとしたら、イエス様はかなりひどい妄想狂、つまり気違いということになり、この場合もまたイエス様の死は全くの無駄死にになってしまいます。
ところが、イエス様の生涯から、イエス様が嘘つき、もしくは気違いであったという結論は絶対に引き出せません。そうではなく、イエス様は、ご自分を神だと証言することが死罪に当たることを知りながら、それが真実だったので、その通りに神の子キリストであることを表明されたのです。
つまりキリストは神であったということ以外の合理的解釈は成り立たないのです。またイエス様は、神としての絶対性を主張されました。イエス様は「私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらなければ、父のみもとに行くことはできない」と言われました。つまり、ご自分だけが真理であり、永遠の命に至る唯一の道だと言われたのです。
そのようにキリストが神であられた証拠はたくさんあります。キリストは神であられたので、さまざまな奇蹟を起すことがおできになりました。
水を葡萄酒に変え、5つのパンと2匹の魚で5000人の人々を満腹にし、生まれつきの足なえを立たせ、生まれつき盲人の目を開き、水の上を歩いたり、死人を生き返らせたり、信じられないような奇蹟をなされ、これらの奇蹟は、ご自分が神であることを示すしるしだとイエス様はおっしゃいました。
さらに、イエス様が十字架で死んで三日後に死からよみがえられた復活の事実は、キリストが神であることの最大の根拠です。キリスト教弁証論を学べば解りますが、復活を証明する証拠は復活を否定する証拠よりも圧倒的に優勢で、復活はまぎれもない歴史的事実であり、それはキリストが神であったことを物語るものなのです。
また当時も今も、イエス様のなされる奇蹟のひとつは、人間の内に心の変革をもたらすことです。それは絶望的な人間を希望に満ちた者に作り変えることです。それは、どんな宗教も道徳も教育も医学もなし得ない人間革命であり、これからもイエス様はこの奇蹟を私たちの内に起こし続けていかれます。
もしキリストが人間なら、キリストは嘘つきか気違いでしかなく、そんな人物がこの2000年間に渡って人々を作り変え、奇蹟を起し続け、人々の心に平安をもたらせ続けることができたでしょうか。そんな事は不可能です。それができたのはキリストが神であられたからです。
この他にも、キリストが神であることを裏付ける証拠はたくさんあります。中でもキリストの初臨に関する旧約聖書の300の預言がすべてイエス・キリストに的中した事実は、統計学に明るい人であるなら疑う余地をまったく残さないほどにキリストが神であったことを証明するものです。
そして、このキリストが神であるなら、キリストはあなたの救い主であり、あなたにとってキリスト以外に救われる道はないのです。あなたの祝福を心からお祈りします。
『感謝の人生』
証し:ウエアー・義江
私は1934年4月1日に神奈川県川崎市に生まれました。 兄と弟の3人兄弟でしたが、兄はすでに亡くなり、弟は今沖縄に一人で住んでいます。弟の事で忘れられない思い出があります。
昔弟を迎えに北海道に行った時、せっかく来たのだからとしばらく観光をしていたので助かったのですが、もう少しで洞爺丸に乗り、遭難して弟と2人死んでいたかもしれないのです。その夜は雨と強風という大変な嵐となり、山の方に避難してくださいと旅館の人に言われたのを覚えています。
翌日港に行ったら、死体がたくさん並べてあったのです。1500人が死んだという戦後最大の遭難事件だったと聞きました。その船には3人の宣教師が乗っていて、救命具を譲って殉教した事は街中に広まり、救命具をもらった人のうち2人がその後牧師になったと聞きました。
1969年アメリカのオハイオ出身の人と結婚しましたが、結婚後も違う店ですが働きました。初めてアメリカに来たのは1970年、テネシーに住みました。その2年後には日本に戻り、1985年にハワイに移りました。その間2人の娘が生まれて、現在長女テレサはラスベカスで一緒に暮らしています。次女キャロはハワイに住んでいます。
1997年私と娘達はハワイに残り、主人だけが沖縄に派遣された後しばらくして、思いもしなかった離婚という出来事が私の上に起きて、あまりに突然だったので一時はパニック状態となりました。この時初めて鬱という病気があることを知りました。2人の娘を抱えて夢中で働きよく病気もしました。
その内薬を飲んでも眠れない日が続き、睡眠不足で運転は危ないのでバスを利用しました。ある日座っていたら、凄い睡魔におそわれ、10分位寝た時に怖い夢を見て汗びっしょりになって目覚めました。
こんな思いをするのなら、寝なくてもよいと思ったほどでした、「大海原すがるもの一つなく、今日も波高く、ろうそくの炎微動にせず」 週2日バスに乗って仕事に通っていました。
帰りは夕方7時ころ、ある日気が付いたら、夕焼けが真っ赤に空を染めていてあまりの美しさにバスを降りるまで見入って感動しながら家路に着いた時もありました。 又ある時別れた夫から突然に大金が送られてきたのですが、それは私が当然受け取るべき分である事がわかり安堵しました。
その頃ハワイでは回りにたくさんのクリスチャンがいたので、親しく交わっている内に教会に誘われて行くようになりました。聖句の一つ一つが私の為に書かれたのではないかと思える位、まるで水が砂に吸い込まれるように心に響きました。日本語で聖書を読むことができる事を感謝しました。
まだあまり分からない内でしたが、イエス様を救い主として受け入れ、ハワイ・バプテスト教会の牧師さんより洗礼を受けました。洗礼式の日に久しぶりに訪れた海は太陽がキラキラと輝き、神様の祝福の中、牧師さんのお祈りと共に海の中に沈められた時は気持がよく、私は生まれ変わり新しい人生がこれから始まると思い感動したのを今でもはっきり覚えています。
クリスチャンになってからは神様のお守りを堅く信じ、細かい事を気にしなくなり、特に物質欲がなくなり、むしろ天国に宝を積む生き方へと変化していきました。「気前よく施して、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんで、かえって乏しくなる者がある。」 箴言11:24
娘が居るラスベガスに2年前に移り、日本人教会を見つける事ができ、皆さんに温かく迎えられて、毎週日曜日の礼拝には娘が連れて来てくれます。その他の日は運転をしない私のためにY姉がまめに声をかけて下さり、車に乗せて教会の集まりに連れて来てくださるので感謝しています。
今年のイースターには転会式をして正式にラスベガス日本人教会の会員となれた事は大きな喜びでした。又その翌日には90才の誕生日を迎える事ができました。
私にとって聖書のみ言葉は教えや勧めではなく、神様からの命令と受け止めて、なんの抵抗もなく従うようになりました。「私はあなたに命じたではないか、強く雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの行くところどこででも、あなたの神、主があなたと共にいるのだから。」ヨシュア1:9
編集室・気まま便り
希望の収穫の主事である山本真美子先生が同僚とともに始めた「150万羽折鶴平和プロジェクト」で戦争中殺されたユダヤ人の子供達の数が150万という事で、それを折鶴で表して、慰霊と平和を願うプロジェクトが立ちあげられました。
16年経ち、日本を始め世界に広まり、多くの人々の協力により、今年の春目標を達成しました。次は展示する所を探していたら、ふと浮かんだのがロスにあるイスラエル大使館です。
山本先生が折鶴をいくつか持参して事情を大使館の方々に説明したところ、“Good idea”と言われて、「鶴を一羽ずつ離して糸でつなげて持ってきてくれたら、私達が送料を負担してイスラエルに送ってあげます」という事になりました。ハレルヤ主を賛美します。 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 神はどこから来たのですか?
A 「神はどこから来たのか?」という質問は、明らかに、それはあなたが誤った神について考えていることを示しています。なぜなら、物質世界の外に存在する超越的な存在としての神を仮定することは、科学的な視点とは異なるものだからです。科学は、物理的な世界における現象の説明を求めるものであり、超自然的な存在については証明も反証もできないのです。
聖書の神は時間、空間、物質に影響されることがありません。もし神が時間、空間、物質に影響されるなら、それは神ではあり得ません。時間、空間、物質は、私たちが「連続体」と呼ぶものであり、これらは同時に存在しなければなりません。
なぜなら、物質があっても空間がなければそれを何処に置くのでしょうか? 物質と空間があっても時間がなければ、いつそれを置くのでしょうか? 時間、空間、物質は独立して存在することはできず、同時に存在しなければならないものなのです。
聖書はこれを創世記1章1節で「はじめに神が天と地を創造された。」と答えています。ここに、時間、空間、物質が同時に創造された三位一体が示されています。
また、時間には1. 過去、2. 現在、3. 未来があり、空間には1. 長さ、2. 幅、3. 高さがあり、物質には1. 固体、2. 液体、3. 気体があります。
これで三位一体の三つの要素が瞬時に創造されたことが示されています。そして、この全てを創造した神は、それらの外に存在しなければなりません。もし神が時間に制限されるなら、それは神ではありません。コンピューターを作った人はコンピューターの中にはいません。
その人はコンピューターの中を走り回って画面上の数字を変えたりはしません。宇宙を創造した神は宇宙の外におり、宇宙を超越しており、宇宙の中にあり、宇宙を貫いており、宇宙に影響されることはありません。
ですから、「霊的な力が物質的な身体に影響を与えることができない」という考え方には問題があります。なぜなら、その場合、感情や愛、憎しみ、嫉妬、理性といったものをどう説明するのでしょうか。
もしあなたの脳が偶然に何十億年もかけてできた化学物質のランダムな集合体であるなら、どうしてあなたの推論や考えを信頼できるでしょうか?
ですから、あなたの「神はどこから来たのか?」という質問は、制限された神を前提にしているのです。それがあなたの問題です。私が礼拝する神は、時間、空間、物質に制限されることはありません。
もし私が3ポンドの重さの脳の中に無限の神を収めることができたなら、その神は礼拝するに値しません。しかし、私が信じる神はあまりにも偉大で、私のちっぽけな脳の中にとても収めることなどできません。それが私が礼拝する神です。
このように、神は「時間」や「空間」を超越した存在であるため、「どこから来たのか?」という質問は、神には適用されないのです。神は常に存在しており、私たちの理解を超えた存在であるため、私たちはその偉大さと無限性に畏敬の念を抱くことが求められるのです。
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