DesertWind・ニュースレター July, 2024
『絶望が希望に』(ルカの福音書7:11-17)
LVJCC 牧師:鶴田健次
今日はナインのやもめの物語を通して、どのように絶望の中で希望を見出すことができるかを考えてみたいと思います。
詩篇34篇18節に「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の打ちひしがれた者を救われる」とありますが、この御言葉は、神が私たちの最も必要な時にいつもそばにいて下さることを示しています。神は私たちの避け所であり、力であり、困難の時の助けなのです。
ところで、イエス・キリストのよみがえりは、絶望の人生を歩んでいた全人類に絶対的な希望をもたらしました。キリストが人間の姿でこの世に来られ、私たちの罪を背負って十字架に架かり、3日後に死からよみがえられたことにより、人類はすべての罪の束縛から解放され自由を得る道が開かれたのです。また私たちはイエス・キリストによって新しい人となり、永遠に祝福された人生を歩めるようになったのです。
① 深い絶望に陥った女性
イエス様がナインという町に行かれた時、棺を担いで来る葬列に出会いました。その葬列の棺のあとを、一人息子を失った一人のやもめが泣きながら歩いていました。早くに夫を亡くしたこの女性は、夫が残した一人息子が唯一の希望であり、生き甲斐でした。
しかし、その大切な息子が突然死んでしまったのです。天が崩れるような絶望が彼女に降りかかりました。母親は若い息子に期待し、その将来を思い描いていたことでしょう。しかし人生はこれからという若さで、息子の命と将来は断たれてしまったのです。
聖書の時代、やもめが生きていくのはとても困難なことでした。妻は夫によって経済的に養われていたからです。このやもめは夫に先立たれたあと、貧しい生活を余儀なくされていたはずです。しかしその貧しい生活の中にあって、この一人息子は彼女の希望でした。
この母親は、息子の死によって、愛する者を失うという精神的な喪失と、これから生きていくための支えを失うという経済的な喪失を味わい、そのことによって精神的にも経済的にも生きる希望が断たれてしまったのです。
② あわれみ深いキリスト
イエス様は、息子が死んで、涙を流しているやもめを憐れまれました。ルカの福音書7:13を見ると、「主はその母親を見て深くあわれみ、『泣かなくてもよい』と言われた」 とあります。イエス様はこのやもめを深く憐れまれたのです。イエス様が憐れまれると、すべての問題が解決されるのです。
この「憐れむ」という言葉の原語のギリシャ語は「断腸の思い」という意味を持っています。イエス様は断腸の思いで、やもめの悲しみを理解し、その痛みを感じられたということです。
イエス様が憐れんで下さる時に、奇跡が起きるのです。イエス様が憐れんで下さった時、盲人バルテマイの目が見えるようになりました。イエス様が憐れんで下さった時、ツァラアトに冒された人が癒されました。またイエス様が憐れんで下さった時、五つのパンと二匹の魚で五千人の男たちが養われました。
イエス様は、私たちが絶望に陥った時、人々は私たちから離れていくかも知れませんが、イエス様は私たちに近づき、 私たちを憐れみ、私たちの問題を解決して下さるのです。
③ 絶望が希望に変わる
イエス様が憐れまれると、絶望が希望となって私たちに近づいてきます。イエス様はやもめを憐れまれました。断腸の思いでやもめの苦しみを憐れみ、棺に触れると、死者に起き上がれと命じられたのです。誰がそんな事を口にすることが出来るでしょうか?
泣きながら、肩を落とし、希望を失い、力なく歩いていたやもめは、目の前で息子が生き返った姿を見て、大はしゃぎで喜んだことでしょう。唯一の希望であった息子が死んだと思ったら、その息子が目の前で生き返ったのです。イエス様がやもめを憐れみ、その息子を生かして下さったのです。イエス様が近づいて来られれば、どんな絶望も希望に変えられるのです。
イエス様は全人類の希望です。イエス様だけが私たちの唯一の道であり、真理であり、命なのです。イエス様の死とよみがえりによって、罪と絶望の中で生きている私たちに絶対的な希望の扉が開かれたのです。ですから私たちは、すべての感謝と賛美と栄光を主に捧げたいと思います。
『主の恵み』
証し:コールマン・善
僕は最近高校を卒業しました。卒業後は空軍に入隊し、軍人の道を歩む予定です。今日は、僕の人生においてこの重要な節目を迎えることができたことを、主に、そして僕の人生に関わってくださっている数多くの方々に心から感謝を捧げたいと思います。
また、この場を借りて、僕と僕の信仰のために祈ってくださっているラスベガス日本人教会の皆さんにお礼を申し上げます。この大きな節目を迎え、僕はたくさんの方々に祈られてここまで生きて来られたことを改めて思わずにはいられません。
僕の人生を通して、神はいつもそばにいてくださり、僕とともにいて、これからもずっと共にいてくださると確信し、それ故に平安を得ています。「私はあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。私は造った故、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」イザヤ46:4
ある時父と話していて、マタイによる福音書14章にある出来事について話す機会がありました。この物語は、バプテスマのヨハネが死に、イエス様が5000人に食事を与えた直後の出来事を描いた箇所です。弟子たちが湖を渡っていると、主が嵐を起こされました。弟子たちは誰かが水面に立っているのを見たのです。
弟子たちはそれがイエス様であることを理解できず、イエス様は、「しっかりしなさい。わたしだ、恐れることはない」と言われました。ペテロはそれを疑い、イエス様に「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」とイエス様に言いました。
イエス様はペテロに来るように言われ、ペテロは水の上を歩き始めます。ここから先は、この主の御言葉をそのまま読んで、まことの主が語られたことの重みを味わっていただきたいと思います。
マタイ14:29-33:イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ、助けてください」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」そしてふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。
これまでの自分の学生時代を振り返ると、僕は時に主を疑い、その結果挫折したことが何度もあったことを思い出しました。聖書にあるこの物語は、僕の心にとても響いてきました。高校最後の年、僕は自分の学校生活を違った角度から見ることができた気がします。僕はずっと、学校に行くことは重荷であり、嫌だけどやらざるを得ないことだと考えていました。
ところがここまで無料で一般的な知識を得ることができたということが、どれほど幸せなことなのか、ようやく気づいたのです。僕が当たり前のように受けてきたこの義務教育を受けることができない人がたくさんいることにも気づかされました。そして神様のこの恵みに答えるようにして、勉強に専念して、GPA4.0という成績で12年生を終えることができました。
イエス様への信仰を持つことは、この上なく大切なことだと思います。信仰がなければ、これまでの人生で苦難のいくつかに直面したとき、僕は非常に迷い、混乱していたことでしょう。
しかし、主は宣言されました。エレミヤ書29章11節 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
新たなチャプターが始まろうとする今、すべては神のご計画通りに起こると信じているからこそ、自分の将来への不安もなく、平安が与えられ、ただただ神を信じて主とともに歩んでいきたいと思います。
「幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。主のおしえを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。」 詩篇1:1-3
皆さんの上に、神様の多くの祝福がありますように!
編集室・気まま便り
世界中が現在インフレに苦しんでいる。アメリカでも家を始め物価があまりにも上がり、特に若い人々の生活を圧迫している。しかし物質主義を思い返すよいチャンスともいえる。
神様は「誰も2人の主人に仕える事はできない。なぜなら、一方を憎んで他方を愛するか、一方に執着して他方を軽蔑するかのどちらかだからです。神と富に仕えることはできない。」(マタイ6:24)
このみ言葉を読んで単純に「ではお金儲けをしてはいけないのですか?」と言った人がいたが、そうではなくて、多くの富を得てもよいが、ただ使い方が問題で、神様のみ旨に沿った使い方をしたらよいのであるという事を学んだ。 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 死んだイエスは神ではあり得ないことになりませんか?
A 「死んだイエスは神ではあり得ない」という疑問は、キリスト教の神学において非常に重要な問題であり、複雑な議論が存在します。以下にその理由を簡単に説明します。
1. キリスト教の神学的解釈
キリスト教の伝統的教義によれば、イエス・キリストは「二性一人格」(Hypostatic Union)であり、以下のように理解されます:
* 神性:イエスは永遠に存在し、創造主であり、全知全能の神です。
* 人性:イエスは人間として生まれ、苦しみ、そして十字架上で死にました。
この教義は、イエスが神であり、同時に人間でもあることを強調します。イエスは人生において実際に死を経験しましたが、その神性は永遠に生き続けています。
三位一体論
三位一体論(Trinity)は、父、子(イエス・キリスト)、聖霊が一つの神であるとする教義です。イエスの死はその人性に関わるものであり、神の本質が変わることはありません。三位一体の神は、イエスの死によって完全性や神性を失うことはないのです。
2. 歴史的な教義と議論
アリウス派は、イエスを創造された存在と見なし、神と同等ではないと主張しました。しかし、325年のニカイア公会議では、イエスは「父と同質」であり、完全な神であると宣言されました。この決定により、イエスの神性は公式に確認されました。
451年のカルケドン公会議では、イエスの二性(神性と人性)の完全な区別と同時存在が確認されました。これにより、イエスの人性における死は神性に影響を与えないと理解されました。
3. 神学的解釈の詳細
キリストの受肉(Incarnation)は、神の子が人間として生まれることを指します。イエスは完全な神性を保ちながら、人間の本性を取ったとさされます。受肉の教義は、イエスの神性がイエスの人性によって変わることなく、イエスの死を通じて人類の救済を成し遂げる手段であると解釈します。
贖いと復活
イエスの死と復活は、キリスト教の救済の中心的な教義です。イエスの死は、人間の罪の贖いのためであり、イエスの復活は死に対する勝利と永遠の命を象徴します。イエスの神性は、イエスの復活を通じて明示され、死を超越するものと理解します。
4. 現代の視点
一部のリベラル神学者は、イエスの死を象徴的または倫理的な教訓として解釈します。またユニテリアン主義は、イエスを偉大な教師や預言者として見ますが、神性を持つ存在とは見なしません。彼らは三位一体の教義を否定し、イエスの人性を強調します。
結論
イエス・キリストが神であり、同時に人間であることは十字架の贖いの有効性と信仰義認の教義を支える重要な事柄です。それゆえイエスの神性を否定する如何なる教えもすべて異端と見なされます。
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