DesertWind・ニュースレター December, 2023
『万人の救い』(ローマ人への手紙 10:1-13)
LVJCC 牧師:鶴田健次
使徒パウロは、弟子のテモテに書いた手紙の中で、「神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる(1テモテ2:4)」と言っています。
ここで言われている「救い」というのは、この世のご利益宗教が説いているものとは全く違うもので、それは人間の罪がもたらす死と死後における永遠の裁きからの救いのことです。ですから、これは「すべての人」に関係するものだと言えます。
聖書が教える真理は、人間は、善行や難行苦行をしなくても、戒律や規則を守らなくても、念仏を唱えたりしなくても、信じる者が救われるのです。では、一体何を信じれば人は救われるのでしょうか。
それは、天地万物を造られた唯一の神が存在されること、そして、その神が、ご自身の独り子であるイエス・キリストをこの世に遣わされたこと、さらにキリストがあなたを救うために十字架で身代わりとなって死んで下さったこと、そして、三日目に死からよみがえられたことを信じるのです。これらのことを、ただ信じるだけで、あなたは救われるのです。
①熱心なだけでは救われない
神に対して熱心であることは良いことですが、その熱心は聖書の教えに基づいたものでなければ意味がありません。聖書の教えに基づかない熱心は、独りよがりに陥ってしまう危険があります。つまり、熱心なだけでは人は救われないのです。
パウロは、同胞イスラエル民族が救われることを心から願っていました。イスラエルは神に対して熱心でしたが、その熱心は正しい知識に基づいたものではありませんでした。つまり、その熱心は神の教えに基づいたものではなく、自分なりの熱心だったのです。
信仰生活において、熱心であることはとても重要なことですが、大切なことは信仰の方向性です。イスラエルの民は確かに熱心でした。しかし信仰の方向性が間違っていました。
彼らは神に対して熱心でしたが、その熱心は神の言葉を基盤としていなかったので、気がついてみたら神の御心と全くかけ離れた所にいたのです。
②救いはキリストにある
では、正しい信仰の方向性とは、どの方向でしょうか。それはイエス・キリストとその教えです。イスラエルの熱心は、なぜその方向性が間違っていたのでしょう。ローマ10:3を見ると、「というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです」とあります。
神の義は、旧新約聖書を通して一貫して流れている聖書の重要なテーマです。それは、どうしたら神と私たち人間との壊れた関係が回復されるのかということです。つまり言い換えれば、どうしたら救われるのかということです。
彼らは神が用意された救いを知らず、自分自身で救いを勝ち取ろうとして神の義に従わなかったのです。大切な事は、自分の義を立てるのではなく、神の義に従えばいいのです。それがイエス・キリストなのです。
だからこそキリストの弟子達は、行く先々で、「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」と叫んだのです。
③キリストを信じるなら救われる
私たちが救われるためには、この信仰の言葉を信じればいいのです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせて下さったと信じるなら、あなたは救われるからです。
私たちが天国に行くために必要なことは、自分であくせくと努力することではなく、キリストに焦点を合わせ、キリストによる救いの福音を心で信じ、口で告白することです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。それは単に口先だけで、自分がクリスチャンだとふれ回ることではなく、キリストが尊い命を犠牲にして下さった救いに対し、こちらも自分の全存在を賭けて応えていくことです。
この信仰の道こそ、神がキリストによって私たちに与えて下さった唯一の救いの道です。そこには、ユダヤ人とかギリシャ人といった区別はありません。
同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。この主を呼び求める者は、誰でも救われるのです。
『マウントハーモン修養会』
証し:デービッド・ラブ
去る6月にマウントハーモン修養会の案内が届きました。この修養会のことは、妻が過去に数回参加していつも楽しい思い出を話してくれていたので、私達が夫婦で参加できればどんなに素晴らしい事だろうと話していました。
私自身は正直なところ、それほど興味があったとは言えませんが、2019年2月に結婚して以来、妻と2人だけで過ごす機会が少なかったので、一緒に充実した時間を過ごし、共に神様とつながることができるのは素晴らしいことだと思いました。
それで私は行くことに前向きになり、早速参加できるかどうかを確認し始めました。今振り返れば、この修養会は神様が私達に望んでおられるものであったことを確信できます。
ある朝、私たちの旅行計画が整った数週間後、母から悲しい電話があり、母は涙ながらに、甥が前夜に突然亡くなったと言いました。
私の甥は20代半ばで、若々しく元気な元大学フットボールプレーヤーで、人生の最盛期にいるはずでした。
どうしてそんなことが? さらに悲しいことに、母はこれがディズニーランドで甥とその婚約者が将来の計画を語り合っていた最中に起きたと言いました。
思い描いていた修養会の興奮は冷め、私たち夫婦は、なぜこんな事が起きたのか?妹と彼女の家族はどうしているのか?すぐにでも彼らの傍で支えてあげなければと思い、妹に電話をすることにしました。
神は私たちの想像以上のことをよくなさいます。しかし、聖書が伝えている確かなことは、「神は、神を愛する者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」(ローマ人への手紙8:28)ということです。
妹が甥の葬儀についての詳細を電話で伝えてきました。彼の葬儀は、マウントハーモンの修養会と同じ週の半ばに行われることが分かり、しかも両方の場所が近くで、ある兄弟の好意により、両方に出席することが出来ることになったのです。
その兄弟の温かい好意は私に、この世界には「本当に」高い志によって動く人々がいるのだということを示してくれました。
マウントハーモンに着くと、平和で、暖かく、歓迎されている雰囲気がありました。妻は何年も会っていなかった人達と再会することができ喜んでいました。
活動は多かったものの、何かがゆっくり進んで行くような感じがしました。それはスタッフやボランティアの方々が、初参加者向けのミーティング、グループの時間、聖書勉強、礼拝、セミナーなどを上手く進行させて下さったおかげです。
毎日、朝と夕方に2人の牧師がメッセージを伝えて下さいました。最初の数日間のメッセージは、長い間頭の中にあった思いに直接触れるものでした。
「ああ、神様、私達がここにいる理由が解りました」という感じでした。これらのメッセージはまた、次の数日間にわたり甥のために家族が集まる時間に、非常に価値あるものとなりました。
甥の葬儀には400~500人の人々が集まりました。壇上で話した人達の証言やその他さりげない人々の会話を聞いてわかったのは甥の生き方が人々に大きなインパクトを与えたという事です。
キャンプに戻った後、2人の牧師のうちの一人、ピーター・塚平師がこの地上の神の国について、そして弟子訓練の実践について教えて下さいました。
弟子訓練は長い間私にとって非常に興味あるトピックであり、彼がそれを説明する時は私の耳には音楽のように心地よく聞こえました。また、塚平師が書かれた52週間の聖書研究と弟子訓練プログラムを含む本を紹介したので、すぐに取得し、私達は現在、家庭での交わりの時間にテキストとして使っています。
マウントハーモン修養会では、色々な意味で多くの祝福を受けました。妻と私がその週に経験し、恵まれた多くの要素は、ただ置き去りにしたくありませんでした。そしてすべての人に与えられた恵みは素晴らしい経験でした。
この旅は私達に大きなインパクトを与えたので、そのすべてを持ち帰り、家族、教会、そしてコミュニティで生き生きと活用させたかったのです。
神はいつも私達の人生に働きかけておられ、私たちを近づけようとし、インパクトのある人生に招いておられます。私と妻は、この修養会から得たすべてのことを心に留め、それを祝福として他の人々に伝え続けるつもりです。
「人はその心に多くの計画を持つ。しかし主の目的だけが成る。」箴言19:21
編集室・気まま便り
昔ノンクリスチャンだった頃に身近におられるクリスチャンを見て、「どうしてそんなにいつも明るく逞しく前向きでいられるのでしょう。」と思い、その人の信じている神様とはどんなお方なのかと興味を持ち、教会を訪ねたのがきっかけでした。
そして私が長年探し求めていた真実で公正で愛に満ちた神様に出会う事ができ、54年前のクリスマスに洗礼を受けられた事を感謝しています。
今年は特に戦下にあるウクライナとイスラエルで苦しんでいる人々に一日も早く平和が訪れるよう全能の神様のご介入のあることを祈ります。
「すべての人と相和し、また自らきよくなるよう努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」へブル12:14
MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q イエスが神の小羊というのはどういう意味ですか?
A バプテスマのヨハネは、イエスの姿を見て、自分の弟子たちに、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と言いましたが、これはヨハネがイエスを人々に個人的に紹介した最初の言葉です。ヨハネがイエスを「神の小羊」と呼んだ背景には、旧約聖書に描かれている「過越の小羊」の姿と「主のしもべ」の姿があります。
「過越の小羊」については、出エジプト記12章にあるように、奴隷状態に置かれていたイスラエルの民が、モーセに率いられてエジプトを脱出するとき、神の命令どおり、「傷のない1歳の雄の小羊」を家族ごとにそれぞれ1匹ずつほふり、それを食べ、その血を家の戸口の柱とかもいに塗りました。
その夜、主がエジプト中の家々のすべての初子を滅ぼされたとき、その血のしるしのあるイスラエルの全家の初子は守られたのです。ですから、「小羊」と言えば、このヨハネの証言を聞いていた人々に、ただちに「過越の小羊」を連想させたはずです。
エルサレムの神殿の祭儀で犠牲の小羊を捧げることは、ユダヤ人には親しみのある行事で、それと無関係に「神の小羊」の意味を考えることはできなかったでしょう。
「主のしもべ」については、イザヤ書の52章13節から53章全体における「苦難のしもべ」に関する預言の中に描かれています。イエスは、「ほふり場に引かれて行く小羊のように」、「多くの人の罪を負い」、「神に打たれ、苦しめられる」と預言されています。
したがって、イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」であることは、出エジプト12:3-7、29:38-46、およびイザヤ53:4-12を背景にして、その意味が十分に理解されるはずです。
このバプテスマのヨハネの証言は、イエスがメシヤであることを贖いのわざとの関係で述べています。イエスは「世の罪を取り除く」方です。
つまり、イエスは「世の罪」を一身に背負い、その罪の力を根底から取り除いてしまわれるのです。それは明らかに十字架の死の意味を指し示しています。
さらに、ヨハネの黙示録には「天上の小羊」の姿が描かれています(黙示録5章)が、これも、「神の小羊」の姿を表しているものです。過越の小羊として、抵抗することなく、すべての人の罪を身に負って、十字架上で命を捧げられたイエス・キリストが、天上において、神の右の座に着かれ、栄光を受けられた勝利の小羊として述べられているのです。
神の小羊が世の罪を取り除いたということは、決してこの世の罪を是認したことではありません。そうではなく、聖なる神との断絶を余儀なくされた私たちの罪を一身に背負われた神の小羊がほふられたからこそ、私たちがなお神の愛に生きることが許されているということなのです。
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