DesertWind・ニュースレター September, 2026
『私たちはキリストの使節』(第二コリント5:20)
LVJCC 牧師:鶴田健次
皆さんは普段、「今日はキリストを代表する者として生きよう」と考えることがあるでしょうか。朝起きれば、仕事や家事、その日の予定を考えます。しかし聖書は、私たちにはもう一つ大切な使命があると教えています。
パウロは第二コリント5章20節で、「私たちはキリストの使節なのです」と語っています。「使節」とは、今で言えば大使です。大使は自分の考えを伝えるのではなく、自分を遣わした国を代表します。同様に私たちも、キリストを代表する者として遣わされているのです。
これは牧師や宣教師だけの務めではありません。イエス様を信じるすべての人がキリストの使節です。家庭でも、職場でも、学校でも、人々は私たちの言葉や態度を通してキリストを見ています。もちろん私たちは完全ではありません。それでも神様は私たちを用いてくださるのです。
1.キリストの使節は、主を代表して生きる
使節は自分のためではなく、自分を遣わした国のために働きます。同じように私たちも、自分を良く見せるためではなく、キリストを表すために遣わされています。
イエス様は、「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい」と言われました。私たちの言葉や態度、誠実さを通して、人々が神様を見るようになることを願っておられるのです。
宣教師グラディス・エイルワードは、宣教団体から能力不足と判断されても、中国へ行くことを諦めませんでした。自分で旅費を貯めて中国へ渡り、人々の中に入り、戦争の時には100人以上の孤児を連れて危険な山道を越え、安全な場所へ導きました。彼女が見せたかったのは自分ではなく、キリストでした。
私たちは海外へ行かなくても、家庭も職場も学校も、神様が私たちを遣わしておられる場所です。そこで誰かが、「この人を見ていると、キリストの優しさを感じる」と思ってくれたなら、それも立派な証しです。私たちはキリストを代表する者として遣わされているのです。
2.キリストの使節は、和解の福音を託されている
19節には、「神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ……和解のことばを私たちに委ねられました」とあります。
私たちが努力して神様のところへたどり着いたのではありません。神様の方から御子イエス・キリストを遣わし、十字架によって和解の道を開いてくださいました。そして、その恵みを受けた私たちに、今度はその福音を伝える使命を与えてくださったのです。
「イスラム世界の使徒」と呼ばれた宣教師サミュエル・ズウェマーは、非常に困難なイスラム圏で長年福音を伝えました。何年働いても、目に見える成果はわずかでした。それでも彼は諦めませんでした。自分は成功者になるためではなく、神様に忠実な使節として遣わされたと信じていたからです。
私たちも「何度誘っても教会に来てくれない」、「家族がなかなか信じてくれない」と失望することがあります。しかし、人の心を変えるのは私たちではありません。それは聖霊の働きです。
私たちの務めは、愛をもって種を蒔き続けることです。いつ芽を出すかは神様にお任せすればよいのです。神様は今日も、「わたしの和解のことばを届けなさい」と私たちを遣わしておられます。
3.キリストの使節は、愛をもって勧める
20節でパウロは、「私たちはキリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」と語っています。ここで心に留めたいのは、「お願いします」という言葉です。
福音は、人を論破するための武器ではありません。「自分の方が正しい」と証明するためのものでもありません。神様がその人を愛し、救いたいと願っておられることを伝える、愛の知らせなのです。
宗教改革初期のトーマス・ビルニーは、福音を伝えたために捕らえられ、最後には火刑に処せられました。しかし彼は、自分を迫害する人々を憎むのではなく、彼らのために祈りました。人々は彼の言葉だけでなく、その姿を通してキリストの愛を見たのです。
私たちも、「どう説明すれば信じてもらえるだろう」と考えることがあります。もちろん、福音を正しく伝えることは大切です。しかし、それ以上に大切なのは、その人を本当に愛しているかということです。
私たちは、主を代表し、和解の福音を託され、愛をもって人々に届けるために遣わされているのです。
『生まれ変わった人生』
ドリュー・リー・ヒューズ
クリスチャンになる前の私は、自分のやりたいことを、何も気にせず気の向くままにする人間でした。親や友人、法律が何と言おうと、「自分がしたいからする」という自己中心的な心が生活の中心にありました。学生時代には学校の屋上で飲酒をしたり、ピアスを開けて登校したり、無免許運転をしたりしました。
20歳の時にアメリカで大麻に出会い、日本に帰国してからも約6年間、その関係は続きました。大麻とヒップホップと遊びがあれば、自分の人生は満たされていると思っていました。そんな生活をしていた約3年前、小学校時代の友人から教会に誘われました。小学生の時に母の付き合いで兄弟と教会へ行っていたため、行くことへの抵抗感はありませんでした。 私はその友人の誘いを受けて、すすきのにあるシロアム教会へ行きました。
最初は牧師先生の話を聞いても、何を言っているのかよく分かりませんでした。しかし、不思議なことに、礼拝に出ると心が洗われるような、心の中にあった空白が埋められていくような感覚がありました。御言葉というパズルのピースが一つずつはまっていくようで、次第に教会へ行くことが楽しみになりました。
ところが、その後、転職のため東京へ行き、以前より多くのお金を稼ぐようになると、平日も週末も遊びに明け暮れ、教会から離れてしまいました。近くに教会があったにもかかわらず、一度も行かないまま1年半が過ぎました。
その後、以前から予定していたラスベガスへ行く準備のため、北海道へ5日間だけ帰省しました。北海道に戻って4日目が日曜日でした。その夜、ふとシロアム教会のことを思い出したのです。かつて礼拝で感じた、心が洗われ、空白が満たされた感覚がよみがえり、自分から教会へ向かいました。すると、その日の礼拝で鈴木先生が、ご自身がお世話になっている牧師がラスベガスの教会にいるという話をされたのす。
私は驚きました。礼拝後、「実はこれからラスベガスへ行くんです」と伝えると、先生は大変喜び、「鶴田先生という牧師がいるから、着いたらぜひ行ってみて」と教えてくださいました。ラスベガスへ出発する直前の、たった5日間の北海道滞在。その中の日曜日に教会へ行き、そこでラスベガス日本人教会の存在を知ったのです。
もしあの日、礼拝ではなく遊びに行っていたら、私はラスベガスでも以前と同じ生活を始めていたかもしれません。しかし神様は、私が神様から離れていた時にも私を見捨てず、もう一度、進むべき方向を示してくださいました。
私はそこで気づきました。大麻や音楽や遊びが自分を満たしていると思っていましたが、本当に心が満たされていたのは、日曜日に神様の前に静まり、御言葉を聞いていた時間だったのです。
東京では広告代理店に勤務し、主にビットコインの営業をしていました。当時はビットコインの仕組みが分からない人も多かったため、難しい内容を日常生活の身近なものに例えて説明することが仕事でした。今振り返ると、この経験さえも無駄ではなかったと思います。
聖書の難しい内容を、初めて聞く人にも分かりやすく伝えることと共通しているからです。神様から離れていた東京での生活の中でさえ、神様は将来のために必要なものを備えてくださっていたのではないかと思うようになりました。そして、「聖書の御言葉を分かりやすく人々に伝える牧師という道を、神様が用意してくださっているのかもしれない」と考えるようになりました。
ラスベガス日本人教会へ通い始めた頃は、まだ「用事がなければ教会へ行く」という程度でした。しかし、鶴田先生に勧められて入門クラスを受け、一から信仰について学びました。礼拝の意味や神様について知るにつれて、毎週の礼拝は、1週間背負ってきた荷物を下ろす場所になりました。
イエス様は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)と言われました。1週間の中で抱えたストレスや重荷を日曜日に主に委ね、御言葉を受け取って新しい1週間を始める。そのような生き方を知ってから、私の毎日は変わっていきました。
編集室・気まま便り
先日、日本語のテレビを見ていたら、ブラジルのリオデジャネイロで黒人の歴史を紹介しているツアーガイドの事について紹介していました。
16世紀ブラジルを植民地としたポルトガル人が1811年から1888年まで合計400万人がアフリカから奴隷としてブラジルに運ばれました。狭い船内に詰め込まれて、ブラジルについてからは奴隷として売られて、汚物を海まで運ばされたりしたそうです。
年間200万人の観光客にブラジルの負の歴史を知ってもらいたいと語っていました。その姿を見ていたら、かつて見た「アメージンググレイス」の映画と讃美歌を思い出し、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」という神様の愛と憐れみが心に響いてきました。 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 聖書は真のイエスを何と言ってますか?
A 信仰について考えるとき、大切なのは「どれほど熱心に信じているか」だけではありません。誰を信じているのかが重要です。どれほど真剣な信仰でも、その対象が偽りなら、私たちを救うことはできません。
では、聖書は「真のイエス」を何と言っているでしょうか。それを知る基準は、人間の教えや宗教団体の伝統ではなく、聖書です。
モルモン教ではイエスをルシファーの霊的兄弟とする教えがあり、エホバの証人ではイエスを大天使ミカエルと同一視します。またニューエイジ思想では、イエスを神と特別に調和した人間として理解することがあります。しかし、聖書が示すイエスは、単なる被造物でも、優れた宗教家でもありません。聖書から、真のイエスについて三つのことを見ることができます。
第一に、イエスは祈りの対象となるお方
ステパノが石打ちにされ、死を迎えようとしていたとき、彼はこう祈りました。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」(使徒7:59)
ステパノはイエスを通して誰か別の方に祈ったのではなく、イエスご自身を呼び求めました。しかも、このとき彼は聖霊に満たされていました。また初代教会のクリスチャンたちは、「主イエス・キリストの御名を呼び求める者たち」と呼ばれています(㈵コリント1:2)。
第二に、イエスは礼拝されるお方
イエスが水の上を歩かれた後、弟子たちはイエスを拝み、「まことに、あなたは神の子です」と告白しました(マタイ14:33)。復活されたイエスに出会った女性たちも、その御足を抱いて礼拝しました(マタイ28:9)。
聖書では礼拝は神だけにささげられるものです。それにもかかわらず、イエスは礼拝を受け、それを拒まれませんでした。これはイエスが単なる預言者や天使ではないことを示しています。
第三に、イエスは「神」と呼ばれるお方
復活されたイエスを見たトマスは、「私の主、私の神よ。」(ヨハネ20:28)と告白しました。もしこの告白が間違っていたなら、イエスは訂正されたはずです。しかしイエスは、その告白を受け入れられました。
またヘブル1章8節では、御子について「神よ。あなたの御座は世々限りなく」と語られています。聖書はイエスを被造物の一人ではなく、神として示しているのです。
ここに、私たちが信じているイエスが、本当に聖書のイエスなのかを確かめる大切な基準があります。あなたはイエスに祈ることができますか。イエスを礼拝できますか。そしてイエスを「私の主、私の神」と告白できますか。
信仰を救いの信仰にするのは、信じる心の強さではなく、その対象です。どれほど誠実でも、聖書とは異なるイエスを信じているなら、その信仰は私たちを罪から救うことができません。大切なのは、宗教団体がイエスについて何と言っているかではありません。聖書がイエスについて何と言っているかです。
聖書のイエスは、祈りを受け、礼拝を受け、「主」「神」と呼ばれるお方です。そして、このイエス・キリストこそ、私たちと神との間にある罪の隔たりを取り除き、私たちに救いを与えることのできる唯一のお方なのです。
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