DesertWind・ニュースレター September, 2023
『人の益のために生きる』(ローマ書15:1-6)
LVJCC 牧師:鶴田健次
人が誰かの益のために生きる。神の愛をもって、誰かの助けがなければ生きていけない人のために自ら進んで犠牲を払う。それは人としての尊厳を証しする、素晴らしい価値ある生き方ではないでしょうか。
家庭の中に弱い存在がいると、その家庭は健全になると言われます。本当に大切な事を考え、大事なものを見つめ、人と比較するのではなく、その人を一人の価値ある存在として見つめるようになるからです。
競争社会の今日において、何かが出来るから価値のある人間なのではなく、何かが出来ても出来なくても、その人の存在そのものに価値があるのです。なぜなら神がその人を価値ある存在として造られたからです。そこに人間の価値の根拠があるのです。
① 人の弱さを担う
教会の交わりにおいて特に大切なことのひとつは、教会に来るすべての人が、「ああ、ここに私の居場所がある」ということを教会の中で感じられることです。
「私はここに属しているんだ」「ここが私の家だ」「ここが私を必要としている」「私もここを必要としている」「私はここにいていいんだ」 そういう自覚を持てる場所であることがとても大切なことです。
信仰を通して共通の価値観を持ち、お互いの気持ちを分かち合う。すべての違いを認め合い、喜びも、悲しみも、勝利も、敗北も、キリストにある愛を持って語り合える。
またさらに、お互いを、神の愛が注がれている価値ある存在として認め合っていく。それが教会における交わりのあり方だと言えます。
教会での交わりは、気の合う者同士の仲良しごっこではありません。キリストの愛を知った者たちが、その愛をもって互いに愛し合い、弱い人、また自分を必要としている人のために心を配ることが大切なことです。
1節に「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです」とあるように、私たちは、自分よりも弱い人たちの弱さを担うことによって彼らを励まし、助けることが必要なのです。
② 人を励ます力
本来、私たちの中には、受け入れやすいものは受け入れても、受け入れにくいものを受け入れる力はありません。そんな私たちが受け入れにくいものを受け入れ、その人を励まし、慰めるためには、その励ましと慰めの力をどこかからいただく必要があります。
4節を見ると、「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです」とあります。
ここに「聖書の与える忍耐と励ましによって」とあるように、私たちは、人を励まし、慰め、助ける力を聖書の御言葉からいただくことができるということです。神様の生きた御言葉には力があり、私たちを力づけることができるからです。
次に5節には、「どうか、忍耐と励ましの神があなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように」とあるとおり、神様は私たちに、イエス様と同じ思いを与えて下さいます。
つまり、弱い人を励まし、助け、慰められたイエス様と同じ心を与えられることで、私たちも弱い人々を励まし、助けることができるようになるのです。
③ 他者受容の大切さ
ありのままの自分を受け入れることを自己受容と言い、他人をありのままで受け入れることを他者受容と言います。人間が本当の意味で自立するためには、この自己受容が大切で、ありのままの自分を受け入れるところから自分自身の本当の成長が始まります。
多くの人が小さい時から自分の失敗を責められながら生きてきました。ですから、そういう人は無意識のうちに、自分自身もそんな自分を受け入れられなくなり、自分を責め、否定しながら生きるようになります。
そして更に、その自己否定の結果、その人は無意識のうちに他人を否定し、責めながら生きるようになるので、人間関係が上手くいかなくなるのです。
ですから、他人をありのままで受け入れる他者受容は、良い人間関係を作るうえで重要な鍵になります。他人を責め、否定する他者否定ではなく、他人を受け入れ、肯定する他者受容こそが人と上手くやっていく秘訣なのです。
そして、他者受容ができるためには自己受容ができなければなりません。ありのままの自分を受け入れる人だけが、ありのままの他人を受け入れることができるからです。
『イスラエルの思い出』
証し:中島マリ子
2013年の秋に山本真美子先生主催の聖地旅行(イスラエル旅行)が行われるという知らせがあり、参加を決め申し込みました。長年の夢が叶うと思い大いに期待して出かけたのですが、期待以上のすばらしい霊的経験をする事ができました。
旅行は約2週間の予定で、テルアビブに到着後イエス様が育ったナザレの街を訪ね、そこは2000年前の生活が再現してありました。ガリラヤ湖は美しく大きな湖でした。
岸辺にはペテロがイエス様に膝まずいている銅像が建ち、ペテロが復活のイエス様に3度「私を愛するか?」と聞かれた時の事が思い出されました。ペテロの改心を記念した教会が建っていて、その周囲には集会場が作られていました。
ペテロの食べたと言われている魚料理をランチに頂きました。また塩の濃度が高いので有名な死海では、友達と一緒に浮いてみたりしました。
何より私にとって忘れられない霊的体験となったのは、ヨルダン川で洗礼を受けた事です。イエス様が実際バプテスマのヨハネから洗礼をうけられた付近に、戦争中の地雷がたくさん埋まっているというので、それを全部撤去するのに年月がかかり、私達が訪ねた一年前の2012年に再びオープンしたという事を聞いていたので、是非記念に洗礼を受けたいと申し出ていました。
白い洗礼用の服を着て川のそばに作られた木製の階段を下り、杉村牧師より再献身の洗礼を受け、水から上がった時です。まるで頭に雷が落ちたような衝撃があり涙が止めどなく流れました。一緒に来ていた皆さんが讃美歌を唄って祝福して下さいました。
何かはっきりはわからないけれども、神様が祝福して下さっている事が伝わってくる不思議な経験でした。それだけではなく、聖地旅行から帰った後は晴れ晴れとした気分になり、皆に「変わって帰ってきた」と言われたのですが、それは神様が私の心の奥にあった辛い思い出とトラウマを消して下さったということに気が付きました。
神様はすべてをご存じの方なので、祈りにならないような深い心の傷をも癒して下さるお方である、ということを体験することができました。
もう一つはイエス様が十字架にかかって死んだ後葬られた「園の墓」での事でした。厚さ10センチ程の平たい丸い石が転がしてあり、その中に入るとちょうど畳3畳位の洞穴で、入り口のドアの後には “He is not here. He has risen.” と書いてありました。
マグダラのマリアが来て、イエス様の遺体がないのがわかり、途方にくれて泣いていたら天使があらわれた、という聖書の箇所が頭に浮かんできました。その後は周囲にできた集会所で聖餐式が行なわれました。
讃美歌を唄いはじめると、一人ずつにパンとオリーブの木で作られた小さなコップに入ったぶどうジュースが配られたのですが、ここでも号泣しました。
園の墓に来る前に、イエス様が鞭うたれた後十字架を背負い歩いて12回も倒れたというドロローサの道を私達も歩きながら、罪なき聖なるイエス様が私達の罪のため十字架で死んで下さった情景が偲ばれ、唯々感謝の涙でした。
今まで聖書を読みながら、頭の中で想像していたことが現実としてそこにあるのを実際に見たという経験は、その後の私の信仰生活に大きな変化をもたらしました。それは、聖書を読んでいると具体的な情景が浮かぶようになったことです。
そして2000年前に確しかにイエス様はイスラエルの地に現れ、父なる神様の事を伝えて下さり、私達の罪のために十字架にかかり死んで3日目に蘇られた事実に対し確信が持てた事、それは何にも代えがたい経験をさせてもらったと神様に深く感謝しまし
た。
又訪ねた全ての所でロシアやヨーロッパの国々、そしてアジアからきたという人々に会いました。ゲッセマネの園のオリーブの木の根元に跪いて祈っている人々を見ながら、世界の果てまで福音が伝えられたという現実を見た思いがしました。
山本先生が始められた希望の収穫が、長年援助しているメシアニックジューのグループのリーダーと直接会見して実情を聞く機会がありました。
同じユダヤ人でも、旧約だけを読んでイエス様を救い主として認めていない人々から、彼らは大変な迫害を受けているのですが、みなさん明るく逞しく活動しておられることが伝わってきました。私達はアメリカに住む幸いを感謝すると共に、私達の方が大いに励まされました。
「エルサレムの平和のために祈れ。あなたを愛する人々が安らかであるように。あなたの城壁の内に、平和があるように。あなたの宮殿の内が、平穏であるように。」
「それは、神が彼らに示されたからです。それは、世界の創造以来、神の人の目に見えない属性が被造物を通してはっきりと見えるからです。」ウィンストン氏は次に、「たとえジャングルで暮らす人間でも、その人は神のことを知ることはできる」と僕に説明した。
また、「僕たちは罪深い被造物であり、天国に行けるはずはなく、キリスト・イエスによる神の恵みと憐れみによってのみ行けるのだ」と説明した。僕たちの元の性質は永遠に神と断絶状態にいるのである。
ウィンストン氏と交わした会話は、また別の疑問を投げかけた。「なぜ僕は地球にいるのだろう?」「なぜ僕の魂は選ばれたのだろう?」一週間の大半をこのことを理解するのに費やしていたとき、キャビン・リーダーが僕に言った一言が、僕の考えを一変させた。
「君はもうここにいるのだから心配する必要はない」。なぜかこれには本当に心に響きを覚えた。僕はすでにここにいる。
僕がここにいる理由を知ったところで、僕が生きていて地球にいるという事実は何も変わらない。いいえ。だから心配する必要はない。これからきっと神様が僕を造ってくださった理由を明らかにしてくださるはずだ!と。
こうした質問や会話を通して、僕は神との歩みをさらに深めていけるようになったと思う。自分ではどうしようもないことに疑問を持っても意味がないことに気づいた。
この時点まで、僕は自分の人生を中途半端に生きていた。マウントハーモンで過ごした後、僕は主とともに歩む決心をしたと確信を持って言える。
世界がどう思おうと関係ない。世界は僕の領分ではないからだ。僕はより大きな目的のために創造された。僕たちは皆、そうなのだ!と思った。それを知る事こそが、僕たちの希望である。
編集室・気まま便り
2022年4月に73才で天に召された小坂忠先生。牧師、作曲家、ゴスペルシンガー、多くの讃美歌をこの世に残されたが、最後に作られた「勝利者」という歌には感動しました。
歌詞の中の「勝利者はいつでも苦しみ悩みながら、それでも前に向かう」という歌詞を聞きながら、すべての事に勝利されたイエス様のお姿が浮かんできましたが、同時に神様を愛し信頼して生きていく私達クリスチャンはみな勝利者である、と聖書が保証してくださっています。
「しかし、これらすべてにおいて、私達を愛して下さった方によって、私達は圧倒的な勝利者です。」 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 反キリストが現れる前の背教とはどういうものですか?
背教には様々な聖書的な説明が必要でしょうが、黙示録3章のラオデキヤの教会に対するキリストの言葉をもとに考えると、霊的なことを軽んじて、この世的な活動を重んじる惑わしが背教の初めであると考えられます。その行き着く先はキリストの否定です。
背教の時代は1900年ごろから始まっていると言われています。具体的な事例を言えば、1910年にアメリカの長老派と呼ばれるプロテスタント教団の会議では、次の5つの全てを信じる人々をキリスト教原理主義者として規定し、極端なキリスト教の狂信の例としました。
1)聖書が神の霊観を受けた書物であること
2)イエスが処女マリアから生まれたこと
3)イエスが罪の代価となって十字架上で死んだこと
4)イエスの復活
5)イエスの行った奇跡が事実であること
この会議が行われる少し前までは、この5つは殆どのクリスチャンたちに当たり前のこととして信じられていました。しかし現代では、自由主義神学の影響で、カトリックはもとより、プロテスタントの指導者レベルにまで信仰的な生ぬるさが入り込んでいます。
教会の世界的な連帯活動もちょうどこのころから活発になって来ます。その顕著な例がエキュメニカル運動です。エキュメニカル運動とは、カトリックが中心になって推し進めている神概念の統一運動のことです。宗教の違いがもたらす闘争のゆえに、ニューエイジ的な考え方、つまり全ての宗教は同じ神の別の表現であるとする考え方が支持され、宗教概念の統一が叫ばれるようになったのです。
彼は宗教統一のムーブメントに乗じて世界のリーダーとなります。しかしやがて彼は、この世界統一宗教を否定して自分が神であると宣言するのです(第二テサロニケ2:4)。
今後は神についての宗教概念が統一され、良い宗教と悪い宗教の区別が付きやすくなる便利な基準が登場するでしょう。その考え方を受け入れない人々は偏屈者とされ、投獄されたり殺されたりすると聖書は預言しています。そして、今はその直前の時代にあるというのが聖書信仰に立つクリスチャンの見方です。
ラスベガス日本人教会
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