DesertWind・ニュースレター March, 2024
DesertWind・ニュースレター March, 2024
『主を賛美せよ』(詩篇117:1-2)
LVJCC 牧師:鶴田健次
今年のラスベガス教会の教会標語は『真の礼拝者になろう』ですが、ぜひ皆さんが「真の礼拝者」になり、神様の大いなる御業を経験していただきたいと思います。
ところで、聖書は旧約と新約を合わせると66巻から成っていますが、聖書66巻は全部で1189章あり、その真ん中にある章は詩篇118篇です。そして、その詩篇118篇のすぐ前の117篇が聖書の中で最も短い2節から成り、118篇のすぐあとの119篇は聖書全体で最も長い176節から成っています。
これが偶然なのか、あるいは神様の特別な意図があるのか、とても興味をそそるところです。そこで今日は、聖書で最も短い章である詩篇117篇を開きたいと思いますが、この詩篇は主への賛美に、すべての国々、すべての民が招かれていることを伝えるものです。
① 人間の存在目的
多くの人がこの世に生まれますが、「自分がどこから来て、何のために生き、どこに行くのか」という人生の三大質問に答えられる人はあまりいません。ほとんどの人が人生の意味も目的も分からずに、ただ気の向くまま人生を送っています。皆さんはいかがでしょう?
お金をたくさん稼げば幸せになれると思って、一生懸命にお金を稼いでも、お金が増えれば心配も増え、悩みも増え、考え事も増えて、安心して眠ることもできません。権力の座に着けば幸せになれると思っても、その権力を維持するのは大変な苦労で、やがてその権力も失う時が来ます。
私たちはなぜ存在するのか、それがはっきり分かる道はたった一つです。それは私たちを造り、治め、導いておられる神様を通してです。神様は聖書の御言葉を通してそれをはっきりと示しておられます。
イザヤ書43章7節に、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。これを形造り、また、これを造った」とあります。
また21節には、「わたしのためにわたしが形造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝える」とあります。つまり、私たち人間の存在目的は、神様に栄光を捧げること、また神様を賛美することなのです。
② 神様の恵みに感謝する
詩篇117:2に「主の恵みは私たちに大きい」とありますが、私たちが祈る時、神様の恵みに感謝し、祈り、賛美しなければなりません。祈りというのは、ただ祈ればいいわけではなく、祈る人の心が問われます。
なぜ私たちは賛美しますか? なぜ感謝しますか? 神様の恵みが大きいからです。神様のまことが永遠にあるからです。神様の恵みは、いつまでも変わらない神様の愛から注がれるものです。神様の御言葉の約束に基づく、いつまでも変わらない神様の愛に、私たちは感謝して、感謝して、また感謝するのです。
詩篇103:8に「主は あわれみ深く 情け深い。怒るのに遅く 恵み豊かである」とあります。私たちは罪だらけの存在です。考えにおいて、言葉において、行いにおいて、主に喜ばれないことをしてしまいます。ところが、神様はそんな私たちを憐れんで、私たちが悔い改める時、何度でも私たちを赦して下さるのです。
イエス様は、あなたを愛し、あなたを永遠の滅びから救い出すために、ご自分の命を犠牲にして下さいました。これは言葉に表せない大きな恵みです。私たちはこの恵みに心から感謝し、神様を賛美するのです。
③ 神様の真実を賛美する
詩篇117篇2節の後半で、「主のまことはとこしえまで」と歌われているように、私たちは主のまこと、つまり神様の真実を賛美すべきです。神様の恵みと真実を賛美する時、神様の恵みが私たちに満ち溢れるのです。
ここで「主のまことはとこしえまで」と言われていますが、これは神様こそが、私たちが信じ、依り頼むことのできる唯一のお方であり、神様の真実はいつまでも変わることがないということです。人の心は変わりやすく、そのために人に裏切られることもあります。
しかし、神様の約束は変わりません。神様は必ず約束を成し遂げられる方です。これを神の真実と言います。そして、この神様の真実を賛美するなら、神様の祝福が私たちに臨むのです。
ぜひ皆さんも、賛美を通して天の栄光を引き寄せる経験を追い求めて下さい。そのためにも、まず神様との関係を正しく持って、真の礼拝を捧げる生活を心がけて下さい。2024年が皆さんにとって素晴らしい恵みの年となりますように、主の御名で祝福します。
『訪日の思い出』
証し:善 コールマン
今回は、僕が日本で経験した素晴らしい体験のいくつかを共有したいと思う。母と僕は12月中旬から1月上旬にかけて3週間にわたって日本を旅した。クリスマスとお正月を日本で過ごしたこと、また約5年ぶりに祖父に会えたことが本当に素晴らしかった。この旅行のあらゆる場面で、神が働いておられるのをよく知ることができた。
祖父の住む新潟にいる間、僕はとても感動的なことを目撃した。人生のほとんど、毎朝両親を祀る仏壇の前に手を合わせて供物を捧げていた祖父が、真の神に出会い、唯一無二の創造主との関係を築こうと努力していたのだ。
新潟に来て3日目、僕たちは祖父が教会に行くのに同行させてもらった。母が前回来日したときにはすでに教会に行っていたので、その日の新来者は僕だけだった。日本で教会に行くというこの経験はとても貴重なもので、20人近くのとても親密な会衆の中で、神の御手が働かれるのを本当に見ることができた。
礼拝のメッセージはとても心に響き、イエス様の御誕生を迎えるために、僕たちはどのような心で準備すべきか、というものだった。日本語が母国語ではない僕にも理解できるように、わかりやすい日本語で語ってくださる牧師先生を通して、神様は語ってくださり、クリスマスの時期に主を待ち望むとはどういうことなのか再確認できた。
メッセージの後、僕は自己紹介をする機会が与えられたが、どう見ても完全に外国人に見える僕が日本語を話せるとは誰も思わないので、僕が日本語で自己紹介するときの周りの驚いた反応を見るのが大好きだ。
教会の皆さんは僕を本当にあたたかく歓迎してくれて、イエス・キリストにある信頼と希望によって神の家族の一員であるという体験をすることができた。また新潟という知らない地でもラスベガスの教会のために皆さんが祈ってくれていると聞いて感動した。
そして元旦を迎えた。これを読んでいる多くの人は、この日にどんな大きな出来事が起こったかをご存知だろうが、当時はそんな出来事が起こるとは思ってもみなかった。
その日は元旦で休みが取れた叔父家族が、とても素敵なスキーリゾートでスノーボードをしようと誘ってくれたのだ。僕は喜んで、一人で新幹線に乗って新潟から1時間ほど離れた越後湯沢に向かった。
その日は、午後までゲレンデで過ごし、夕方には祖父のいる新潟に戻り家族揃って元旦を祝う予定でいた。スノーボードは初めての経験で、叔父に言われるままに、初めから中級コースを、凍るような寒さの中大汗をかきながら、死に物狂いで30分かけて下ったが、午後には10分もかからず下るまでに上達し、日本の家族と過ごす時間を満喫できた。
問題が起きたのは、スノーボードを終えて駅に戻るためにシャトルバスに乗り込んだ後のことだった。バスに乗っている間、僕を含め、すべての乗客の携帯電話が地震警報で点灯した直後バスは停車し、しばらく揺れが続いた。
幸いにも僕たちが経験した地震は軽い揺れで済んだが、およそ200マイル離れた能登半島では壊滅的な地震が多くの人々を襲ったことを知ったのは翌日であった。
結局僕は被害のあった新潟方面の交通麻痺により、翌日叔父家族と一緒に川崎方面に向かい、アメリカに帰る前に新潟にいる祖父に会えずに日本を離れることとなったのは残念だった。
この経験を通して、神の憐れみと偉大なる力を一度に目撃することができた。地震はこの僕に、自分が思っている事はさほど重要な事ではない、ということを思い出させてくれた。
旅の終わりには、僕が好きな聖書の一節、エレミヤ書29章11節を思い出した。この御言葉は、この旅に関して、そして僕の日々の生活に関して、これまで以上に本当に心に響く。今の僕は、自分の人生をどう歩むべきなのかまだよくわからない。
しかし、このような聖句と主への信仰があるからこそ、主が僕のために計画を持っておられることを知っている。僕は、主が僕のために立てている御計画を果たしたいと願うと共に、皆さんの上にも神様が立てている御計画が成ることを願っている。
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」 エレミヤ書29章11節
編集室・気まま便り
今年は2月14日が灰の水曜日で、イースターまでの日曜日を省く40日間をレントの期間といい、十字架にかかる前のイエス様の苦しみと悲しみを偲びつつ瞑想して過ごす期間である。
過日訪れたイスラエルのイエス様が十字架を背負って歩いたというドロローサには、狭い道の両側にお土産店が並んで、人通りの多い騒然とした所だった。しかしもしここが静かな所だったら、とても涙なしでは通れないと思った。
愚かで自己中心の私達の罪のため、命をかけて贖って下さった。そして3日目によみがえられたという事が2千年前にここで起こったという事を感じられた霊的経験は、筆舌に尽くしがたい素晴らしい経験でした。今から思うと神様からの贈り物であったと感謝しています。 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 携挙とは何ですか? またその時期はいつですか?
A ① 携挙とは?
終わりの日が近い今日、携挙に関する話題が多く取り上げられるようになりました。携挙という言葉は聖書には出てきませんが、英語のRaptureは、「引き上げる」を意味するラテン語のraputoに由来しています。この携挙の概念は、聖書の中で明確に示されています。
教会の携挙は、神が患難時代に神の義の裁きが地上に注がれる道を開くために、全ての信者を地上から「引き上げる」出来事です。 携挙については、主にヨハネ14:1-3、1コリント15:51–53 、1テサロニケ 4:13–18に説明されています。
神は死んだすべての信者を復活させ、彼らに栄光の体を与え、同時に同じく栄光の体を与えられるすべての生きている信者と共に彼らを地上から引き上げられるのです。
携挙は再臨とは区別されます。 携挙のとき、主は「雲に乗って」来られ、「空中」で私たちに会いに来られます(1テサロニケ4:17)。 再臨のとき、主は地上に降臨してオリーブ山に立ち、その結果大地震が起こり、その後、神の敵が打ち破られます(ゼカリヤ14:3-4)。
携挙の教義は旧約聖書にはありません。だからこそ、パウロはそれを今明らかになった「奥義」と呼んでいるのです。 「終わりのラッパとともに、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(1コリント15:52)とあるように、携挙は私たち全員が待ち望んでいる輝かしい出来事です。
私たちはついに罪から解放され、永遠に神の臨在の中にいます。 携挙は希望に満ちた慰めとなる教義です。 神は私たちが「この言葉で互いに励まし合う」ことを望んでおられます(1テサロニケ4:18)。
② 携挙はいつ起こるか?
携挙の時期は、今日の教会で最も物議を醸している話題のひとつです。 携挙の時期については①患難期前携挙説、②患難期中携挙説、③患難期後携挙説の三つの主な見解があり、それぞれをサポートする御言葉がありますが、私の知る限り患難期前携挙説をサポートする御言葉が最も有力だと考えます。
携挙に関する主な聖書箇所は1テサロニケ4:13-18 です。 生きている全ての信者は、召されたすべての信者と共に空中で主に会い、永遠に主と共にいると書かれています。 携挙とは、神がご自分の民を地上から引き上げられることです。 1テサロニケ5:9でパウロは、
「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです」と述べています。
黙示録は患難時代について述べられており、神がどのように怒りを地上に注がれるかについての預言です。 しかし、神は信者たちが怒りに遭わないように、患難時代の前に彼らを地上から引き上げられるのです。
携挙のタイミングに関するもう一つの重要な箇所は黙示録 3:10 で、その中でキリストは地上に来る「試練の時」から信者を救い出すと約束しておられます。 患難の目的、携挙の目的、1テサロニケ5:9 の意味、黙示録3:10 の解釈はすべて、患難期前の立場を明確に裏付けています。聖書が文字通りに一貫して解釈される場合、患難期前携挙説の立場が最も聖書に基づいた解釈になると言えるのではないでしょうか。
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