DesertWind・ニュースレター June, 2024
『イエスから目を離さないで』(へブル12:1 – 2)
LVJCC 牧師:鶴田健次
私たちは何を見上げるかによって、肯定的になるか、否定的になるか、心の方向が変わります。心に満ちているものが外に出ると聖書にあるとおり、否定的な考えが心に満ちていれば、その考えが外に出て行き、自分のところに否定的な環境を引き込んでしまいます。逆に、肯定的な思いを持てば、その考えが外に出て行き、それと同じ環境を引き込んできます。
トニー・メレンデスという、素足でギターを弾くクリスチャン・ミュージシャンがいます。彼は生まれた時から両腕がありません。彼は、コンサートのたび毎に、信じ難いテクニックでギターを弾きながら、イエス・キリストが絶望の中にあった彼の人生に希望をもたらしてくれた事を証します。
しかし、トニー・メレンデスが足でギターを弾けるようになるまでに、どれだけの努力をし続けて来たか想像できますか。しかし彼はあきらめずに努力し続けました。
不可能なことが存在するのではなく、不可能だという考え方が存在するだけであって、不可能だと思えば全てが不可能になるのです。しかし神の約束を信じ、可能だと思えば、すべてが可能になるのです。
①この世に目を向けた生き方
多くの人が、この世にだけ目を向けて生きています。この世だけを見つめれば、空しい思いに満たされてしまいます。ソロモンは旧約聖書の「伝道の書」の中で、神無しの世界を、「空の空、空の空、いっさいは空である」と表現しました。地にあるものは全て一時的なものです。
すべての生き物には、必ず死という絶望の時が待ち受けています。この死の問題に対し、ただ諦めるしかないと自分に言い聞かせるすべしか知らないとしたら、それは実に空しいことです。
ある事業家と話をしたとき、彼が言うには、この世でいくらお金を儲けても、死ぬ時には何も持って行けないし、お金を儲ければ儲けるほど心配も増え、他の人よりも幸せかと聞かれれば、幸せなわけでもない、と本音を漏らしていました。
人類最初の人アダムの堕落によって、すべての人に罪が入り込み、この世は罪に支配され、呪いの中に閉じ込められ、人生の意味を見失ってしまったのです。
②神に目を向けた生き方
私たちクリスチャンは、朝起きてから、まず最初に聖書を開いて神様に目を向け、神様と出会い、それから日常の事をするというのが最も祝福された人生を生きる秘訣です。
仕事に行く時も、まず聖書の御言葉を読み、神の御言葉を黙想してから仕事に行けば、仕事の重荷を負うて下さる神が共におられることを経験されるでしょう。また、一週間の始めである日曜日に教会に来て、神を礼拝することは、その一週間を神が共におられる生活をしていく大切な要素です。
礼拝を捧げ、御言葉を聞けば、そこにおられる神に出会うことができます。私たちの神は素晴らしい方です。忍耐深く、憐れみ深く、私たちを見守ってくださる素晴らしい神です。神は私たちの人生のすべてを治めることのできる力をお持ちです。
神が無能であれば、私たちの信仰には何の意味もありませんが、私たちの神は全能者でいらっしゃるので、私たちの信仰には果てしない意味があるのです。
③イエスから目を離さないで
信仰のレースを走り抜く秘訣は、信仰の導き手であり、その完成者であるイエス様から目を離さないことです。私たちの人生の究極のゴールは天国であって、この地上に最終的なゴールがあるのではありません。
確かにこの地上にも色んな目標があるかも知れませんが、地上のものは永遠に続くものではなく、いつか終わりを迎えるのです。
私たちは必ずいつか死を迎えなければなりません。死んでしまえば私たちは何一つ地上のものを持っていくことはできないのです。使徒パウロは、自分の走るべき道と、そのゴールがどこにあるかをよく知っていました。
そして、こう語りかけています。「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」
そうです。私たちの国籍は天にあるのです。神を信じ、神と共に生きる者は、死んで終わりではなく、死んだのち永遠に朽ちない肉体を頂いて、永遠に生きることのできる天国に入れられるのです。
これは実に素晴らしい希望です。あなたは、この希望を持っておられますか?
『風に立つライオンを見て』
証し:中島 マリ子
シンガー・ソングライターのさだまさしが1987年に発売した『夢回帰線』というアルバムに、収録されている曲の一つが、『風に立つライオン』。同名の小説も刊行され、2015年には大沢たかお主演で、映画化された。
日本に恋人を残して、ナイロビの医療活動に従事した外科医、島田航一郎が主人公。そのモデルとなったのが、長崎大学熱帯医学研究所からナイロビに派遣された医師、柴田紘一郎氏の事が描かれている。
『風に立つライオン』の歌詞は、本当にすばらしい。黒人霊歌のようなメロデイで歌詞が心に響いてきました。特に以下の言葉が印象的でした。
「この偉大な自然の中で病と向かい合えば、神様について、人について考えるものですね。やはり僕たちの国(日本)は残念だけど何か大切な処で道を間違えたようですね。」「患者たちの瞳がきれい」「ここにいる人達の体は病んでいても精神は私達より正常です。」
2015年には同名の小説を基に、映画化されました。主演の大沢たかおが、さだまさしのファンで、『風に立つライオン』の小説化と映画化を要請したとのこと。さだまさしが3年余りの歳月をかけて、調査して小説ができあがったそうです。
長崎大がナイロビのナクルにあるリフトバレー州立総合病院で、医療協力を行ったのが、1966年から1975年までの10年間。柴田先生がナクルに行ったのは、1971年から2年間です。
私が映画を見て印象に残った場面はいくつかありましたが、一つはナクルの診療所に毎日のようにトラックで運ばれてくる紛争のために負傷した少年兵です。まだ10歳前後の少年達が大きなライフル銃を持たされて、前線で闘い大けがをして、手足を切断した子もいました。
それだけでなく、ある日回復途中にある少年に島田医師が「君の将来の夢は何?」と聞いた時、「僕は強い兵士になってたくさんの人を殺す事だ」と言った事です。輝かしい将来のある子がただ人殺ししか考えていない。その現実に唖然として言葉もでなかった場面は見ていて本当に心が痛みました。
もう一つは、毎朝夜明け前に島田医師は太陽が昇る丘に向かって、大声で「ガンバレー!」と叫ぶ場面です。そして後日ナクルを去る前に日本人女性の看護師に言ったのが、「ガンバレーというのは人に言う言葉ではない。あれは自分を励ますために叫んでいたのですよ。」という事でした。
言語、文化、習慣の違うアフリカでしかも十分な設備もなく、医療活動をするのは毎日大変な闘いであったと思いますが、それをもろともせず、立ち向かった精神力は素晴らしいものがありました。医師として一人でも多くの人々の命を救いたいという使命感だけでなく、精神面も正常な姿に戻したいという深い愛が感じられました。
日本の五島列島に住み、父親の診療所を継ぐ事になっていた恋人とのやりとりがあり、一旦は日本に帰国するのですが、自分一人の幸せな生活よりもアフリカの人々の事が頭から離れず、再び出向いていき、多くの患者の命を救いました。子供達を集めて、トランプで遊んだり、日本語を教えたりして大変親しい交わりをして、子供達に慕われました。
あるクリスマスの日には自らサンタクロースになって、日本からのおもちゃを子供達一人ずつに手渡すのですが、ある少年にはおもちゃのライフル銃を渡したら、彼が「もうこれは僕には要らない。僕は先生のような医者になるんだ。」と言ったのです。
実際彼は日本にも留学して、現在はナイロビの病院で働いているとの事でした。島田先生が少年の時、両親から贈られた「シュバイツァー博士の伝記」を読んで医師を目ざしたように、一人の人の素晴らしい生き方が次の世代にしっかりと受け継がれていきました。
現地の人々全員から信頼され、感謝されたその働きには頭が下がる思いがしました。尚、映画では島田医師は関係者から止められたにも関わらず、危険な地域に往診に出かけたために、途中で爆弾が落ち、不慮の死を遂げた事になっていましたが、実際は生きて日本に帰国したそうです。
「また信仰によって、キリストがあなたがたの心の内に住み、あなた方が愛に根差し、愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共にその広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知を遥かに超えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるようにと祈る。」 エペソ3:17-19
編集室・気まま便り
毎月第3週の日曜日、ランチの後、会堂に集まり、聖書の学びが始まりました。鶴田先生が細かく創世記の初めから解説して下さいました。
今まで暗記する程読んだところですが、4日目に神様は太陽と月をはじめてとする全宇宙を造られたという箇所で、先生は天文学的な話へと発展されて、大変興味深いものでした。又そのとき同時に私はただ漠然とこの箇所を読んでいた事に気付いて、はっと目が覚めました。
進化論と創造論の話も出ましたが、動物や植物も夫々種毎に違うので、一つずつ造られたのであり、猿が進化して人間になったのではない。この膨大な宇宙も神様は言葉一つで造られた。それだけ偉大な方であるという事を知り、神様への信頼が深まり感謝。MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 義認と聖化の違いを教えて下さい
A 義認と聖化の違いを理解することは、救いと裁きの違いを理解することと同じくらい重要なことです。また、この二つのものを正しく区別することも非常に重要なことと言えます。この違いを明確に理解していれば、砂の上に線を引くようにして、「これは救われている人々」、「これは救われていない人々」と言うことが出来ます。
義認は、イエス・キリストが罪人に数えられることによって、罪人が律法のもとで神から義と認められるという神の業です(ローマ4:3、ガラテヤ2:16)。この義は、救われた者のいかなる努力によっても得られるものではありません。義認は、永遠の命をもたらす瞬間的な出来事です。
それは、完全に、そして唯一、十字架におけるイエス・キリストの犠牲に基づくもの(Iペテロ2:24)であり、ただ信仰によって受け取るもの(エペソ2:8-9)です。義とされるために必要な働きは何もありません。さもなければ、それは賜物ではありません(ローマ6:23)。したがって、私たちは信仰によって義とされるのです(ローマ5:1)。
それに対して、聖化は人間の働きが関わってきます。 しかし、それでも、既に義とされている人の内にキリストの品性と命を生み出すために信者の中に働かれるのは神です(ピリピ2:13)。聖化は、神の働きだけによるのではないので、瞬間的に起こることではありません。
義とされた人は、一生懸命に神の御心に委ね、罪に抵抗し、聖さを求め、もっとキリストのようになろうと努力するようになります(ガラテヤ5:22、23)。しかし、大切なことは、聖化は義認のためには何の効力もないということです。つまり、たとえ完全な人生を送らなくても、私たちは義とされるのです。
義認が瞬間的に起こる法的な宣言であるのに対し、聖化は過程です。また、義認が私たちの外におられる神から来るものであるのに対し、聖書によれば、聖化は聖霊の働きによって私たちの内におられる神から来るものです。つまり、私たちは、自分の努力で聖化に貢献できますが、人間の努力は義認に対して何の貢献もしません。
では、恵みによって義とされた人は、好きなだけ罪を犯すことが出来るのでしょうか?
ローマ書6:1-2でこう言われています。「それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。 決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。」
聖書は、私たちが罪を避け、きよい生活を送るようにと教えています(コロサイ1:5-11)。私たちは救われ、神の前に永遠に義とされているわけで(ヨハネ10:28)、そこから救われた私たちが罪を犯し続けることは、もはや何の申し開きもできないことです。もちろん、私たちはみな罪を犯します。
そして、救われた自分と自分の中にある罪との戦いは続き(ローマ7:14-20)、それは、私たちがこの死の体から救われるイエス様の再臨のときまで無くなることはありません(ローマ7:24)。しかし、罪を犯し続け、神の恵みをもてあそぶ者は、キリストの血を踏みにじることになり(へブル10:29)、その人の罪深い、救われていない本質を明らかにするのです(第一ヨハネ2:4、29)
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