DesertWind・ニュースレター January, 2024
『ふたりの主人に仕えることはできない』(マタイ6:19-24)
LVJCC 牧師:鶴田健次
イエス様は、山上の説教の最後で、これらの教えを聞いてそれを行なう者は岩の上に自分の家を建てた人、また聞いてもそれを行なわない者は砂の上に自分の家を建てた人に比べることができるとおっしゃいました。
聖書は人生を家にたとえています。この世に生を与えられた者は誰もが人生という自分の家を建てるのです。家を建てる際に何よりも大事なのは土台です。
それは人生の家を建てる場合も同じです。なぜなら、どんな人の人生にも様々な人生の嵐や洪水が押し寄せて来ることがあるからです。
突然、仕事を失う。病気になる。愛する人に先立たれる。事故で両手両足を失う。失明する。また、様々な人間関係の問題。例を挙げればキリがありません。そして、そういう人生の嵐や洪水が押し寄せて来たとき、自分が築いてきた家の真価が問われるのです。
つまり、その家の土台はどうなっているのか。どんな土台の上にその家が建っているのか。それが明らかになるのです。
① 天に宝を蓄えなさい
イエス様は19-20節でこう仰いました。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず盗人が穴をあけて盗むこともありません。」
地上の富は、どんなに貯め込んでも、いつどうなるか分かりません。しかし、天に蓄えられた富は、減ることも失うこともないとイエス様は言われました。確かに、地上の富というものは不安定なものです。
ハイパーインフレが来れば、お金は紙くず同然になってしまいます。だからお金を金や銀に替えておいたほうがいいという訳ではなく、ここで言われていることは、この世の富とどう関わるか、どうすればそれに支配されないか、どうすれば天に宝を蓄えることになるのかということです。
では、天に宝を蓄えるとはどういうことでしょう? それは、神様の御心に従って富を用いるということ、また自分が手にしている富の本当の所有者は神様であることをわきまえて任された富を管理するということです。
② 健全な目を持ちなさい
22節で、「からだのあかりは目です」とイエス様はおっしゃいました。この『目』は肉眼のことではなく私たちの『心』のことです。イエス様は私たちの心を『目』にたとえておられるのです。
私たちは、「明るい」とか「暗い」とか、また花がどんな色か、この人がどんな顔かたちをしているかを目を通して知ります。
つまり太陽や電気の光がその花や人に当たり、それが反射して目に入り、それが何か分かるのです。 そうするとイエス様が言われた、「からだのあかりは目です」というのは、目という窓を通して光を取り入れるということです。
それでは、ここで言われている『光』とは何のことでしょうか。ヨハネ8:12で、「わたしは世の光です。わたしに従う者は・・・・いのちの光を持つのです」とイエス様が言われたように、イエス・キリスが私たちの光です。
光は暗闇を照らし、そこに道を示します。同様にイエス様は、永遠の滅びが定められていた絶望の世界に、永遠の命に至る希望の道を示して下さいました。だからイエス・キリストは全人類の光なのです。
③ ふたりの主人に仕えることはできない
24節でイエス様は、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできない」と言われました。これは、「ふたりの主人に仕えてはならない」という命令ではありません。「ふたりの主人に仕えるべきではない」という勧めでもありません。「ふたりの主人に仕えることはできない」と言われているのです。
またイエス様は、24節の後半で、「あなたがたは神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と告げられました。この言葉も正しく読まなければなりません。
この言葉を「神と富とに仕えてはいけない」というふうに読み間違えてはいけないのです。イエス様は「いけない」と言われたのではなく、「できない」と言われたのです。
「いけない」と読んでしまうのは、心のどこかで「できる」と思っているからです。だから、神と富との間で、どのように折り合いを付けたらよいかと悩むのです。
神様こそが私たちの唯一の主人であり、私たちはそのしもべです。であれば、私たちは富に仕えることは出来ないのです。
『イエス様のみ前に立つ前に』
証し:玉井洋子
2023年11月27日から29日に行なわれた、南カリフォルニア・クリスチャン・リトリートに参加してきました。会場は、ロサンゼルス郊外のEncinoという街にありました。
一年前にロサンゼルスからここラスベガスに移ってきた私には里帰りの気分でした。2018年8月より閉館されていたリトリートが4年ぶりに再開されました。
さぞかし沢山の人になるのだろうと思っていたのですが、30名弱の参加者でした。通常は100名前後だそうです。そ中で8名は牧師先生方なので、普段では考えられない贅沢なリトリートとなりました。
「終末論と未来の準備について、キリスト者としてどう生きていくか」をテーマに、残り時間の大切さ、第一の戒め神様を愛する大切さ、第二の戒め隣人を愛する大切さ、教会の大切さ、合計4回のメッセージをサンデイエゴ日本人教会の大倉牧師に取り次いでいただきました。
その後は、それぞれ、スモールグループに分かれてフェローシップの時を持ちました。残された人生の時間をどの様に使っていくか話していた時、ある姉妹が証をしてくれました。
「私はこの中で一番終末に近いと思うのですが、いつ、イエス様が来られてもよいと思っているの。ただ、私の生きている間に、孫の救いが見れるか、それだけが、気がかりだったけど、「今、あなたにはわからないが、後でわかるようになるだろう。」マタイ13:7のみ言葉で希望が与えられ,必ずや祈りに答えてとくださるという確信に変わりました。」と語ってくださいました。
その証に隣の姉妹が「私もイタリアにいる息子が気がかりで、」「この私も日本にいる弟が、中々イエス様を、受け入れなく重荷を負っていたのです」肉親に対する救いは共通課題だとわかり、共に忍耐をもって最後まで祈っていこうと励ましあいました。
次の日は早天祈禱から始まりました。「御霊によって祈る祈り」について語っていただきました。最高の見本であるイエス・キリストがしているように、絶えず祈りを通して、神様の御声を聞き行動していく。
常に神様の臨在の中に生き続けることの素晴らしさをブラザー・ローレンスの話を通して語られたのが心に残りました。導きが鶴田牧師だったので、機会があればもう一度聞きたいです。
分科会は人数が少ないので、全員が参加するセミナーに変更して、4人の外部から参加された先生方によって行われました。
「メディアを使った伝道」市川翔牧師、,「Jesus Calling-主イエス様との交わりを満喫するー」Kim明子牧師、「トラウマ回復へとつながる道」関勇矢牧師、「聖書から読み解く妬み」高木牧人牧師と若い牧師先生による新しい風を受け取ることができました。
二泊三日のリトリートは、あっという間に終焉を迎えました。私にとって今回のリトリートは、100%イエス様の中にオールインする決断の時となりました。そしてこれからどうしていくのかをまとめてみました。
まず一番目は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。」神様から、あふれるばかりの愛で満たしていただいたので、その愛をもって賛美に、礼拝に応答していく。
二番目は「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。」教会内外問わず、イエス様が見ている目をもって人々に仕えていく。
三番目は神様のみことばを昼も夜も口ずさんでいく。
四番目はイエス様が、命をかけて贖ってくださった魂の救いのため祈り続けていく。
五番目はキリストの証人として、福音を伝えていく。
六番目は主の再臨を待ち望むため、花婿であるイエス様を迎えた賢い乙女のように準備をしていく。
七番目は私は0で神様が100の関係で従っていく。
これを私の愛の戒めとして守っていきたいと思います。
「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めは難しいものではない。」1ヨハネ5:3
「私の生きている限りは、必ず恵みと慈しみが伴うでしょう。私はとこしえに主の宮に住むでしょう。」 詩編23:6
編集室・気まま便り
「ハレルヤ、わが魂よ、主をほめたたえよ。私は生きている限り 主をほめたたえる。命のあるかぎり 私の神にほめ歌をうたう。」 詩篇146:1-2
刺繍は裏側を見れば糸が複雑に絡み合っていて何を描きたいのか分かりません。しかし表から見ればその美しい絵に感動します。私達は神のなさる事のほんの側面しか見ていません。
時にその裏側しか見えず失望に暮れる日があります。このみ言葉はそれでも「主をほめたたえよ」と私達に命じています。なぜなら神様は良いお方だから。
今そう思えなくても必ず素晴らしい「絵」を私達に神様は見せて下さるのですから。苦しい裏側の日々も神様が表を見せて下さる時になくてはならぬものだったと悟る時が来ます。
新年も日々主をほめたたえて感謝しつつ歩みたいです。 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q モルモン教の間違いは何ですか?
A まず、モルモン教とは、1830年、アメリカのニューヨーク州で始まり、創始者はジョセフ・スミスという人物です。彼は、神からの新しい啓示を受けたとして、「モルモン書 (旧名モルモン経)」を出版し、モルモン教会を発足させました。モルモル教会は、正式には「末日聖徒イエス・キリスト教会」といわれ、本部は、ユタ州ソルトレイク・シティーにあります。
彼らが信じる神は、かつて私たちと同じ人間であった者が昇栄した(神となった)もので、私たち人間と同じように肉体を持っていると主張します。
また彼らは、キリストが十字架にかかられたので、キリストを信じなくても救われ、たとい地獄に行っても償いをすれば出て来られると教えます。
さらに、モルモン教徒であり、モルモン教の戒めをすべて守る者は神になれると教え、それが彼らの究極の目標です。「聖書」、「モルモン書」、「教義と聖約」、「高価なる真珠」が神のことばであるが、「聖書」は部分的に書き換えられていると主張します。
モルモン書は、ジョゼフ・スミスが天使モロナイ(復活した預言者モルモンの息子)から金版を授かり、彼が特別な石を使って翻訳したことになっています。
11人がその時の証人として「モルモン書」の冒頭に名を連ねていますが、その後、11人中8人までがモルモン教を脱退し、残った3人はジョセフ・スミスの父親と2人の兄弟だけです。
もともと「モルモン書」は、ソロモン・スポルディングが、「アメリカ人はイスラエル民族の分派である」という彼の幻想に基づいて書いた一種の歴史小説です(1812年)。
しかし、誰もそれを取り上げてくれない時、ジョセフ・スミスがその原稿を安く買い取り、それを基にオリバー・カウドリとマーティン・ハリスに執筆させ、1830年に出版したものです。この二人の助手は、始めの頃、「自分たちはその金盤を見た」と証言しましたが、あとで、「あれは嘘だった」と告白し、モルモン教会から脱会しました。
ジョセフ・スミスは、「この経典は、421年から827年まで、クモラの丘の土中に秘蔵されていたと主張していますが、モルモン書の中には、ジェームス王(1566-1625年)の命による英国欽定訳聖書(KJV)の訳文そのままを1000箇所も引用していることで、自らのウソを暴露しています。
また、もしモルモン書が絶対に間違いのない神の言葉ならば、改訂版などは考えられないことですが、モルモン書は、原版と現在版には3990箇所以上もの変更があり、「教義と聖約」においては65000箇所以上の変更があります。
ジョセフ・スミスの記した「教義と聖約」の中にも多くの変更された教えがあり、たとえば、「月には1000年もの寿命を持った人がいる」、「黒人は呪われたものであり、白人は祝福されたものである」という教えは除去されています。
モルモン教は、結論として、キリスト教とは似ても似付かないもので、その神概念も、道徳も、死後観も、救いの意味も全く聖書の教えとは別物で、誤りに満ちた偽りの教えです。
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