DesertWind・ニュースレター April, 2025
『ヨハネの黙示録①:黙示録の目的と祝福』(ヨハネの黙示録1章)
LVJCC 牧師:鶴田健次
現代の世界情勢は不安定で、戦争、経済不安、価値観の対立が激化しています。聖書的視点から見ると、これは「光と闇の戦い」、神の国と悪魔の国のせめぎ合いとも言えます。
イエス・キリストはマタイ24章で終末の兆候として戦争や飢饉、地震、偽預言者の出現などを予告されました。まさに現代がその時代に該当するかのようです。
しかし、こうした混乱の時代には、しばしば霊的なリバイバルが起こることも歴史が証明しています。人々が不安に直面すると、真理を求める心が生まれます。
今こそ教会が「地の塩、世の光」となり、福音を宣べ伝える時です。多くの人がヨハネの黙示録を恐ろしい書と考えますが、その本質は「希望」です。なぜなら、黙示録は「神の国の勝利と完成」を告げる書だからです。
①イエス・キリストの黙示
黙示録は単なる人間の考えではなく、イエス・キリストご自身が啓示された神の計画です。「黙示」と訳されるギリシャ語「アポカリプシス」は、「ベールを取り除く」という意味を持ちます。
つまり、黙示録は神の計画を人々に明らかにする特別な書であるということです。黙示録1章1節には、「神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた」とあります。
これは、イエス・キリストが歴史を統治されることを示すものです。初代教会の信者たちは、ローマ帝国の迫害に耐えていました。そんな彼らにとって、キリストが最終的に勝利されるという黙示録のメッセージは、大きな励ましでした。
また、この啓示は現代のクリスチャンたちにとっても希望の源であり、終わりの時に向けて信仰を持ち続ける力となるのです。
②再臨の約束
黙示録1:7には、「見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る」とあります。これはキリストの再臨の確実性を示す預言です。イエス・キリストの再臨は、旧約・新約の両方で繰り返し語られています。
マタイ25章31節では、「人の子は、その栄光を帯びて…来る」と語られ、使徒の働き1章11節では、イエスの昇天後、「またおいでになる」と約束されました。キリストの再臨は、神の国の完成と、義なる裁きを行うためのものです。
その時、信仰者は永遠の命を受け、神とともに住むことができます。私たちはこの再臨に備えるべきです。目を覚まし、聖なる生活を送り、福音を伝えることが求められます。
終わりの日には、多くの人がキリストの再臨を目撃し、悔い改めるでしょう。しかし、その時はすでに遅いのです。だからこそ、私たちは今、信仰をもって備えなければなりません。
③アルファでありオメガであるキリスト
黙示録1章8節で、キリストは「わたしはアルファであり、オメガである」と宣言されます。これは神の絶対的な主権と永遠性を示しています。「アルファ」はギリシャ語の最初の文字、「オメガ」は最後の文字であり、神が歴史の始まりから終わりまでを支配されることを表すものです。
詩篇90篇2節には、「とこしえからとこしえまで、あなたは神です」とあり、神の支配は永遠に続くことが強調されています。歴史を振り返ると、帝国は興亡し、政治体制は変わりますが、神の計画は決して揺るぎません。
イエス・キリストは歴史の主であり、信仰者はこの確信のもとに生きるべきです。イザヤ書46章10節では、「わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる」と語られています。私たちの人生は神の計画の一部であり、最終的にはキリストの勝利によって完成するのです。
④目を覚まして備える者の祝福
黙示録1章3節には、「この預言のことばを朗読する者と、それを聞き、それを守る者たちは幸いである」と記されています。これは、神の御言葉を学び、従う者が祝福を受けるという神の約束です。イエス・キリストは「目を覚ましていなさい」(マタイ25:13)と繰り返し命じられました。これは霊的に油断せず、信仰を堅持することの重要性を示しています。
終末には多くの偽預言者や誘惑が現れるため、私たちは御言葉を学び、祈りを深め、正しい信仰を持ち続けなければなりません。また、聖なる生活を送り、福音を伝えることが、主の再臨に備える方法です。
「十人の乙女の譬え」のように、霊的な備えを怠る者は後悔することになります。神の計画は確実に成就します。だからこそ、私たちは信仰を持って歩み、神の約束に従って生きるべきなのです。
『初めての日本旅行』
証し:David Love
この度、私は日本への旅行についてお証しする機会をいただけたことを感謝します。今回の旅は、私にとって長い間待ち望んでいた初めての日本訪問でした。
実は、妻と私は2020年に日本を訪れる計画を立てていたのですが、義母が重い病気を患っていたことと新型コロナウイルスの流行がピークに達していたこともあり、残念ながら訪問を見送ることにしました。
そしてこの決断はとても難しいものでした。なぜなら、私は妻の母国を訪れ、彼女を形作った文化や環境を直接体験することをとても楽しみにしていたからです。
また、義理の両親と共に時間を過ごすことも心待ちにしていました。最後に彼らと直接会ったのは、2019年3月の私たちの結婚式の時でしたので、再会を心から楽しみにしていました。
しかし、人生の出来事や忙しさは、あっという間に時を進めてしまうものです。気がつけば数年が過ぎ、多くのことが変わっていました。義母はすでに主のもとへ召されましたが、その背後には素晴らしい神の御業と物語があり、それを知ることで大きな喜びを感じています。
しかし、それでもやはり、直接時間を共に過ごすことができなかったことに寂しさを覚えます。とはいえ、神に感謝すべきことは、私はいつの日か再び義母に会うことができると確信していることです。その時には、私たちの共通の主の言葉を通して、心からの会話を交わすことができるでしょう。
「そして時は流れて2025年1月」 すべてが順調に進み、ついに日本へ妻と一緒に行く時間と機会が訪れました。実はこの数年間、優子は母の葬儀や善の高校卒業のお祝いのために何度か日本を訪れていましたが、夫婦としての訪問は叶いませんでした。
しかし、1月は私の誕生月であり、義父の75歳の誕生日でもあったので、一緒にお祝いする計画を立て、ついに日本へと向かったのです。
日本での旅は、多くの素晴らしい思い出に満ちていました。東京の目まぐるしく動く都市生活、新潟のややスローながらも集中力のあるライフスタイル、そして沖縄の美しい風景とゆったりとした雰囲気。
小さな国でありながら、実に多くのことを体験することができました。しかし、特に心に残った二つのことに焦点を当てたいと思います。それは、「コミュニティ」と「家族」です。
私は、日本にいても私の故郷と同じような光景が広がっていることに気づきました。レストランでは人々が食事を共に楽しみ、カフェでは勉強や仕事をする人々が集まり、ショッピングモールでは買い物やおしゃべりをする人々がいました。こうした光景を目にし、「人は違うようでいて、実はとても似ているものだ」と強く感じました。
創世記を見ると、神は私たちを「コミュニティの中で生きる存在」として創られたことがわかります。アダムとエバの関係から始まり、家族を築き、地を満たすようにと命じられました。
日本到着後、最初に優子の兄家族と東京で会いました。言葉の壁はありましたが、家族の絆や愛、伝統を肌で感じることができました。そして、新潟へ向かい、義父に会いました。
彼を「父」と呼ぶのが気に入っています。彼は素晴らしいホストで、私たちを新潟のあちこちに連れて行ってくれました。教会にも行き、たくさんの食事を楽しみました。
新潟で数日過ごした後、家族全員で沖縄に集まり、義父の誕生日を祝いました。Air BNB に泊まり、夜遅くまで飾り付けをしました。観光やビーチ、水族館を巡り、またたくさん食べました。そして、反対車線の運転にも慣れました(笑)。
私が今回の日本訪問について、この二つのポイントをお伝えしたかった理由は、文化が違っても私たちには共通の特性があるからです。日本はクリスチャン人口が1%未満の国ですが、人々は神の祝福を受けています。
ただ、それがどこから来るのかを知らないだけなのです。私の祈りは、日本の人々が、自分の才能や努力にばかり目を向けるのではなく、心と思いをイエスへと向けることです。
そして、イエスが私たちを父なる神のもとへと和解させ、究極のコミュニティ、そして永遠の家族へと導いてくださることを知るようになることを願っています。
編集室・気まま便り
鶴田先生の呼びかけで私達の教会では去年の7月から聖書通読を始めた。私にとっては3回目である。
過去2回は1回読み終わるのに3年近くかかったが今回は新しい気持と期待を持って読みだした。私が通読の時、参考にするのが、榎本保郎著の「一日一章」である。
最近レビ記の6章を読んだ時に、祭壇の火を年中24時間消さないで、燃やし続けることが祭司の大切な役目と書いてあり、それは私達の信仰の火と同じとの事。祭司が朝毎に薪柴を燃やしたように、私達も朝毎にみことばを読み、瞑想し、祈る事を続けることが最も大事。
「主のいつくしみは絶える事がなく、そのあわれみは尽きる事がない。これは朝毎に新しく、あなたの真実は大きい。」哀歌3:22-23
MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q シャカイナ・グローリーとは何か?
A 「シャカイナ・グローリー」とは、神の臨在が可視的に、または霊的に現れる状態や現象を意味します。
【シャカイナの語源】
シャカイナは、ヘブライ語の「シュキーナー」に由来し、「住まう・宿る」という意味です。つまり直訳すると、「神が栄光のうちに住まわれる」という意味になります。「シャカイナ」という言葉自体は聖書に登場しませんが、ユダヤ教やキリスト教の神学において広く使われています。「神が人の間に宿られる(住まわれる)」というニュアンスがその根本です。
【旧約聖書におけるシャカイナ・グローリー】
1. 幕屋と神殿に宿る神の栄光
・ 出エジプト記40:34-35
「そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていた
からである。」
・ 列王記第一8:10-11
「 祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからであ
る。」
神の臨在が、「雲」「光」「栄光」として物理的に現れたことが分かります。
2. 荒野における臨在の導き
・ 出エジプト記13:21
「主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。」
神の臨在は、視覚的にイスラエルの民を導く「柱」となって現れました。
【新約聖書におけるシャカイナ・グローリー】
1. イエス・キリストこそ「神の臨在」の完成
・ ヨハネの福音書1:14
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
「住まわれた」のギリシャ語は 「エスケーノーセン」で「幕屋を張った」という意味です。旧約の幕屋と同じく、イエスこそ「神の臨在が宿った方」=シャカイナ・グローリーそのものです。
・ マタイ17章:山上の変貌 イエスの顔が太陽のように輝き、衣が光のように白くなった。この出来事は神の栄光の明確な視覚的現れです。
2. 聖霊による臨在
・ ペンテコステの日、弟子たちに炎のような舌が現れ、聖霊が降りました(使徒2章)。これもまたシャカイナ・グローリーの形の一つと考えられます。
個人の信仰生活におけるシャカイナ・グローリーの体験として、たとえば、敬虔な礼拝の場において、神の臨在が非常に強く感じられる瞬間があります。多くの信者が「涙が止まらなかった」「神に触れられたようだった」と証言します。これらはすべて、シャカイナ・グローリーが訪れた時の霊的体験と理解されます。
また、静かな祈りの中で、突然心に深い平安が訪れたり、神の愛に包まれている感覚を経験したりすることも、シャカイナ・グローリーの体験だと言えるでしょう。
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