LVJCC・ニュースレター | September, 2019

ラスベガス日本人教会

DesertWind・ニュースレター September, 2019

 

『聖書の死生観』 (第二コリント5:1)』 

LVJCC 牧師:鶴田健次

 

2013年8月7日、ラスベガス教会の24歳になる姉妹が交通事故で天に召されました。青天の霹靂というか、本当に突然の出来事でした。

奇しくもこの日は私の娘の誕生日で、いつもならば娘に電話をして、電話口でHappy Birthdayの歌を歌ってあげるのですが、この日は娘の誕生日であることも忘れ、半日病院にいました。

病院から日本のご両親に電話があり、翌日、ご両親がラスベガスに到着されました。この訃報を聞かれたお二人が、どんな思いでラスベガスまで飛んで来られたかを想像するだけで胸の張り裂ける思いでした。

お二人には我が家に泊まっていただいたので、色んな話をする機会があり、私は何度も「娘さんは今も生きておられるのですよ」と言って、その意味するところをお話させていただきました。それは以下のような内容でした。

1 死はすべてのものの終わりではない

ノンクリスチャンの方とお話していると、時どき、「うちは仏教ですから」と言って話を聞こうとしない方がおられます。あるいは、「私は宗教には興味ありません」と言われる方もおられます。

私は、そのような方に、心から、真剣に、こんな質問をします。あなたの信じているものは、あなたを「死」から救うことが出来ますか? あなたは「死」を前にして絶望の中にいる人に、あなたの信じているものによって希望を与えることが出来ますか? もし出来なければ、あなた自身が死を迎えた時に、あなたには希望はありません。そのように申し上げます。

すべての人間が抱えている「死」の問題は、キリストの福音以外にそれを解決することはできません。また、この「死」の問題をさえ解決するキリストの福音は、あなたが抱えておられる如何なる問題にも解決の道を与えることができるのです。

2 死は永遠の世界の始まりである

人は誰でも必ず死ぬ時が来ることを知っていますが、「人は死んだらどうなるのか」という問いに対して、殆どの人は「分からない」と答えます。また、「死んだら何もなくなる」と信じている人もいます。死んだ後のことは誰にも解からないのです。

しかし、死後の世界をも支配される聖書の神は、その事を克明にご存知です。この神の言葉である聖書によれば、死後の世界は明らかであり、それは永遠の天国と地獄です。

そして、生まれながらのすべての人は、自分の中にある罪のために永遠の地獄が定められています。しかし、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦された人は、永遠の天国に行くことができるのです。

人間は、とかく自分が望んでいることを信じたがりますが、死の問題は、軽々しく扱うべき事柄ではなく、非常に厳粛なものです。なぜなら、死んだ後には永遠の世界があるからです。

3 イエス・キリストだけが天国への道である

それでは、天国行きと地獄行きとの分かれ道は、どこにあるのでしょうか。多くの人が考えているように、悪人が行く所が地獄で、いわゆる善人が天国に行くのでしょうか。そうではありません。

イエス・キリストは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらなければ父のみもとに行くことはできない」。つまり、イエス・キリストを信じる信仰、これだけが天国への道なのです。

では、この世の常識に逆らって、ここまで言い切ることのできる根拠はどこにあるのでしょう。それは、この世に比類のない聖書です。こう言う私も、聖書を知らなかった40年前までは、死に対するこのような見解を笑い飛ばしていました。ところが、多くの時間をかけて聖書を学び、自然科学や歴史、哲学や倫理・道徳に関する理解を深めれば深めるほど、聖書がこの世のあらゆる書物を圧倒的に引き離して、絶対的な真理の書として立ち得るものであることを確信するのです。

そして、この聖書の死生観に立つときに、死は、キリストを信じる者にとって、永遠の天国に通じる通過点に過ぎないことを確信するのです。

 



集会から献身

証し:末広 和美

 

この度のお証しの機会を心から感謝いたします。私はLVJCCの聖書クラスに参加した事をきっかけに献身へと導かれることになりました。

当時私が所属していたアメリカ人の教会でサンデースクールの奉仕をしていましたが、以前から親交のあった伊藤幹子姉妹が日本へ帰国されることになり、LVJCCのサンデースクールの奉仕者に欠員が出る事を聞き、その働きに非常に興味を持ちました。

しかし諸事情によってアメリカの教会へと転会した私が再びLVJCCに戻り働く事に少なからずの抵抗を覚え、まずは教会員の皆さんと主にある交わりを持つ事から始められないかと祈り求め、聖書クラスへと導かれました。

2006年のクリスマスに私は日本で施設療養生活をしていた母が肺炎を患ったという知らせを受けました。様々な事情により日本へ帰国出来ず、不安と親の看病が出来ない苦しみと悲しみの中で主は私を早天祈祷会へと導かれました。

主は祈りを通じて私を励まし強めてくださり、ついには信仰をも引き上げてくださいました。集会で祈り始めた頃はただ「癒してください」という祈りだったものが次第に「すべてを御手におゆだねいたします」に変わり、「御心がなりますように」となり、終いには「私の全てを主にお捧げいたします」という祈りになりました。

この集会においても私は主とお約束をし、私にとって一週間の最もよい日、よい時間をお捧げ致しました。これは本当にチャレンジでしたが、「もう主にすがるしかない」という気持ちが支えでした。聖霊様は本当に働いて下さり、全能なる主を深く慕い求める思いへと導いてくださいました。

2007年の4月母の葬儀の為に帰国した折、札幌羊ヶ丘教会の兄弟姉妹方の母への献身的な働きを耳にして我が身を不甲斐なく思っている時、主の「ならばあなたは何をするか?」という問いかけが聞こえました。

「主よ、私も神の家族の為に働くこと出来ます」そう心で叫んだ後、主がにっこりと微笑まれている様な温かい感じがして、心が喜びと平和に包まれました。

帰米後、「全てをお捧げいたします」と祈ったことをすっかり忘れていた私に主は何度も献身を促されました。その一つがシニアミニストリーへの導きでした。

その頃 LVJCC にはまだシニアミニストリーがありませんでしたが、日本での主への宣言を思い出し、様々な葛藤がありながらも、この新しい働きに牧師先生とも関わることになりました。

しかし働きが進むにつれ、この働きには牧会の働きが非常に重要になってくることに気付かされ、何度も何度もしり込みしながらも主はついに決心させてくださいました。

今、献身を決心した後この一年を振り返る時、「主の山に備えあり」という創世記の御言葉を思い出します。私は長い間主に信頼できず、従わず、いつも失うことばかり恐れてきましたが、この一年の間には得るものはたくさんあっても失うものは何もありませんでした。主は多くの試みを通して私に信頼と従順とを学ばせてくださいました。

たった一つの5・6人の小さな集会から献身へ。一年前聖書クラスへ参加しようと決めた時の本来の目的は「交わり」だったものが、主がそこに働かれることによって私にとっては信じられない道が開かれたのでした。

聖書クラスに母の病、早天祈祷会や他教会との交わり、そして主にある奉仕と一見、何の結びつきもない出来事の上に主は御自身の御計画に従ってそこに統一性を生み出し、さらに一貫した導きのためにそれぞれを用いられました。

そして今、私の様な土くれの器をも主の働きのために用いてくださることを心から感謝し喜んでいます。

 




 

Desert Wind  9月号・ニュース

91日(日)の1時間半よりロサンゼルスに引っ越される小寺貴子姉妹の歓送会が持たれます。

98日(日)の愛餐会後、役員会が持たれます。また、2時より体操教室が予定されています。

915日(日)の礼拝後、カリフォルニアよりJEMS主催の観光ツアーで来られる日系人シニアグループを迎えて歓迎ランチョンが持たれます。

921日(土)1時より教会にてミニ・コンサートが行われます。土曜の昼下がり、心洗われる美しい歌に浸りませんか? 入場無料。コンサート後リフレッシュメント。

◆  9月22日(日)の礼拝後、婦人会の例会が持たれます。

◆  10月5日(土)「日本での引退生活・無料セミナー開催」会場:LVJCC、1時開場、1時半~4時 / 参加者要予約 TEL. 562-380-2202、hikkoshi_lax@nittsu.com



編集室・気まま便り

以前服部雄一という日本で「ひきこもり」の治療をしているセラピストの話を聞いた。

「ひきこもり」には「社会的ひきこもり」と「仮面ひきこもり」がある。社会的ひきこもりは家の自室に閉じこもり、昼と夜が入れ替わった生活をし、全く人と関わりを持たなくなる人。

仮面ひきこもりは普通の社会生活をしているが、長年正直な自分の思いを言うと社会秩序を乱すという習慣に合わしてきたために自分の意見は誰にも言えないでいる内に本当の自分を見失っている人。

服部先生は「引きこもりは日本特有の和を重んじる文化、世間への恐れ、家制度、偶像礼拝等々が原因であり、反対に真実の神を信じ、個々の人格を大切にするクリスチャンはひきこもりにはならないと断言しておられたのが印象的だった。

MN



 

LVJCC キリスト教 Q&A

Q キリストの御座のさばき”とは何ですか?

 

A 聖書には、さばきについて幾つかの明らかな教えがありますが、そのひとつが“キリストの御座のさばき”です。これは未信者に対する“白い御座のさばき”とは違って、クリスチャンに対するさばきです。たとえば、そのことを表す聖句を幾つか引用しますと、以下のようなものがあります。

「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」(2コリント5:10)

「こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。」(ローマ14:12)

 
「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」(1コリント3:12-15)
 

いずれの聖句も、その文脈を見ると、未信者ではなく、クリスチャンについて言われていることは明らかです。ですから、“キリストの御座のさばき”は、クリスチャンが自分の信仰生涯に関してキリストに申し開きをするものです。“キリストの御座のさばき”は、救いに関するさばきではありません。

救いは、十字架の御業とキリストを信じる私たちの信仰によって既に決まっていることなので、私たちの行いによって罪に定められることはありません(ローマ8:1)。確かに、聖書で言われているとおり、私たちは自分の人生について申し開きをしなければなりません。その意味において、私たちが犯した罪について問われることは明らかです。しかし、“.キリストの御座のさばき”の焦点はそこにあるのではなく、私たちの働きに対する報酬にあるのです。

“キリストの御座のさばき”において、クリスチャンはどれだけ主に忠実であったかによって報酬を受けます(マタイ25:14-30)。私たちが、どれだけ大宣教命令に従ったか(マタイ28:18-20)、どれだけ罪に勝利できたか(ローマ6:1-4)、またどれだけ与えられた聖霊の賜物を活用したかなどにかかっており、その働きに応じてさまざまな冠を受けるのです(2テモテ4:8、ヤコブ1:12、1ペテロ5:4、黙示録2:10)。

 

LVJCC・ニュースレター【アーカイブ】

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