ラスベガス日本人教会
DesertWind・ニュースレター July, 2019
『愛は人を変える』 (ヨハネ21:1-17)
LVJCC 牧師:鶴田健次
ヨハネの福音書21章には、イエス様が復活された二週間 後の出来事が記されています。ペテロたちは一晩中漁をしましたが、一匹の魚も獲れず、ヘトヘトになって岸に戻って来ました、彼らが岸辺について陸に上がると、炭火の上に魚がのせてあり、イエス様が食事を用意しておられました。
皆さんは、これまでの人生で、一晩中漁をしたのに、一匹も魚が獲れないという、身も心も疲れ果ててしまうような経験をされたことはありませんか。仕事の行き詰まり、夫婦関係の 行き詰まり、自分なりに色んな努力をしたものの、全く効果がなく、何の解決も見えてこない。そんな経験がないでしょうか。 しかし聖書は、そんな私たちのために、イエス様は必要なもの を整えて待ち受けておられるのだと教えています。
食事の後、イエス様は突然ペテロに質問をされました。「ヨ ハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わた しを愛するか。」 しかも三回続けて同じ質問をされました。かつてペテロはイエス様に、「わたしは、弟子たちの誰よりもあ なたを愛しています」と言いながら、その舌の根も乾かないうち にイエス様を三回も裏切ってしまったことがありました。
ペテロ は、その時の事を思い出し、胸を痛めながらこの質問を聞き、 その都度、同じ答えをします。「主よ、そうです。わたしがあな たを愛することは、あなたがご存知です。」 するとイエス様はペ テロに、「わたしの羊を養いなさい」とおっしゃいました。
ところで、イエス様はなぜペテロに三回も同じ質問をされたのでしょうか。それは、ペテロの心の傷を癒すためでした。三回 の問い掛けをすることによって三回の裏切りを赦し、ペテロを 謙遜にさせ、悔い改めに導き、関係の回復と、自信の回復を 与えようとされたのです。
ペテロの失敗を責める代わりに、イエス様は彼に、もう一度、自分を証明するチャンスを与えられました。イエス様はペテロの過去を見ないで、ペテロの将来を見ておられました。そして、何としてでもペテロの立場を取り戻してあげたいというイエ ス様の愛が、ペテロを立ち直らせ、彼を偉大なキリストの使徒 にしたのです。
あるとき、エルサレムで若い青年マルコがパウロとバルナバの 伝道旅行に付いて来たいと言ったので、パウロとバルナバはマルコを一緒に連れて行くことにしました。ところが、彼らがクプロ という所に来たとき、マルコはその地に大変な迫害があるのを 知り、怖くなって自分の家に帰ってしまったことがありました。
マルコはみじめな思いで家に帰ってきました。周りの人々か ら帰ってきた理由を聞かれても、まさか怖くなったので帰って来 たなどと言える訳でもなし、彼は、自然に人との距離を置くよ うになりました。マルコは自己嫌悪に陥り、しばらくそこから立ち直ることが出来ませんでした。
ところがある時、エルサレムにマルコの肩をたたいて彼を励まし、エルサレムの教会のためにあなたが必要だと言ってくれる人 がいました。それがペテロです。そして、この時を境にマルコは 成長し、やがてマルコの福音書を記すまでになるのです。
ペテロは、失敗がどういうものかを知っていました。また、もう 一度チャンスを与えられることがどういうものかも知ってました。 彼は、イエス様がどうやって失敗を勝利に変えて下さったか、ま た赦されるということがどういうことか、そして失敗をする前と同 じ働きをもう一度任せられるということがどんなに大きな励まし であるかを経験しました。そして、その経験をもとに、ペテロは 同じ事をマルコにしてあげることができたのです。
誰にでも失敗はあります。失敗しない人などいません。失 敗をしないことも大切ですが、もっと大切な事は、失敗を成功 に、敗北を勝利に変えて下さる方がおられることを知ることで す。そして、その方の助けと導きによって、ペテロのように、マル コのように、失敗を成功に、敗北を勝利に変える人生を歩ん でいきたいと思います。
証し:命と平和の大切さ(下)
中島マリ子
ハンブルグの後ポーランドのクラコウという街に行 き、アウシュビッツを見学しました。
ハンブルグの後ポーランドのクラコウという街に行き、アウシュビッツを見学しました。まさにこの世の地獄でした。ユーチューブで見ていたのですが、やはり現地 に足を運ぶ大切さを痛感しました。残酷さが伝わってき て、心が痛み、人の罪の深さに恐れを感じました。
極寒のポーランドの冬だというのにコンクリートの床 にわらが敷いてあるだけの部屋や、毛布とは呼べない薄い布が床に敷いてあったり、人種を問わず障害者を抹殺したので、たくさんの義足、義手が山積みにされて いる部屋、毒殺に使ったという無数の毒ガスの缶。最 もショックだったのは2トンもあるという女性の髪の毛でした。ガス室に送る前に全員髪の毛を切られたのです。しかもその髪の毛で布を織ったり、綿のかわりにクッションや枕に入れて使ったとの事。
まさに家畜以下の 扱いを受けたことが伺えて、心が深く痛みました。アウ シュビッツだけでなく、隣接する市にある第 2 収容所のビルケナウは何倍も広く驚きました。
一部焼けて建物 が消失していましたが、毎日 600人、5年間で合計600 万人のユダヤ人と他人種が 900万人殺されたというガス室と遺体を焼いた建物の跡には記念のモニュメントと慰霊碑が関連した国々の言葉で書かれて10数個建っていました。
遺体を焼いた焼却炉の跡にも慰霊 碑が 4つ建っていました。これらを残したのはそれだけ 後世の人々に二度とこのような悲劇が繰り返されない ようにという平和を願うポーランド始め、ヨーロッパの 人々の切実なる祈りが心に響いて来ました。
「平和をつくる者は幸いです。天の御国はその人たちの ものだから。」マタイ5:9
「全世界で何百万もの人々がアウシュビッツ収容所の 歴史を知っていますが、”そのような悲劇が繰り返されないためには人々の意志が必要である”という意識とその記憶 を維持することが、現在最も大切なことなのです。人間こそがそのような悪事を働き、しかしそれを防ぐのも人間しかいません。」(アウシュビッツの元囚人;ブワデイスワフ・バ ルトシェフスキ)
旅行に出る前はユダヤ人虐殺の出来事を心のどこか で他人事のように受け止めていた自分に気が付きました。
それが実際ドイツとポーランドに住んでいる人々と会い、 生活ぶりを見、親しく交わった後は人間の罪、残忍さは私 の心の中にもあると認め、加害者を責める気持ちが失せ ていました。全く罪のない神の子、イエス様を十字架にか けた群衆のように、ユダヤ人をガス室にて殺した人達の中に自分もいると思い、神様の前にひざまづき罪を懺悔し赦 しを願わないではいられなかったです。
同時に命の尊さと平和について深く考えさせられた旅でした。私達のように多種多様な人種の入り混じるアメリカ という国で暮らしてきた者にとっては(ヨーロッパも同じくでした。)いかに異質な民族や習慣を受け入れて共存していくかという課題をいくつも乗り越えて来た人生でしたが、今回も日常生活の中でいかに平和を保つよう心がけて生きていくことが大事であるかという事を深く考えさせられました。
そのためにも聖書に書かれた愛と赦しの神様のメッセージを日々仰いで心に刻みつつ歩みたいと強く思いました。
Desert Wind 7月号・ニュース
◆ 7月7日(日)の礼拝後2:00pmより背骨コンディショニングの体操教室が持たれます。(無料)どなたでもご参加ください。
◆ 7月14日(日)役員会が持たれます。役員の働きのため にお祈りください。
◆ 7月28日(日)の礼拝後に教会総会が持たれます。
◆ 8月12日から14日まで、南カリフォルニア・クリスチャン・リトリートが”Holy Spirit Retreat Center”で持たれます。 今年のメイン講師は大倉信先生で、『キリストを知る絶大 な価値』というテーマで4回の聖会メッセージをして下さいます。またその他さまざまな集会、新しい企画が用意されています。ぜひ皆さんがご参加ください。
編集室・気まま便り
介護の大変さについての体験談を聞いた。認知症の母と子育ての両立の10 年という介護期間がつらくて母の事を死んでしまえばよいのにとまで思ってしまった娘だった。
そして母を看取った後、介護後鬱になり、一切の感情と欲がなくなった。抜け出せたのは孫 の誕生と世話。同じ世話でも孫の場合は日々成長していく姿を眺め希望を抱ける。この子の中に母の命 がつながっていると思った。
介護をするにあたり大事な事は完璧主義にならない。一人でかかえこまない。家族や友達と分かち合うように心がける。責任感の強い、頑張る人は鬱になりやすい。時間をみつけてリラックスしたり、週末 は家族に頼んで外出する など気分転換が大事。
これは介護だけでなく全ての事に言える大事なポイントだと思った。「がんばってね」と言い合うがむしろ「無理しないでね」と声を掛け合いたいと思った。 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 祈りが聞かれるのはなぜ、聞かれないのはなぜ?
A これはクリスチャンなら誰もが抱く疑問だ と思います。祈りが聞かれる時と聞かれない 時がある・・・・なぜ?何が違うのか? そんな 疑問が自然と浮かんでくるものです。
さて、聞かれる祈りついて、聖書は多くのこと を教えています。その幾つかを取り上げてみ ますと、聞かれる祈りにおいて重要な原則は、 まず私たちが神様との正しい関係を持っているということです。聖書は「義人の祈りは働くと、大きな力があります(ヤコブ 5:15)」と教えています。また、「主の目は義人の上に注が れ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる(1ペテ ロ 3:12)」と言っています。ここで言われてい る義人とは、キリストを信じる信仰によって神 の前に義人とされ、神との正しい関係を持っている人のことです。
また、聞かれる祈りのもう一つの原則は、御 心にかなった祈りであるということです(1ヨハ ネ 5:14-15)。御心にかなった祈りというのは、神が願っておられることを祈ることです。 では、御心であるかどうかをどのようにして知 ることができるでしょうか。
それは、その祈りが 聖書の御言葉と調和しているかどうかで分かります。一生のうち、5万回の祈りを聞かれたと言われるジョージ・ミューラーは、いつも祈 るとき、その祈りを裏付ける御言葉を聖書の 中から探し、その御言葉と共に祈りをささげ たそうです。
その他にも、祈りが聞かれるためには、絶 えず祈り(1テサロニケ 5:17)、感謝して祈り (ピリピ 4:6)、信じて祈り(1:6)、心を注ぎ出 して祈る(1サムエル 1:15)ということが重要 です。
次に、聖書は、聞かれない祈りについても教えていますが、まず御心にかなわない祈り は聞かれません。また、私たちの側に告白していない罪があれば、祈りが聞かれる妨げと なります(イザヤ 59:1-2)。あるいは、自己 中心な思いや悪い動機で祈る祈りは聞かれ ません(ヤコブ 4:3)。
しかし愛の神様は、その聞かれない祈りをも私たちの益のために用いて下さいます。つまり神様は、私たちを暫くの間、患難の中に 置き、その中で私たちの信仰を引き出し、主に信頼することを学ばせて下さいます。また、 その苦難の中を通すことによって、私たちが 忍耐を身につけ、練達した者となり、謙遜と 感謝の心を学ぶようにして下さるのです。
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