LVJCC・ニュースレター | October, 2019

ラスベガス日本人教会

DesertWind・ニュースレター October, 2019

 

『福音の力』(ヨハネ8:1-11)』 

LVJCC 牧師:鶴田健次

 

イエス様がエルサレムの神殿に入られると、多くの人がイエス様の教えを聞くために集まって来ました。その時、イエス様を待ち構えていたかのように、律法学者やパリサイ人たちが姦淫の現行犯で捕えられた女性を連れて来てイエス様の前に立たせ、こう言いました。

「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」

ところが、彼らの魂胆を見抜いておられたイエス様は何も答えず、身をかがめて、指で地面に何かを書いておられました。しかし彼らが執拗に問い続けるので、イエス様は身を起こして言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

彼らはそれを聞くと、年長者たちから、ひとりひとり出て行き、イエス様とその女性だけが残りました。イエス様は彼女に言われました。「婦人よ。・・・・・。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 彼女は答えました。「だれもいません。」 すると、イエス様は言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」

① 赦しの福音

 

キリストの福音は、赦しの福音です。赦される筈のない者が赦されることができるというメッセージです。この短い話の中に、イエス様が命をかけて現わされた赦しの福音が鮮やかに描き出されています。

「さあ、どうする」と問い続ける人々に、イエス様は「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われました。イエス様のその一言が暴露したことは、明らかに罪を犯した人と、心の中で姦淫をし、人を憎み、人を陥れようとした人は、神の前では同じ罪人だということです。律法学者たちはそのことを示されて去って行ったのです。

イエス様は言われました。 「わたしもあなたを罪に定めない。」 人を本当に裁くことの出来るお方が、あなたを罪に定めないと言われること、それが本当の赦しです。このイエス様の赦しの言葉は、実は十字架の出来事を先取りした言葉なのです。

イエス様は人間の罪の赦しのために、十字架で身代わりの罰を受けられるのです。そして本当ならば、十字架において、この女性に告げられるべき罪の判決をイエス様が代わりに引き受けて下さり、それと引き換えに、罪のないイエス様に告げられるべき無罪判決が、この罪人である女性に告げられることとなったのです。

神様の赦しは、決して罪をうやむやにすることではありません。赦しがたい罪の罰を神様が引き受けて下さることによってもたらされるものなのです。

② 自分の十字架を負う

 

イエス様は初めからご自分の命を犠牲にする覚悟でこの女性と向き合っておられました。このようにイエス様が人と関わられる動機は、その人のために十字架を負うほどの愛でした。その犠牲的な愛が人に伝わるとき、その人の頑なな心が砕かれ、十字架の福音を受け入れる心が与えられるのです。それが福音の力です。

イエス様は「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」とおっしゃいました。では、私たちにとって十字架を負うとはどういうことでしょうか。イエス様は、私たちのために十字架を負う義務も責任もありませんでした。

ただ、私たちを愛する一心でそうされました。それによって私たちに祝福がもたらされたのです。同じように、私たちが誰かのためにそれをする義務も責任もなくても、その人に対するイエス様の愛を思う時に、「イエス様、私があなたに代わって致します」という思いになるのです。

イエス様ならきっとそうなさるだろうと思う事をその人にする。それが十字架を負う者の生き方であり、福音にはそれをさせる力があるのです。

 

 



ホロコースト生存者

証し:モーリス・プライス

 

「惨めな境遇だろうが、どんなに気分が落ち込んでも、たとえどんなにひどい日でも、それに対処できないと落ち込まない事だ。戦いなさい!そこから、あなたは逃れることが出来る」

モーリス・プライスは、1927年4月1日にポーランドのウオルブロムのモニク・ブラウスに誕生した。父イタク(イサク)プライス、母はマネラといい、3人の姉と2人の兄の末子として育った。

父の職業は農夫から牛を買い入れ、それを肉屋に売る仲買人の仕事をしていた。父は馬と馬車を持っていたので、その当時としては中流家庭に属していた。モーリスの祖父母たちも一緒に住んでいた。ウオルブロムは、小さいながらもユダヤ人社会に適した大きさの場所だった。

彼がちょうど12歳になった時、人生に突然の変化が起こった。1939年ドイツがポーランドを占領した後、反ユダヤ的(ユダヤ人に対する偏見と憎悪)法律を強いられる事になった。ユダヤ人は地域の学校で学ぶ事、劇場、映画館、公園に行く事、スポーツなどをポーランド人と一緒にする事や交わりが禁じられた。時を同じくしてモーリスの兄達は、昼間は強制労働に駆り立てられた。

1942年の夏、モーリスの家族は「立ち退き命令書」を受け取った。2人の姉達は隠れる事に決めた。父の友人の農夫が家を訪れて、自分の身の危険をもいとわず、姉たちを助けて隠す事を承諾してくれた。

モーリスとその他の家族は、それぞれの移転先が決められた。父が強制労働に連行された間に、母、姉、祖母はばらばらになり、強制収容所とよばれていたどこかの場所に送られてしまった。モーリスが15歳になった時、兄達と共にポーランドのクラコウ郊外にある強制労働所に別々に送られた。そこで鉄道を作る労働を強いられた。

モーリスが働いている時にウオルブロム地域に、最終決議が下されるとの噂を耳にしたので、作業所を抜け出して村に戻り、実家に戻っていた姉達と従兄弟にウオルブロムから逃れるように伝えた。

先にかくまってくれた農夫の家に戻ったが、農夫が恐れたために、 1週間だけの約束で隠れる事ができた。選択がない現実に直面し、彼らはクラコウのゲットー(高い塀で囲んだ閉鎖した場所でユダヤ人を監禁殺害した)に戻った。

モーリスと姉達はゲットーの近くで働いたが、後に閉鎖され、再度家族は散り散りになった。1943年の1月から3月まで、モーリスのみがゲットーに取り残されてしまった。

3月になり、ゲットーが縮小に伴い、死の収容所と呼ばれたアウシュビッツに移動させられた。アウシュビッツに到着した時、彼は逃げる決心をして、トラックから飛び降りて、他の若い囚人達の群れに紛れ込んだ。もしトラックにそのまま乗っていたら、多分ガス室で死んでいたに違いない。

1944年10月ソ連軍が近づきつつあった。モーリスは家畜車に乗せられて、アウシュビッツからダッハウの収容所に移動させられた。

1945年4月アメリカ軍が収容所に近づいている事を知ったナチスは囚人達の再移動のために死の行進(長距離を徒歩で移動させられた)を編成した。モーリスは死の行進を何とか生き延びて、5月1日にアメリカ軍により(442部隊含む)救出された。

後にモーリスはドイツのミュンヘン近くの農家に住み、その後避難民収容所を訪れ家族の安否を調べた。そして兄が生存している事を見つけ出した。後にポーランドに戻り、生存した2人の姉達と再会できた。

1949年4人はアメリカに移住した。ニューオリンズそしてテネシー州のナッシュビルに住み、モーリスはアメリカ軍に入隊した。後にカリフォルニア州に移住して1961年現在の妻、シャーリーと結婚した。マイケル、デブラ、デビッドの3人の子供達に恵まれたが、悲しい事にデビッドは神経性疾患の一つのAtaxia (運動失調症) を患い、2001年12月に33歳の若さで召天した。

モーリスは現在92歳、妻シャーリーと共に長生きして平和でしあわせな生活が出来た事を神に深く感謝しつつ、ロスの都心にあるSimon Wiesenthal Center(ユダヤ人の虐殺の歴史を展示している博物館) に時々出向いて証を語っている。

Simon Wiesenthal Center の資料より

 




 

Desert Wind  10月号・ニュース

  10月5日(土)「日本での引退生活・無料セミナー開催」会場:LVJCC、1時開場、1時半~4時 / 参加者要予約 TEL. 562-380-2202、hikkoshi_lax@nittsu.com

106日(日)の2:00PMより体操教室が行われます。

1013日(日)の1:30PMより役員会が持たれます。

1020日(日)は希望の収穫の山本真美子先生をお迎えしてメッセージとホロコーストに関するDVDを見せてくださいます。ポットラックで歓迎致しましょう。

◆  10月27日(日)の礼拝後、婦人会の例会が持たれます。

◆  1027日(日)の2:00PMよりMedicareRetirement対策セミナーが持たれます。



編集室・気まま便り

日本人の挨拶に「がんばってね」という言葉がある。長年励ます言葉として使われてきたが、逆にプレッシャーを与えてしまう結果となるので十分相手の状況を見極めた上で使うようにとお互いに注意しあうようになった。例えば病気療養中の人や不慮の事故や災害にあった人達にはある時期から禁句とされてきた。

それに比べてアメリカでは「焦らずマイペースで」とか。「気を付けてね」「どんな辛い事にも終わりはあるから希望を持っていきましょう」という言葉を掛け合う。

決して相手の失敗をせめたり、先祖のたたりとか、天罰がくだったというような裁くような言葉も日常生活の夫婦間、家族間においてもほとんど言わない。文化と習慣と宗教の違いなのかと深い配慮に感心させられた。

MN



 

LVJCC キリスト教 Q&A

Qイエス・キリストだけが救いの道だと言われても、福音を聞いたことのない人はどうなりますか? 福音を聞く機会がなかった人が地獄に行くというのはずいぶん不公平ではありませんか?

 

大変いい質問ですね。聖書には、神は公平な神であると書かれています。ですから、神がなさることは何でも正しく公平です。つまり福音を一度も聞いたことのない人についても、神は、たとえそれが何であれ、やはり正しいことをされるということです。

しかし、あなたに関しては、あなたは既に福音を聞かれた筈なので、神は、あなたがその福音にどう応じるかに従って、あなたを裁かれるでしょう。神は、あなたが悔い改めて、罪から離れ、ご自分のもとに来るようにと招いておられます。

さて、ローマ書2:11-16には、神の律法を一度も聞いたことのない人について、彼らの心に記された律法に従ってどのように裁かれるかが書かれています。

まず12節で、「律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。」と言われているように、福音を聞いたことのない人は、福音を信じなかったからではなく、自分に与えられた神の啓示に正しい応答をせず、それを拒否したから裁かれるのであって、彼らには弁解の余地がないのです。

また15節に、彼らの心に記された律法という表現がありますが、それは善悪に関する知識のことです。

おそらく、神に関する適切な知識のない人に対する神の裁きは、「そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである(15b)」とあるように、彼ら自身の良心にしたがってなされることでしょう。

私が知っている明らかな事実は、神は常に正しい事をされるということと、既に福音を聞いたあなたの罪が赦される方法は、唯一イエス・キリストを通してであるということです。

さらにローマ書1:18-23を見ると、すべての人が神の存在を認識できるように、自然界を通し、歴史を通して神の啓示が与えられていると書かれています。

つまり、神の永遠の力と神性は、被造物の世界を通して明らかにされているので、人間には神の存在など知らなかったという弁解の余地はなく、たとえキリストの福音を聞かなくても、その与えられた啓示に対する信仰の応答がその人に救いをもたらすということです。

また申命記4:29を見ると、もしある人が自然界に現わされた神の啓示に応答して神を求めるなら、神はその人を福音の真理に導かれるということが書かれています。

つまり、時間を越えてすべてを見ておられる神には、福音を聞かないで死んだ人は、福音を聞いても信じなかった人であることが分かっておられたとも言えるかも知れません。

しかし、私たちは、福音を聞かずに死んだ人のことを心配するより、今生きている人のことを心配すべきです。

神は公平な方なので、私たちの手の届かない事については、必ず公平な方法ですべての事を導かれます。ですから私たちは、救いをもたらす明確な神の啓示であるキリストの福音を大胆に語り続ける者でありたいと思います。

 

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