ラスベガス日本人教会
DesertWind・ニュースレター May, 2019
『わが助けは、どこから来る?』(詩篇121篇)
詩篇121篇は「都もうでの歌」で、神の守りということが高ら かに賛美され、確信に満ちて語られています。
ユダヤ人たちは 毎年、至る所から神様を礼拝するためにエルサレムに行きまし た。彼らは長い旅を続けてエルサレムの丘の麓までたどり着い たとき、この歌を歌ったのです。
この歌は、「わたしは山に向かって目をあげる」という言葉で 始まります。この山は、現実的にはエルサレムの丘を指します が、その現実的な山と同時に、人生の山、困難の山を意味 しています。私たちは、人生において、様々な困難の山を越 えていきます。時には、超えられそうにない山に出くわすことも あります。
しかし、この詩篇の記者は、自分の数々の信仰体 験を通して、「私の助けは、天と地を造られた主から来る」と 力強く信仰告白をしているのです。
1. わが助けは、天と地を造られた主から来る
私たちを助けて下さる方は、天と地を造られた全能の神様 です。私たち人間は、つい目に見えるものに頼りがちですが、 目に見えるものは頼りになりません。自分に頼っては行き詰ま り、人に頼っては失望し、お金に頼っては貪欲になるだけです。
もちろん、自分で頑張ることは大切なことです。一生懸命に 学び、一生懸命に働き、自分に出来ることを精一杯にするこ とはとても大切なことです。また、人の力を借りることも必要な ことがしばしばあります。人を助け、人に助けられるということも 本当に素晴らしいことです。
しかし、私たちが肝に銘じておかなければならないことは、目 に見えるものには限界があるということです。つまり、人生に は、自分の手に負えないこと、また人の手にも負えないこと、そして、お金の力も役に立たないことがあるということです。
そんな 現実の中で、私たちが行き詰まったとき、私たちの助けになるのは、天と地を造られた全能の神様だけなのです。
2. わが助けは、神の愛から来る
神様は愛の神様ですから、私たちを愛し、私たちを守り、私 たちを祝福して下さいます。
親は子どもを愛していますから、い つも子どもを顧みて、子供を守り、子供が幸せになるように気 を配ります。ですから、子供が親の愛の中にあるなら、子供は 守られ、助けを得ることができるのです。
同様に、私たちも神様の愛の中にあるなら、私たちは守ら れ、助けを得ることができます。それでは、どうやって私たちは、 目に見えない神様の愛を感じ、神様の助けを体験できるのでしょうか。
ヨハネは、「神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたした ちが互に愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が わたしたちのうちに全うされるのである」と言いました。
神様は 愛でいらっしゃいますから、愛があるところに神様はおられま す。愛のない所には神様はおられません。つまり、私たちは、 神の愛に生きている人々を通して神様の助けをいただくことが できるのです。
3. 主はあなたの歩みを守られる
3節を見ると、「あなたを守る方は、まどろむこともない」と言 われています。これは、あの出エジプトの夜、主がイスラエルの 民をエジプトの国から連れ出すために寝ずの番をされた事実を背景に語られた言葉だと思われます。
つまり主は、彼らが奴 隷の地エジプトから出て、約束の地カナンに入る全工程を、ま どろむことなく守られたのです。
私たちは、イエス・キリストの救いによって、滅びの人生から 出て、永遠の命に生きる人生に入れられました。と同時に、 私たちは日々、古い自分から出て、新しい本当の自分に入る、という歩みがあります。
罪と滅びの自分から出て、赦されて 生かされていく人生に入る。その全行程に、神様の守りと導き がある、ということを、この詩篇は教えているのです。
LVJCC 牧師:鶴田健次
兄の救い(下) 証し: ケラー薫
「お兄さん、お兄さんが天国を手に入れる為の祈りを するから、お兄さんも一緒に祈って、最後にアーメンと言っ て」と言うと、すぐに「アーメン」と言いました。
私は更に「今 から祈るからそしたら最後に「アーメン」と言って」と言うとう なずきました。私も祈り心を持って、信仰告白をゆっくりと 兄の様子を見ながら読みました。
兄は静かに聴いていました。「神様、私の罪をゆるして下さい。私は、今、イエス様 を私の救い主として信じます。天国の恵みを感謝します。
イエス様の御名によって祈ります。アーメン」そして続いて 兄も「アーメン」と祈りました。私はお兄さんに「イエス様を 信じる事ができてよかったね」と言うと、お兄さんは「え?も う信じてたよ」と言ったので、私はびっくりして「そうだったん だ、もう信じていたんだね」と言うと、「そうだよ」と言いました。
その後、「もう安心だね、天国に一緒にいけるね。」と 言うと、うなずいていました。やはり以前のお兄さんとは違 いました。
そして、「天国には涙も痛みも悲しみもないんだ よ」と言うと、「そんな事あるかな?」と言われたので、「それ は本当だよ。もうじきわかるよ。将来が来ればわかるよ。 天国はそうなんだよ」と言うとうなずいていました。その後も 私が帰るまでも痛みが続いいていました。
その中でお兄さ んは「もう帰りたい」と言いました。お兄さんは天のふるさと に帰りたいと願っているのかもしれなと思いました。しかし、 全てにおいてもう安心です。天の御国がお兄さんのものに もなりました。救われました。
今、兄の救いの日の事を思い出しても、本当に不 思議です。今、お話しましたとおり、その日、お兄さんに話 し始めた言葉は、信仰告白の言葉でした。
それ以外には 何も前置きの会話をしていませんでしたが、兄の霊は救 われる準備ができていました。私は不安な気持ちを持ち ながら、兄の所へ行きましたが、主は全てを整えておられ ました。また、兄の霊が救いを望んでいたのだと思います。
7月に新川先生が訪問された時は兄の心はかたくなでし た。しかし、信仰点で、告白までの 1 ヶ月間のどこかの時 点で、主が兄の霊的な部分に触れてくださり、兄はすでに 神様と出会っていたのではないかと思います。
そして、兄は神を信じたので、天国に自分が行ける事を確信したかったの だと思います。信仰告白の後に平安が与えられた兄を見てい て、思ったことです。
神は目で見えませんが、生きておられま す。だから、兄は神を信じる事ができたのです。すべて神が成 してくださいました。
兄の救いの 4 ヶ月後の 12 月に私は再び兄を訪問しまし た。その頃、主治医からは春までは難しいでしょう。と、言われ ていましたので、この訪問が兄と会える最後になると思い、お別れを伝えに行きました。
ほとんど口からの食事を取る事ができなくなっていた兄はとても 痩せていました。静かな時間を共にし、兄に【お兄さん天国で また会いましょう】と言うと兄はうなずました。そして、兄の手を 握り神に祈りました。【これから先、どのような時も私たちと共 にいてくださり、平安を与えて下さい】と祈りました。
年が明けて 2012 年 2 月 5 日。兄の死の知らせが突 然届きました。危篤にもならずに、それは突然でした。主治医 が兄のベッドを見舞い、後 1 ヶ月は大丈夫でしょう。と、言わ れた数分後に天に召されたのです。本当に人の命は神様の 御手の中にある事を思わずにいられません。
兄が病気になった理由も、46 歳で天国に行く人生だった 理由も私にはわかりません。しかし、私の信じる主イエス様は 兄を愛しており、その愛は、ご自身の命を兄に与える愛です。 だから、私は全てをご存知の神が、兄の生も死も支配してくだ さり、最善をなしてくださったと信じています。
神様は兄にこの 世で受けれるもっとも大切なもの“永遠の命”を与えてください ました。私は神様が兄の人生の上に、本当に素晴らしいご計 画を持っていて下さった事を心から感謝しています。また、兄 の救いを通して、私の信仰生活に大きな力を与えてくださいました。
この力は私の信仰生涯を支えてくれるものとなると思 います。 最後になりますが、兄の為に長きにわたり、共にお祈りをしてく ださいました皆様に心から感謝を申し上げます。本当に尊き お祈りをありがとうございました。
Desert Wind 5月号・ニュース
◆ 5月5日(日)2:30PM より背骨コンディショニン グの体操教室が持たれます。(無料)どなたでもご 参加ください。
◆ 5月11日(土)12:30PM より当教会にて日通主 催の帰国引っ越しセミナーが持たれます。
◆ 5月27日(月)9:00AM より Boulder City Veterans Memorial Cemetery (1900 Buchanan Blvd. Boulder City, NV 89005)にてメモリアルサービスが 持たれます。
◆ 5月25日(土)2:00PM より末広満里奈姉と Perry Starkey 兄の結婚式が当教会にて持たれます。 おめでとう!
◆ りえ子 Mendoza 姉、國分康二兄が日本訪問中です。 旅の安全をお祈りください。
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 主を信じるクリスチャンなのに罪を犯し続けている自分がいる・・・。
A この内なる葛藤はすべてのクリスチャンが 経験していることだと思います。
あの偉大な使徒 パウロもその葛藤をローマ人への手紙の中で以下 のように告白しています。このパウロの告白を読む と、この内なる葛藤は当然のことだと理解できるの ではないでしょうか。
「15 私には、自分のしていることがわかりません。 私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、 自分が憎むことを行っているからです。16 もし自 分のしたくないことをしているとすれば、律法は良 いものであることを認めているわけです。17 ですか ら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の うちに住みついている罪なのです。18 私は、私の うち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいない のを知っています。
私には善をしたいという願いが いつもあるのに、それを実行することがないからで す。19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで 、かえって、したくない悪を行っています。」 (ローマ7:15-19)パウロは15節の終わりに、「自分が憎むことを 行っているからです」と書いていますが、それは憎む べきことであると知りながら、その中にがんじがらめ になり、そこから這い上がることができない状態を 表しています。
また、次の16節で、「律法は良いものである」 と言っていますが、これこそ新しく生まれた人とそう でない人を見分けるリトマス試験紙です。つまり、 それはどういうことかというと、生まれながらの人は 律法を認めようともしません。しかし新しく生まれた 人は、律法を認め、神の御心に従って生きたいと 願います。ところが、その通りにできない自分に罪 意識を感じて苦しむのです。
次に17節において、自分の中に二人の自分 がいることを発見したパウロは、自分にしてはいけ ないことをさせているのは自分の中に住みついてい る罪であると言っています。そして18、19節では、 自分の中には善を行ないたいという自分がいるの にそれを実行できないばかりか、してはいけないと 分かってる悪をしてしまう現実があるというのです。
では、キリストにあって罪が贖われ、罪の束縛 から解放されたクリスチャンが、なぜこうしてなおも 罪を犯し続けるのでしょうか。その理由は、私たち の肉体がまだ贖われていないからです。つまり私 たちの贖われた魂は、今なお罪の性質を帯びた 肉体を宿としているために、神の御心を行ないた いと思いながらも罪を犯してしまうのです。しかし、 その魂が贖われている者は、たとえ罪を犯すこと があっても、もはや以前のように平気で罪を犯し 続けることはできません。
罪を犯し続けることに罪 責感を覚え、苦しみます。それは裏を返せば、その人がクリスチャンであることの証拠でもあるのです。しかしキリストの再臨のとき、まずキリストにあっ て死んだ者たちが栄光の体によみがえり、天に挙 げられます。次に生きているクリスチャンたちが死を 経験しないで一瞬のうちに栄光の体に変えられ、 天に挙げられます。これが贖いの完成です。この 時、すべてのクリスチャンは罪のない、また永遠に 朽ちない栄光の体をいただいて、もはや罪を犯さ なくなるのです。
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