DesertWind・ニュースレター July, 2026
『本物の信仰とは何か』(マタイ7:21-23)
LVJCC 牧師:鶴田健次
イエス様は山上の説教の最後で、私たちの心を深く揺さぶる言葉を語られました。「主よ、主よと呼ぶ者が皆、天の御国に入るのではない」というのです。この言葉に驚かされるのは、その対象が神を知らない人ではなく、信仰を持っているように見える人々だからです。彼らは奉仕をし、預言をし、奇跡さえ行っていました。しかし主は「わたしはあなたがたを知らない」と言われたのです。
現代でも教会に通い、奉仕をし、聖書を学ぶことはできます。しかし最も大切なのは、「本当に主を知っているか」ということです。神様は活動の量や肩書きではなく、心をご覧になります。
パリサイ人たちは外側は立派でしたが、心は神から遠く離れていました。だから今日、私たちも自分自身に問いかけたいのです。「私は本当に主を愛しているだろうか」「主について知っているだけで、主ご自身を知らないままではないだろうか」と。主は形式的な宗教ではなく、生けるキリストとの真実な交わりへ私たちを招いておられるのです。
1.口先だけの信仰では救われない
イエス様は「主よ、主よ」と言う者が皆救われるのではないと言われました。問題は言葉の背後にある心です。口では主を信じていると言っても、心が神から離れていることがあるのです。
パリサイ人たちは聖書を学び、祈り、断食し、献金もしていました。しかし彼らの信仰は神との関係ではなく、人に見せる宗教になっていました。そのためイエス様は厳しく彼らを戒められたのです。
私たちにも同じことが言えます。「長年教会に来ているから大丈夫」と安心してしまうことがあります。しかし主が問われるのは、「あなたは本当にわたしを愛しているか」ということです。
本物の信仰とは、「私は立派です」という信仰ではありません。神様は完璧な人を求めているのではなく、砕かれた心と悔い改める心を喜ばれます。だからもし自分の形式化した信仰に気づかされたなら、それは主が本当の交わりへと招いておられる恵みなのです。
2.本当の献身は御心に従うこと
イエス様は「父のみこころを行う者が入るのです」と言われました。これは行いによる救いを教えているのではありません。救いは恵みによるものです。しかし本当に救われた人の中には、「主を愛するから従いたい」という願いが生まれます。
愛のない従順は重荷ですが、愛から生まれる従順は献身です。神様は単なる宗教活動ではなく、愛に基づく従順を求めておられるのです。
旧約聖書のサウル王は宗教的には熱心でしたが、神の言葉に従いませんでした。そのとき預言者サムエルは「聞き従うことはいけにえにまさる」と語りました。神様が見ておられるのは大きな働きではなく、従う心です。
本当の献身とは、特別なことをすることだけではありません。苦しい中でも正直に生きること、赦しにくい人を赦そうとすること、誰も見ていなくても誠実に歩むことです。人に評価されるかではなく、主が喜ばれるかを求めて生きることで す。そのような日々の従順の中に、本物の信仰が表されるのです。
3.主は「あなたを知っている」と言われるか
イエス様は最後に、「わたしはあなたがたを知らない」と言われました。この言葉こそ今日の御言葉の核心です。キリスト教とは単なる宗教ではなく、イエス・キリストとの人格的な関係だからです。
この人たちは自分では救われていると思っていました。しかし主との生ける関係がありませんでした。活動はあっても、愛がありませんでした。知識はあっても、主との交わりがありませんでした。主が見ておられるのは、どれほど奉仕したかではなく、「あなたはわたしを愛しているか」ということです。復活の主がペテロに三度尋ねられたのも、「あなたはわたしを愛するか」でした。
私たちも今日、自分自身を吟味したいと思います。私は本当に主と共に歩んでいるだろうか。祈りの中で主を求めているだろうか。人の評価ではなく、主を愛して従っているだろうか。
幸いなことに、主は私たちを退けるためではなく、招くためにこの御言葉を語っておられます。本物の信仰とは、毎日「主よ、あなたなしには生きられません」と主を求め続けることです。そして主を心から求める者を、主は決して拒まれないのです。
『全てを備えて下さる神様』
ガーデナー・真子
私の出身は岐阜県高山市です。飛騨高山という山あいの歴史ある町で、実家は屋根の板金業を営んでいました。私は4人きょうだいの2番目で、姉、妹、弟がいま
す。
小さい頃は、両親と祖母を含めた7人家族で、とても賑やかに暮らしていました。 父は屋根の加工や取り付け、修理などを行っていました。母は家事や育児をしながら経理を担当し、父を支えていました。景気や天候に左右される仕事だったので、自営業を続けていくことの大変さを、子供ながらに感じていました。
高校卒業後は漢方薬販売会社で働く傍ら、英会話教室にも通っていました。次第に「もっと英語を学びたい」という思いが強くなり、1996年3月、南カリフルニアにあるUCアーバインのESLに留学しました。渡米して2か月ほど経った頃、母が洗濯物を干している最中に脳出血を起こし、そのまま帰らぬ人となりました。私はすぐに一時帰国しましたが、家のあちこちに母が生活していた痕跡があるのに、母自身はもう冷たくなっている。
その現実を前にした時の悲しみは、「ショック」という言葉だけでは表せないものでした。母は54歳でした。病気の予兆も全くなかったため、家族みんなが再び日常を取り戻すまでには長い時間がかかりました。 亡き母の後、名古屋で働いていた姉が仕事を辞めて実家に戻り、母の代わりをしてくれることになったため、私は再びアメリカへ戻ることができました。
ESL終了後は、さらに学位を取りたいと思うようになり、コミュニティーカレッジ、州立大学へと進学しました。勉強とアルバイトに追われる毎日でしたが、その頃に今の夫ヒューと出会い、大学卒業後結婚しました。
結婚後はニューヨークでしばらく暮らした後、ラスベガスに引っ越した時、義母に誘われて、韓国系の教会へ行くことがありました。しかし英語のメッセージではもう一つ心に響かず、そんな中、毎日のように夫と喧嘩をして、神様にすがりたい気持で、「日本語でもっと聖書と教会について知りたい」と思うようになり、2008年夏、初めて、ラスベガス日本人教会を訪れて、鶴田先生のメッセージを日本語で聞いた時、「全部わかる」と心から感動し、すぐに入門クラスを受けることにしました。
それまで点でしか理解できていなかったことが、一つにつながっていきました。モヤモヤしていた視界が一気に開けるような感覚があり、自然に「洗礼を受けたい」と思うようになりました。同年10月に鶴田牧師により洗礼を受けました。
以前の私は、「良い行いをしなければ天国へ行けない」「悪いことをすれば地獄へ行く」という考えを持っていましたが、クリスチャンになってからは、「自分の罪はイエス様によって赦されていること、そして自分の人生は神様の導きの中にあること」を信じられるようになりました。私は時々、「神様が運転してくださる車に乗せられているような感覚」と表現しています。
人生を思い返すと、神様はいつも最善のご計画を用意してくださいました。日本で三つ子を産む前には、産婦人科でナースをしている妹が病院を紹介して出産準備を整えてくれました。三つ子を産んだ後は、3人同時にタオルを使ってミルクをあげるコツも教えてくれました。また、ドバイに移住した時には、神様が住み込みのナニーさんを与えてくださり、大変な子育てを乗り越えることができました。そして子どもたちが幼稚園に通う頃には、神様はイスラム教中心の地に、信仰深いクリスチャンのナニーさんを与えてくださり、彼女の存在を通して、子どもたちも聖書や神様に親しむようになりました。
これからも親子共々、聖書を学び続け、神様が共にいてくださることを信じながら歩んでいきたいと願っています。私にとって大切な聖句は、義母から教えていただいた詩篇23篇です。このみことばを読むたびに、義母のことを偲びます。
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」「たとい、死の陰の谷を歩むことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」詩篇23篇1節、4節
編集室・気まま便り
最近NHKのドラマで「マグダラ屋のマリア」というのがあった。北海道札幌の南、寿都(すつ)町という、雪深く寂しい最果ての海辺が舞台だった。
人生に疲れたり、失敗したりした人達が自殺しようとして訪れるところに、マグダラ屋という食堂があった。そこで働く俗称マリアの作る温かい食事と笑顔に身も心も温められ、町の人々の人情に触れ、新しく生きようという勇気が与えられるという話。
聖書に出てくる、シモン、マルコ、ヨハネという名前が出てくるが、「業と贖罪と再生」がテーマで深く考えさせられたドラマだった。 「そのままでよい」と手を広げて、私達の事を受けてとめて下さる神様のお姿が浮かんできました。 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 福音を聞いたことのない人はどうなるのですか?
A この質問は、多くの人が一度は抱く疑問です。これに対して、聖書はすべての詳細
を説明しているわけではありません。しかし、私たちが確信できる大切な原則を教えています。
第一に、神は完全に公平で正しいお方であるということです。 聖書は、「神にはえこひいきがない」(ロマ2:11)と教えています。ですから、福音を聞く機会のなかった人に対しても、神は公平な裁きをなさいます。神は一人ひとりの置かれた状況、与えられた光、知識、機会のすべてをご存じで、それに基づいて完全に正しく裁かれます。
しかし、あなたについて言えば、もし既に福音を聞いているなら、その責任はあなた自身にあります。 神はあなたに救いの道を示してくださいました。あなたがその招きにどう応答するかが問われています。神は今も、悔い改めてイエス・キリストを信じ、ご自分のもとに来るよう招いておられます。
第二に、ローマ2章11~16節は、律法や福音を知らない人について語っています。12節には、「律法なしに罪を犯した者は、律法なしに滅び」とあります。つまり、彼らが裁かれる理由は「福音を聞かなかったから」ではなく、自分に与えられていた神の啓示に誠実に応答しなかったからです。15節には、「律法の要求する事柄が彼らの心に記されている」とあり、神は人間の良心にも善悪を判断する感覚を与えておられます。そのため、人は「何も知らなかった」と完全に弁解することはできません。神は、その人の良心と、それに対する応答をも含めて、公正に裁かれるのです。
第三に、ローマ1章18~23節は、神が自然界を通してご自身を現しておられることを教えています。 美しい自然、宇宙の秩序、生命の神秘などを通して、神の永遠の力と神性は明らかにされています。これを一般啓示と呼びます。人はその啓示を通して創造主の存在を知ることができます。それにもかかわらず、人は神を神としてあがめず、自分勝手な道を選ぶため、弁解の余地はないと聖書は語ります。
さらに、申命記4章29節には、「心を尽くし、いのちを尽くして神を求めるなら、神を見いだす」と約束されています。 神を真実に求める人を、神がそのまま放っておかれることはありません。実際、聖書には、異邦人であったコルネリオが神を求めた結果、神はペテロを遣わして福音を聞かせられたことが記されています(使徒10章)。神は、ご自分を真実に求める人を、必要な時に必要な方法で福音へと導くことがおできになるのです。
ある人は、「福音を聞かずに亡くなった人は、もし聞いても信じなかった人だったのではないか」と考えます。それは可能性の一つではありますが、聖書が明確に教えていることではありません。私たちは推測を断定するのではなく、「全地をさばく方は公義を行われる」という神を信頼すべきです。
最後に忘れてはならないことがあります。救いは最終的にはイエス・キリストによってのみ与えられます。 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに来ることはできません」(ヨハネ14:6)。また、「ほかのだれによっても救いはありません」(使徒4:12)と聖書ははっきり教えています。
私たちは福音を聞かずに亡くなった人について思い煩うよりも、今生きていて福音を聞くことのできる人々に救いの知らせを届けることに心を注ぐべきです。神は私たちにはできないことを完全な知恵と公平さをもって行われます。しかし、私たちには「福音を宣べ伝えなさい」という使命が与えられています。その使命に忠実に歩み、イエス・キリストによる救いの福音を大胆に語り続けたいものです。
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