DesertWind・ニュースレター November, 2025
『神の愛に応えて生きる』(ローマ書5:6-8)
LVJCC 牧師:鶴田健次
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はご自身の愛を明らかにしておられます。」 (ローマ5:8)
この短い御言葉は、聖書全体の核心、つまり福音の中心を語っています。神の愛は、私たちが善い行いをしたから、あるいは信仰深いから注がれたのではありません。むしろ、神に背を向け、罪の中にあった時に既に注がれていたのです。ここに人間の理解をはるかに超えた「無条件の愛」の本質があります。
現代社会では「愛」という言葉が多く使われますが、その多くは条件付きです。「優しいから」「役に立つから」愛するという愛は、条件が崩れれば容易に冷え、憎しみに変わることさえあります。結婚の破綻、親子の断絶、友情の裏切り――それらは人間の愛の限界を示しています。けれども神の愛は違います。それは犠牲を伴い、永遠に変わらない愛です。その最も確かな現れが、イエス・キリストの十字架です。
① 罪人のために死なれた愛
十字架の愛は「罪人のために死なれた愛」です。ローマ5:8は、神の愛がどのように示されたかを明確に語ります。人間の愛は多くの場合、条件つきです。相手が自分を好いてくれるから、良い人だから愛する。しかし敵のために命を捨てる人はほとんどいません。けれども神は、私たちがまだ罪の中にいた時、すでに愛しておられました。
聖書は「義人はいない。一人もいない」と言います。小さな嘘も、心の中の憎しみも、神の前では罪です。にもかかわらず、神はそんな私たちを愛し、御子イエスを遣わされました。キリストは罪のない神の御子でありながら、罪人のために自ら十字架に向かわれました。
それは確実に死ぬと分かっていながら選ばれた道でした。人間の愛が条件付きであるのに対し、神の愛は無条件です。この愛を知るとき、私たちは自分の価値が変わることを覚えます。「私はこんな自分でも愛されている。」この確信が、私たちを赦しと希望へと導くのです。
② 犠牲を伴う愛
神の愛は「犠牲を伴う愛」です。愛とは単なる感情ではなく、行動を伴うものです。聖書は言います。「人が自分の友のために命を捨てること、これより大きな愛はない。」(ヨハネ15:13) 神はその愛を、御子イエスのいのちを犠牲にすることで示されました。
アウシュビッツ収容所で起きた出来事は、その愛を思い起こさせます。ある囚人が脱走したとき、十人の囚人が見せしめとして餓死刑に選ばれました。その中の一人が「私は妻と子どもがいる!」と泣き叫ぶと、マキシミリアノ・コルベ神父が進み出て、「私が代わりになります」と申し出ました。彼は二週間、他の囚人を励まし、祈り、賛美しながら死を迎えました。彼の犠牲によって、その男性は命を救われ、生涯その愛を証ししました。
しかしイエス様の十字架の愛は、それを超えるものです。コルベ神父は一人を救いましたが、イエス様はすべての人のために死なれました。しかもイエス様は完全に罪のない方でした。神がご自分の独り子を与えられたほどに私たちを愛された――これが十字架の意味です。この愛を知るとき、私たちは「この方のために生きたい」と願わずにいられません。
③ 応答を迫る愛
十字架の愛は「応答を迫る愛」です。神はそのひとり子を与えるほどの愛で私たちを救われました。その愛を知った者は、もはや以前と同じ生き方を続けることはできません。
アメリカ南北戦争後、あるクリスチャン女性が奴隷市場で一人の黒人女性を買い取り、「あなたを自由にするために買ったのです」と告げました。解放された女性は涙を流して叫びました。「私はあなたに一生仕えます!」――これは私たちの姿です。
イエス様は十字架の血という代価で私たちを買い取り、罪と死の束縛から自由にされました。その自由は「放縦」ではなく、「愛に仕える自由」です。救われた者は義務ではなく、感謝の心で進んで従うのです。家庭で互いに支え合い、職場で誠実に歩み、教会で賜物をもって仕える。それが十字架の愛への応答です。
もし十字架の愛がなければ、私たちは自己中心のまま生きるしかありません。しかし赦された者は、「主よ、私はあなたのものです」と告白し、新しい歩みを始めます。十字架の愛は、私たちに「感動で終わるか、応答して生きるか」という選択を迫るのです。
『SCCRリトリートに参加して』
証し:中島 マリ子
去る8月19日から21日までカリフォルニア州エンシノで行われたリトリートに参加してきました。私にとっては2回目です。緑の木々に囲まれたカソリック教会の集会場と周囲にある宿泊施設はどこか親しみのある優しい雰囲気のところです。参加した後、このように日常生活から完全に離れて、神様のことだけを考えて過ごすひと時は年に1-2回は必要だと思いました。
今年の講師は新しく主事となられた堀田先生でした。コロサイ人への手紙を4回に分けてわかりやすく解説してくださいました。又、テキストを作成して配って下さったので、筆記する必要がなく講義に集中できた事も感謝でした。超教派のリトリートなので、広範囲に渡って色々な教団に属する教会の方達が集まっていました。遠くニューヨークから4人の参加者の他にサンデイエゴとロス近辺の教会に通う人々合計50人でした。
堀田先生が新しく定められたSCCRの理念、
「3つのW」
1. Word:みことばの学びを通して、神のみこころについての知識に満たされる。
2. Worship: 一人ひとりが主の麗しさに目を注ぎ主にむかって心から賛美するようになる。
3. Walk: 一人ひとりが主にふさわしく、主に喜ばれる歩みを志し良いわざの内に実を結ぶ。
日常生活において上記の3つの事を実践しつつ歩む事はクリスチャンとしての大事なポイントと改めて思いました。
コロサイ人への手紙はパウロの獄中書簡の一つですが、コロサイの教会には当時、律法主義、グノーシス主義(紀元1-2世紀頃に起こった哲学的思想。特定の知識を持つと救われる。神以外のものが世界を創造し、イエスの受肉を否定している。禁欲的、密教的)、無律法主義などの偽の教えが入ってきていたのに対するパウロの反論です。信者の思いを再びキリストに向けるための励ましでした。主テーマは「教会のかしらであるキリスト」です。
コロサイ教会に対するパウロの祈りは、神のみ心を知る事は、神のご計画の全貌を知る事であり、それは人間的努力によって得るものではなく、御霊によって与えられる、霊的な知恵と理解力による。神のみ心がわかると、良いわざに励むようになる。そして正しい知識に基づく経験を通して、神を体験的に知るようになる。そしてどんなことにも忍耐し、寛容でいられるようになる。
それは苦しみの中で「我慢」することではなく、いかなる状況下においても、神によって強くされること。神の栄光の支配に入れられる時、人は力を得る事ができる。そして、父なる神に、喜びをもって感謝をささげることが出来るようになる。
3章12節から13節「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」
私達は神様に選ばれた者、聖なる者、愛されいている者。ゆえに、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着るのです。これらは、自己中心の古い性質とは真逆の性質です。また、これは、イエス・キリストのご性質です。そして不完全な者同士の交わりにおいては、不満を抱くこともありますが、不満よりも、赦しを優先すべきです。それは、信者は、イエス・キリストに赦された存在だからです。
今回のリトリートで学んだことは「果たして私はイエス様を信じてから、古い自分を脱ぎ捨てて、新しく生まれ変わったのだろうか」という自問自答でした。日常生活において、なんらかの変化はあったのかと思い返してみて、確かに必要以上に自分を卑下することはなくなり、心配もしなくなったが、果たして、このみ言葉のような愛の心で自分を愛し、命を与えられた事を神様に感謝しているかどうか。それだけでなく、周囲の人々の良いところをみつけ、励まし合って、深い愛と配慮を持って接しているかと思うと、まだほんの入り口に立っているような気がしました。それに気付かせてくださった事に感謝しました。まだ私の人生は続きますので、主のご計画に沿って私を使ってくださいと祈りつつ生きていきます。
リトリートの為に準備をしてくださった堀田先生とSCCRの準備委員会の方々のご労に感謝します。今年の特に食事が日本食も取り入れて下さり最高でした。
編集室・気まま便り
先日、日本語テレビで1973年フランス政府から日本にモナ・リザの絵が貸し出された時の事件についての紹介がありました。モナ・リザの絵を傷つけられては大変と、壁の奥に絵を入れて、表面は強化ガラスを付ける事となりました。
当日東京国立博物館には大勢の人々が見に来たのですが、なんと開場5分後に一人の女性が隠し持った赤いペイントのスプレーを絵にむかって噴射したのです。その女性は幼い時にポリオにかかり、右足が不自由でしたが、かろうじて歩けるので、入場できたが、入り口には大きく「車いす、障害者お断り」というサインがあったのに対しての抗議でした。それ以来、障害者への配慮がなされるようになったそうです。 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 偽善者と真のクリスチャンの違いは?
A 「偽善者」と「真のクリスチャン」の違いは、非常に重要なテーマです。イエス様ご自身が、当時の宗教指導者(パリサイ人や律法学者)に対して最も厳しい言葉を語られたのは、彼らが信仰の本質を失った偽善者だったからです。
① 外側の宗教と内側の信仰
偽善者の特徴は、信仰が外側だけにとどまることです。彼らは祈り、断食し、献金しますが、その目的は「人に見られるため」です(マタイ6:1–5)。彼らの信仰は、神への愛や感謝から出るものではなく、「人によく見られたい」という動機に基づいています。イエス様はこう警告されました。「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マタイ15:8)
一方、真のクリスチャンは、たとえ誰も見ていなくても、神の前に誠実でありたいと願う人です。彼らの祈りは人に見せるためではなく、神との親しい交わりの中で捧げられます。信仰とは「神との関係」であり、外側の儀式ではありません。
② 自分の義と神の義
偽善者はしばしば「自分の義(正しさ)」を誇ります。「自分は正しい」と思う心が、神の恵みを拒むのです。ルカ18章の「パリサイ人と取税人の祈り」で、パリサイ人は「私は他の人たちのようではありません」と誇りました。しかし、神に義と認められたのは、罪を認めて神のあわれみにすがった取税人でした。
真のクリスチャンは、「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ3:28)とあるように、自分の力で義とされるのではなく、キリストの十字架によって義とされることを知っています。つまり、真の信仰とは「自分を誇ることをやめ、神の恵みにより頼む生き方」です。
③ 外面的な行いと内面的な実
偽善者は、外見では立派に見えます。彼らは宗教的な言葉を使い、正しいことを教えるかもしれません。しかし、イエス様は言われました。「あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えるが、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいだ」(マタイ23:27)
真のクリスチャンは、完璧ではありませんが、聖霊によって内側から変えられ続けている人です。神の愛に触れた人は、自然に愛・喜び・平安・寛容といった御霊の実を結びます。外側ではなく、内側に神の愛の証が現れる――それが真のクリスチャンのしるしです。
④ 自分の栄光か、神の栄光か
偽善者は、自分の働きや成功を通して自分の名を上げようとします。しかし真のクリスチャンは、「すべての栄光を神に帰す」ことを願います。
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:16)
真の信仰者の行動の目的は「神をほめたたえること」です。それは静かで謙虚ですが、そこに神の栄光が現れます。神は、外側の宗教的行為よりも、心の誠実さとへりくだりをご覧になります。真のクリスチャンとは、「自分の弱さを認め、日々神の恵みによって歩む人」なのです。
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