DesertWind・ニュースレター March, 2026
『ここまでして下さった神の愛』(ローマ書5:6-8)
LVJCC 牧師:鶴田健次
私たちは「救われている」という言葉を何度も耳にし、また口にします。しかし、その救いの背後にどれほどの犠牲があったのかを、どれほど真剣に考えたことがあるでしょうか。信仰生活が長くなると、十字架は「よく知っている教理」になります。けれども、知識として知っていることと、心の奥深くで揺さぶられることとは違います。
ローマ5章8節は語ります。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神はご自身の愛を明らかにしておられます。」 ここには一切の条件がありません。努力も、功績も、信仰の成熟も関係ありません。最も神から遠く、最もふさわしくなかったその時に、神は最も尊い代価を払われたのです。
十字架は、「ここまでしてでも、あなたを救いたい」という、神の愛の決断です。今日はその愛の前に立ち、私たちの心をもう一度原点へと戻したいと思います。
① 十字架は、神が支払われた救いの代価
私たちは「恵みによって救われた」と告白します。それは確かです。しかし、恵みとは「代価がなかった」という意味ではありません。私たちが払うべき代価を神が支払われたのです。
「まだ罪人であったとき」という言葉は衝撃的です。神は私たちが変わるのを待たれませんでした。改善の兆しを見てから愛されたのではなく、罪を抱え、背を向け、神を無視していたその時に、すでに十字架は備えられていました。
罪は決して軽い問題ではありませんでした。もし罪が小さなものであったなら、御子の血は必要なかったでしょう。しかし神は、ご自身の御子を差し出されました。それは、罪が深刻であったことの証であり、同時に、私たちがそれほど大切な存在であったことの証拠でもあります。
私たちは時に、自分を過小評価し、「神に愛されるほどの者ではない」と思います。しかし十字架ははっきりと語ります。神は御子の命をもってあなたを買い取られたと。十字架は、私たちの価値を神ご自身が保証された出来事なのです。
② 十字架に現された、測り知れない神の愛
十字架は単なる犠牲ではありません。それは神の愛が形となった出来事です。聖書は「神は愛を明らかにされた」と語ります。愛は説明ではなく、行動によって証明されます。
神は罪人を裁くこともできました。見放すことも、正義としては当然でした。しかし神は、ご自身が傷つく道を選ばれました。御子が恥を受け、苦しむことを知りながら、その道を止められませんでした。それほどまでに、私たちを失いたくなかったのです。
この愛の深さは、人間の感情を超えています。愛とは、都合の良いときだけ寄り添うものではありません。痛みを引き受けてもなお離れない、それが本当に愛です。
インドでハンセン病患者に仕えた宣教師医師グレアム・ステインズは、暴徒によって命を奪われました。しかし残された妻は「私は犯人を赦します」と語りました。それは十字架の愛を深く知った者の言葉でした。
神の愛は苦しみを消す魔法ではありません。苦しみのただ中でなお人を立たせ、赦しへと導く力です。十字架は今も語り続けています。「私はあなたを、ここまで愛した」と。
③ この十字架の愛に、どう応えて生きるか
十字架は私たちに義務を押し付けません。しかし、この愛は私たちを無関心のままにはしておきません。
ルーマニアの牧師リチャード・ウォンブランドは、信仰のゆえに14年間投獄され、激しい拷問を受けました。彼を支えたのは十字架で自分のために苦しんでくださったキリストの姿でした。彼は後に語っています。「私は強かったのではない。ただ、主の愛を忘れなかっただけだ」と。
献身とは、先に与えられた愛への応答です。主を人生の中心に置くこと、苦しみの中でも十字架の愛を疑わないこと、赦しにくい相手を神の前に連れて行くこと、その一つ一つが十字架への応答です
十字架は今日も問いかけます。「これほど愛されたあなたは、どう生きますか」と。私たちは完璧な応答を求められているのではありません。ただ、この愛から離れないこと。十字架を見上げ続けること。そのとき、私たちの内に揺るがない献身が育っていくのです。
『神と共に歩む幸い』(その2)
証し:コールマン・善
私が最初に読むことに決めた書は、ローマ人への手紙でした。読み始めてすぐに、なぜこの書が心に与えられたのか、神には特別な理由があると感じ ました。
17歳から42歳までの48人の男性と暮らす寮に入った時、一人の過ちで全員が罰せられると、私は仲間の欠点を探している自分に気づきました。しかし主はすぐに私を正してくださいました。
ローマ人への手紙の冒頭を読んでいると、私はローマ2章1節に出会いました。「ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他 人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。」
この御言葉は私の心を強く打ちました。読んだとき、まるで神が直接私に語っておられるように感じました。そして振り返る中で、自分がしていることと同じことで他人を裁 いていたことに気づきました。これが、ローマ書を読み続ける中で起こった心の変化の始まりでした。裁くことは私の 役割ではないと悟り、神の良き被造物を裁くこと自体が、神に対して失礼なのではない かと感じるようになりました。
ある晩、特に過酷な訓練の後、心が折れかけていました。もし空軍のBMTを途中で投げ出して帰ったら、母はどんな顔をするだろうかと考えていた時、私はローマ8章 18節に出会いました。「今の時の苦しみは、私たちのうちに現される栄光と比べるに値しない。」この御言葉 は私に力を与えました。
目の前の状況から一歩引き、再び神に身を委ねることを可能に してくれました。自分が経験しているすべてのことが、神によってあらかじめ計画され、見通されていたのだと理解することができたのです。
このように思い巡らす中で、私はマウント・ハーモンという教会キャンプでの体験を思 い出しました。特に最後に参加した年のテーマは詩篇139篇でした。私たちは主によって 恐れ多く、素晴らしく造られていることを学びました。そして主が私たちの内側のすべてをご存じであることも学びました。
その瞬間、ブート キャンプで聖書を読みながら、私はこの詩篇でダビデが捧げたのと同じ願いを神に訴えました。「神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってくださ い。私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてくだ さい。」
神は私の願いにほとんど即座に応え、私の誤りと、その解決の道の両方を示してくださ いました。特に私の心を引いたのは、ローマ11章19〜24節でした。「すると、あなたは『枝が 折られたのは、私が接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。そのとおりです。彼らは 不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がることなく、むしろ恐れなさい。もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。あの人たちも、もし不信仰の中に居続けないなら、接ぎ木されます。神は、彼らを再 び接ぎ木することがおできになるのです。あなたが、本来野生であるオリーブから切り 取られ、元の性質に反して、栽培されたオリーブに接ぎ木されたのであれば、本来栽培された枝であった彼らは、もっとたやすく自分の元のオリーブに接ぎ木されるはずです。」
文脈として、ここでパウロが語る「あなた」とは、イスラエルの拒絶を通して主のもと に導かれた異邦人のことです。異邦人は、神に選ばれた民であるイスラエルをねたませ、 再び主へと引き戻すために導かれたのです。 そのため、この箇所では、イスラエルを表す「本来の枝」と、信仰を持つ異邦人である 私たちを表す「野生のオリーブの枝」が用いられているのです。
これらの御言葉は、私に希望を与えてくれました。たとえ一度接ぎ木された後に折られてしまったとしても、まだ希望があることを示していたからです。不信仰の期間を経ても、再び信じ、神との距離を縮め、人生を主に委ねるなら、希望は残されているのです。(つづく)
編集室・気まま便り
春というと、昔住んだカナダのオタワの風景を思い出します。毎年10月になると雪が降り出して、1月になると、街をあるいていても吸う空気が冷たすぎて、マフラーで口を覆わないと呼吸できない程の寒さとなりますが、しかし4月になると雪解けがはじまり、芝生の中に植えられたクロッカスが黄色や紫のかわいい花を咲かせます。その後は公園にたくさん植えられたチュ―リップが一斉に咲き出します。冬が厳しい所ほど春を迎えた喜びは大きいです。
人生も同じで苦難を通った人ほど、永遠に変わらない愛と正義の神様を求めるし、聖書を学び、神様に喜ばれる歩みをしたいと願うものです。「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71) MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 「自分を捨て、十字架を負って従う」とはどういう意味ですか?
A 「自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」(ルカ9:23)という言葉は、主イエスに従おうとするすべての人に対する根本的な召命の言葉です。しかし、現代に生きる私たちにとって、「自分を捨てる」や「十字架を負う」とは、具体的にどういうことを意味するのでしょうか?
① 「自分を捨てる」とは
聖書が教える「自分を捨てる」という自己放棄は、「神なしに自分がすべてを決め、コントロールしようとする自己中心的な姿勢を手放すこと」です。私たち人間は本来、自分の思い通りに生きたいという根深い願望を持っています。自分のプラン、成功、快適さ、名誉――それらを第一とする生き方を、主イエスは「古い自分」と呼び、それを捨てるように命じられたのです。
これは、神の御心と計画に自分を委ね、キリストを人生の主とする決断を意味します。「自分を捨てる」とは、自分の人生の主権を神に明け渡すことなのです。
② 「十字架を負う」とは
当時のユダヤ人にとって十字架は、「極刑」「処刑台」であり、死の象徴でした。主イエスはご自身の十字架を予告する中で、弟子たちにも「自分の十字架を負え」と語られました。つまり、これは単なる自己犠牲の教えではなく、「自分の生き方や価値観が死ぬ覚悟」、さらには「キリストと共に死に、共に生きる」(ローマ6:6-8)という霊的アイデンティティの表明なのです。十字架を負うとは、日々の生活の中でキリストのために自己を明け渡し、福音のために苦しむことをも厭わない生き方です。
実際、多くの初代教会のクリスチャンたちは、キリストを信じるゆえに社会的地位や命を失いました。現代でも、クリスチャンとしての信仰を貫くことには、誤解・拒絶・不利益を受けるリスクが伴います。それでもなお、イエスに従う道を選ぶ。それが「十字架を負う」ということです。
③ 「従う」とは
「従う」とは、キリストと共に歩む人生を選ぶことです。行き先はキリストが決め、私たちは日々信頼して一歩一歩従っていく。これは「信仰による生活」の実践であり、自分の願いや快適さよりも、神の御心と他者への愛を優先する生き方です。
これは困難で狭い道かもしれませんが、その先には「いのちと祝福」があります(マタイ7:13–14)。主イエスは「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救う」(ルカ9:24)と言われました。つまり、自己中心を手放してキリストに従うことこそ、真のいのちを得る道なのです。
「自分を捨て、十字架を負って従いなさい」という言葉は、主イエスが私たちに求めておられる信仰の本質そのものです。それは単なる宗教的行動ではなく、日々の選択において、「誰を主として生きるのか」という問いへの応答なのです。
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