DesertWind・ニュースレター January, 2026
『後ろのものを忘れ、前のものに向かって』(ピリピ書 3:13-14)
LVJCC 牧師:鶴田健次
新しい年の始まりに、私たちは自然と歩みを少し緩め、自分の人生を見つめ直します。街には新年の明るさがあふれていますが、その一方で、心のどこかに静けさと緊張感が入り混じる季節でもあります。新しい一歩を踏み出そうとするとき、これまで歩んできた道が、ふと心に浮かび上がってくるからです。
「この一年を、私はどのように歩んでいくのだろうか。」 そう問いかけると、期待や希望とともに、不安や自信のなさも心をよぎります。新年という時は、未来への扉が開かれると同時に、自分の弱さや限界とも向き合わされる、不思議な時なのかもしれません。
聖書は、そのような私たちにプレッシャーを与えるのではなく、確かな方向を示します。「うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし…」。 この言葉は、強い人や成功している人だけに向けられたものではありません。迷いながらも、希望を求めて前に進もうとする、すべての人に語られている御言葉です。
①「後ろのものを忘れる」
「後ろのものを忘れる」とは、過去をなかったことにするという意味ではありません。人は、過去を消し去ることはできませんし、忘れたい出来事ほど、人生の節目や静かな夜に心によみがえってきます。聖書が語る「忘れる」とは、記憶の操作ではなく、過去に人生の主導権を渡さないという霊的な決断です。
使徒パウロは、キリスト者を迫害したという取り返しのつかない過去を持っていました。その事実は消えることはありませんでした。また同時に、律法においては誇ることのできる経歴や実績も持っていました。しかし彼は、そのどちらにも人生を支配させませんでした。過去の失敗は、「もう遅い」「あなたは失格だ」と私たちを裁き続けます。一方で、過去の成功は、「今さら変わる必要はない」と歩みを止めさせます。
信仰とは、過去を否定することではありません。過去を抱えたままでも、それを人生の主人にしないことです。神は、私たちを過去ではなく、今どこへ導こうとしておられるのかを見ておられます。どれほど重い過去であっても、それが未来を決定する必要はありません。神は、今日も私たちを前へと招いておられるのです。
②「前のものに向かって身を伸ばす」
パウロは、「後ろのものを忘れる」だけで終わりません。「前のものに向かって身を伸ばす」と語ります。信仰とは、過去を整理して立ち止まることではなく、希望に向かって生き続ける姿勢です。
「身を伸ばす」という言葉には、余裕や安定は感じられません。そこには、迷い、不安、恐れ、弱さを抱えたままでも、それでも前を向こうとする必死さがあります。私たちはよく、「もう少し状況が良くなったら」「準備が整ったら」「自信がついたら」と考えます。しかし人生は、整ってから始まるものではありません。多くの場合、一歩を踏み出した後で、ようやく次の道が見えてくるのです。
信仰とは、未来を完全に理解してから進むことではありません。先が見えなくても、神の導きを信頼し、今与えられている一歩を踏み出すことです。その一歩は小さく、心細く感じられるかもしれません。しかし、その一歩によって人生の向きは確かに変わります。神は、立ち止まる人ではなく、前を向こうとする人と共に歩まれるのです。
③「目標を目指して走り続ける」
パウロが語る「目標」とは、成功や成果、人からの評価ではありません。「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださる賞」です。つまり彼は、自分がどれほど成し遂げたかではなく、神がどこへ召しておられるかを人生の中心に置いていました。
「走り続ける」とは、競争に勝つことでも、他人より速く進むことでもありません。神が示された方向から外れずに、与えられた道を歩み続けることです。たとえ誰にも注目されなくても、すぐに実を見なくても、神の召しに忠実であるなら、その歩みは決して無駄にはなりません。
私たちは結果や数字に心を奪われがちです。しかし神は、速さよりも方向を重んじられます。どこへ向かって生きているのか。その一点が問われているのです。神が示される目標に目を向け、今日も一歩を重ねていく。その人生こそが、パウロの告白する「目標を目指して走り続ける」信仰なのです。
『救われた経緯』
証し:新島 薫
私がどのように教会へ導かれたかという事をお話したいと思います。 最初のきっかけは、クリスチャンのお友達に教会に誘われたことがきっかけとなり、初めて水曜日の祈祷会へと足を運びました。ある日の事、私はどうして自分は神様を信じていないのだろうか?と思い始め、とても悩み苦しみ、「どうすれば神様を信じることができるのか」という事をそのクリスチャンのお友達に相談いたしました。
お友達は目で見えるもの太陽や水や木などすべて神様がお造りになったことを話してくださいました。私はその事をその時、素直に信じることができ、この地にある全ての万物を創造なされた神様を信じました。
「私は、あなたの神、主である。」 出エジプト20:2
それからは、不思議な事にもっと神様のことが知りたくなり、以前友人に礼拝のテープがあるから聞くように勧められていたことを思い出して礼拝メッセージのテープを聴いてみました。その中で話されている事に私はびっくりしてしまいました。
私が罪人であることも、又そのため永遠の滅びに行くことも、イエス・キリストが神であった事も今まで知らず、生まれて初めてこのような事実が分かり私はとてもショックでした。又私の罪のためにイエス様が十字架にかかって死んでくださった事を知り、何とも言えない感動を覚え涙が止まりませんでした。
「私の代わりに十字架につき死んでくださり、私に新しい命を与えてくださった命の恩人であるイエス様のために生きてゆきたい」という思いが与えられました。2ヶ月後の2004年4月11日ラスベガス日本人教会のイースター礼拝にて鶴田牧師より洗礼を授けて頂き、晴れてクリスチャンとなることができました。
クリスチャンになり2年半が過ぎた時、職場である朝、同僚のミスで100ポンドほどのメタルのカートを押したため、そのカートが弾みをつけて私の左足の甲の上に倒れ、カートの重みで親指がつぶれて3本足の指が折れ、一瞬にして足の甲はフットボールのように脹れ上がり、強烈な痛みを覚えました。
その事故により数ヶ月間歩くことができませんでした。私は何も悪いことをしていないのに,どうしてこのような事になるのだろうか?と思いつつ、毎日服用する痛み止めのため頭は朦朧状態。このような痛みで礼拝には行けないと思い、礼拝を初めて休みました。
その時、鶴田牧師が心配して私に電話を下さり、「どうして礼拝に来なかったのか」と尋ねられました。私はそのまま率直に足の痛みのため礼拝を休んだことを告げました。そしたら先生が、「イエス様は十字架上でもっと苦しまれたんだよね。」心の中では(そんなこと知ってるし分かってる。しかし今は私の痛みのことを言ってるのにどうしてイエス様のことを持ち出してくるのか)とそんな気持ちでした。
ちょうどその頃、私は、家庭集会のミニストリーを初めて1年半を過ぎたところでした。そのグループの中で膝が悪い方がおられ、その方の送り迎えを毎週しておりました。ある日、私がその人を迎えに行くと、その方が車を運転して帰ってこられるのを見ました。
聞くと郵便局へ行っていたという事。私は、その人が運転できないと思っていたので迎えに行ってるが、自分で運転できるのであれば運転して来てほしいという気持ちになりました。そして段々その方の送り迎えが嫌になってきてたのでした。
しかしある日、神様は私に思いを与えてくださいました。自分もこのように足に痛みのある中で出来れば車を運転したくない。神様が、この事故による足の痛みを経験して人の弱さ痛みを分かる人間になるように神様はこのような試練を与えられたこと。
また、それと同時に先生の言ってくださった事、「イエス様は十字架上でもっと苦しまれたんだね。」私の足の痛みよりもっと苦しい痛みをイエス様は受けてくださり、その苦しみは私のためであった。私は本当に神様に対して申し訳なかったと思い悔い改めました。そしてこれからは家庭集会のメンバーの高齢の方を喜んで迎えに行こうと決心をしたのでした。
「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。」 マタイ7:12
「苦しみにあったことは、わたしにとって幸せでした。それにより、わたしはあなたのおきてを学びました。」 詩篇119:71
編集室・気まま便り
「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」 ピリピ3:13-14
新しい年を迎えて、幾つになっても、又、何も具体的な目標はなくても、新しい年と聞いただけで、神様を信じていると、希望に満たされて、何かを期待する思いが湧いてきます。イエス様にあっては「希望は失望に終わる事はない。」というお約束のみ言葉が心に響いてきます。
今年も神様を一心に見つめながら、御言葉を学び、毎週日曜日の礼拝を守り、主と共に歩みたいです。そして教会の皆さんと共に、お互い日本を飛び出し、アメリカに長く住む者同士、助け合い、励まし合い、愛し合って日々を歩みたいと思います。 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q 主イエスはどうして悪霊を豚に送ったのですか?
A マルコの福音書5章に記されている『ゲラサ人の地の悪霊に取り憑かれた人の癒し』は、福音書の中でも非常に印象的な奇跡の一つです。イエス様は悪霊に取り憑かれた男と出会い、悪霊たちは「レギオン」と名乗り、自分たちを近くの豚の群れに送るよう願い出ます。イエス様がそれを許可すると、約2000頭もの豚が崖を下って湖に飛び込み、溺れ死んでしまいます。
この場面を読むと、多くの人が「なぜイエス様は豚に悪霊を送ることを許したのか?豚が犠牲になる必要があったのか?」と疑問を抱くことでしょう。これは、単な
る霊的事件ではなく、霊的真理と社会的メッセージが重なった出来事です。
第一に、豚はユダヤ人にとって「汚れた動物」とされており(レビ記11:7)、この地域は異邦人の地であったことを示唆しています。イエス様がユダヤ人社会の外にまで出向き、悪霊に縛られた異邦人を解放されたという点で、この出来事は神の救いがユダヤ人に限られず、すべての人に及ぶということを象徴しています。
第二に、悪霊たちが自発的に「豚に入れてくれ」と願ったことは注目に値します(5:12)。これは、悪霊がイエス様の権威を完全に認めていたことを示す証拠です。彼らは自ら出ていくことができず、イエス様の許しがなければどこにも行けない存在であるという点が、この奇跡の核心です。イエス様は彼らの願いを許可することで、その権威をはっきりと現されました。
では、なぜ豚が犠牲になったのでしょうか?これは、目に見えない霊的な現実がどれほど恐ろしいものかを可視化するためだったと理解できます。レギオンという名の悪霊は、一人の人間に憑いていたにもかかわらず、2000頭の豚を一瞬で狂わせて死に至らしめました。この事実は、悪霊の支配が人間の命と魂をどれほど破壊的に支配するかを物語っています。
さらに、イエス様は一人の男を救うために、その地域の経済的損失(豚2000頭分)を厭わなかったという点でも、神の目には「人の魂の価値」が尊いことを示しています。豚の死は確かに大きな出来事ですが、それ以上にイエス様は「ひとりの人間が解放されること」に重点を置かれたのです。
興味深いのは、この奇跡の後、町の人々が恐れてイエス様に「この地を去ってほしい」と願ったことです(5:17)。彼らは奇跡よりも損失を恐れ、神の力よりも自分たちの生活が脅かされることを嫌ったのです。イエス様は無理にとどまらず、解放された元悪霊の男に「自分の家に帰って、神がしてくださったことを語りなさい」と命じられました(5:19)。これは、福音が異邦人世界に広がっていく先駆けとも言える重要な宣言でした。
結論として、イエス様が悪霊を豚に送られたのは、霊的権威の明示、救いの力の大きさ、そして人の魂の尊さを明らかにするための象徴的行為だったのです。目に見える犠牲の背後に、目に見えない深い神の恵みと真理が示されていました。
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https://lvjcc.com/lvjcc-news-letter-december-20
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