DesertWind・ニュースレター February, 2026
『主が共におられる一年へ』(マタイ28:20)
LVJCC 牧師:鶴田健次
新しい年を迎えると、私たちは自然に「今年はどんな一年になるのだろうか」と考えます。健康、家族、教会の歩み、そして世界の行方など、期待と同時に、不安や戸惑いを抱く方も多いでしょう。2025年を振り返っても、世界も私たちの人生も決して平坦ではありませんでした。思い通りにならなかったこと、解決の見えない問題を抱えたまま2026年を迎えている方もおられることでしょう。だからこそ今、問われます。「あなたは、この一年を何を土台に歩みますか」と。
私たちラスベガス日本人教会には、新年最初の礼拝で語られる御言葉を、その年の教会標語として受け取るという大切な習慣があります。人の考えや流行で方向を決めるのではなく、「主よ、今年あなたは私たちに何を語っておられますか」と耳を傾け、その御言葉を一年の歩みの土台とするのです。
そこで2026年に私たちが受け取った標語は、「主がともにおられる一年へ」です。一見シンプルですが、ここに信仰生活の本質があります。人生の祝福は「何が起こるか」よりも、「誰が共に歩んでおられるか」によって決まるからです。
①「主がともにおられる」ことこそ最大の祝福
私たちは問題のない一年、順調な一年を祝福だと考えがちです。しかし聖書が語る祝福の中心は、状況ではなく主との関係です。主が共におられるかどうか、それが祝福の本質です。問題がなくなるから主が共におられるのではありません。問題があっても、主は信じる者と共におられます。私たちはしばしば、「神が共におられるなら、状況も良くなるはずだ」と期待します。しかし聖書は、そのような条件付きの約束を与えてはいません。
イエス様は、弱く失敗の多い弟子たちに対しても、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と無条件の約束をされました。祝福とは、思い通りに進むことではありません。問題が起こらないことでもありません。どんな場所にいても、どんな状況に置かれても、主が共におられることです。主が共におられるなら、その一年は決して無駄にはなりません。むしろ、困難の中にあっても、主の御手によって意味のある一年へと変えられていくのです。
②主の臨在は、不安と恐れのただ中で私たちを支える力となる
新しい年には、期待と同時に不安があります。健康、将来、家族、そして世界情勢。信仰者であっても不安は消えません。大切なのは、不安があるかどうかではなく、不安を感じたときどこへ向かうかです。
聖書は、不安を消しなさいとは命じていません。主はただ、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」と語られます。主の臨在は、不安を一瞬で消し去る力ではありません。しかし、不安に押しつぶされそうな私たちを、静かに支え続ける力です。眠れない夜に「あなたは独りではない」と語りかけ、先の見えない朝に「今日一日を生きよう」と思わせてくれる力です。不安があっても、主はともにおられる――この事実が、私たちを内側から支えるのです。
③主がともにおられる一年は、私たちを使命へと導く
主の臨在は、祝福や支えで終わりません。必ず私たちを使命へと導きます。使命とは、特別な人だけが担う大きな働きではなく、日常の中で生きる歩みです。神は人を使命へ遣わす前に、必ず「わたしはあなたと共にいる」と約束されます。使命が先ではなく、主の臨在が先です。主が共におられない使命は重荷になりますが、主が共におられるなら、使命は恵みとなります。
2026年、私たちは家庭で、職場で、地域で、日常の中で多くの人と出会います。その一つひとつが使命の場です。特別な言葉や立派な証しがなくてもよいのです。ただ、主が共におられる者としてそこに立つこと、それだけで主は私たちを用いてくださいます。
私たちは「自分には何もできない」と思いがちですが、聖書が問うのは能力ではなく神の臨在です。「誰が共にいるか」が問われています。主が共におられるなら、私たちはゆっくりでも確実に前進できます。
「わたしはあなたと共にいる。」この約束に支えられて、私たちはそれぞれの場所へ遣わされていきます。これこそが、「主が共におられる一年」を生きる姿です。
『神と共に歩む幸い』(その1)
証し:コールマン・善
おはようございます。私の名前はゼン・コールマンです。ご存じない方のために伝えすると、私はこれまで生きてきた20年のうち19年間、この教会に通ってきました。この1年、私が教会に来ていなかった唯一の理由は、私が軍に入隊したからです。
以前にも何度か、教会のために書いたり話したりするよう頼まれましたが、そのたびに、罪深い普通の自分のような者が、信仰やそれに関する考えを他の人に語るのはふさわしくないと感じていました。しかし神はそのたびに、私が目的をもって語れることについて語ることを許してくださいました。それは人々の心に共感を生み、良き御言葉へと向けさせるものだと感じています。今回も同じです。
最初に、私を大切に思い、19年間ほぼ毎週日曜日に教会へ連れて来てくれた母がいたことが、本当に大きな祝福であったことをお伝えしたいと思います。私自身が行きたいと思えない時でさえ、母は変わらず私を連れて来てくれました。
この19年間、私は教会に通い、礼拝し、神の民との交わりを楽しむことができました。しかし、ある時点からそれは単なる習慣になりました。私は週6日、自分の好きなように生き、日曜日になると取り繕って教会に来るようになっていました。礼拝し、メッセージを聞いても、家に帰るとまた自分のしたいことをそのまま続けていました。
もちろん私はつまずき、罪を犯し、肉の欲望と葛藤していました。しかし自分のプライドが、完全に悔い改めて正直になることを許しませんでした。私は自分の行いを恥じ、それを受け入れることができませんでした。この時期、私は世俗的に生き、日曜日だけ教会に行くという循環に陥っていました。礼拝の場にはいましたが、心をもって主を礼拝することはなく、ただ身体だけがそこにある状態でした。
このような時期に、私はアメリカ軍に入隊しました。特別な理由があったわけではなく、将来どんな仕事に就くにしても使わないかもしれない学位のために、借金をしたくなかったからです。
では想像してください。私はブートキャンプへ向かうバスの中にいます。動機はとても弱く、持ち物は下着と靴下の入った袋、聖書、そしてまだ残っていた髪の毛でした。運転手は、これが人生で最も厳しい経験の一つになるだろうと言いました。教官たちは怒鳴り叫び、訓練は肉体的に非常に過酷で、1日16時間の訓練になると告げられました。それをすべて聞いたとき、私は恐怖を覚えました。自分が志願したことに対して、本当に準備ができているのか分かりませんでした。
しかし到着してみると、叫び声も怒鳴り声もありませんでした。私は通常の体験を免れているように感じましたが、それが後の落差への前触れだとは知りませんでした。少し説明すると、私が行った空軍の基礎軍事訓練では、最初の1週間を「ゼロ・ウィーク」と呼びます。その後、実際の訓練を受ける場所に移され、約6週間半の訓練が始まります。ゼロ・ウィークの間、私は訓練全体がこのまま穏やかに進むものだと信じていました。しかしそれは大きな思い違いでした。
ゼロ・ウィークの後、私自身を含む多くの仲間は、残りのBMTで訓練を担当する教官たちの厳しさに衝撃を受け、まったく準備ができていませんでした。移動の時間になると、動きの遅い仲間がいました。そのため教官は全員を止め、地面から立ち上がり、荷物をつかみ、隊形を組むことを、速さに満足するまで何度も繰り返させました。私は心の中で苛立ち、なぜ仲間たちはきちんとできないのかと憤っていました。
とにかく私は、BMTの間、可能な限り聖書を読み、どんな困難に直面しても主に頼って乗り越えようと、自分自身と約束していました。
編集室・気まま便り
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 ヨハネ:13:34
教会には本当に様々な背景の人々がいます。お互いに心開いて交わる事ができる人もいれば、自分の性格に合わず、苦手な人がいることも事実です。そう考えた時に、これは難しい命令ですが、ここで大事なのは自分が変わる事です。
兄弟姉妹の失敗や弱さを目にしたときに、裁くのではなく、優しく覆ってあげることが大切です。苦手な人を受け入れる努力をしてみる事です。かならずその人の良いところが見えてきます。更にすべての人を神様は目的を持って造られた事がわかります。 MN
△▼△▼ LVJCC キリスト教 Q&A △▼△▼
Q なぜ神はイスラエルにカナン人を絶滅するよう命じたのですか?
A 「あなたの神、主が彼らをあなたに渡し、あなたがこれを討つとき、あなたは彼らを必ず聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。また、彼らにあわれみを示してはならない。」(申命記7:2)
この聖句は、多くの人にとって非常に衝撃的に聞こえるでしょう。「愛の神」であるはずの神が、なぜこのように厳しい「聖絶」という命令をイスラエルに与えたのか。これは、聖書の中でも特に理解が難しく、誤解されやすいテーマの一つです。しかし、その背景や文脈を丁寧に見ていくと、これは無差別な暴力や民族差別の命令ではないことが分かってきます。
この場面を読むと、多くの人が「なぜイエス様は豚に悪霊を送ることを許したのか?豚が犠牲になる必要があったのか?」と疑問を抱くことでしょう。これは、単なる霊的事件ではなく、霊的真理と社会的メッセージが重なった出来事です。
第一に、豚はユダヤ人にとって「汚れた動物」とされており(レビ記11:7)、この地域は異邦人の地であったことを示唆しています。イエス様がユダヤ人社会の外にまで出向き、悪霊に縛られた異邦人を解放されたという点で、この出来事は神の救いがユダヤ人に限られず、すべての人に及ぶということを象徴しています。
第二に、悪霊たちが自発的に「豚に入れてくれ」と願ったことは注目に値します(5:12)。これは、悪霊がイエス様の権威を完全に認めていたことを示す証拠です。彼らは自ら出ていくことができず、イエス様の許しがなければどこにも行けない存在であるという点が、この奇跡の核心です。イエス様は彼らの願いを許可することで、その権威をはっきりと現されました。
では、なぜ豚が犠牲になったのでしょうか?これは、目に見えない霊的な現実がどれほど恐ろしいものかを可視化するためだったと理解できます。レギオンという名の悪霊は、一人の人間に憑いていたにもかかわらず、2000頭の豚を一瞬で狂わせて死に至らしめました。この事実は、悪霊の支配が人間の命と魂をどれほど破壊的に支配するかを物語っています。
さらに、イエス様は一人の男を救うために、その地域の経済的損失(豚2000頭分)を厭わなかったという点でも、神の目には「人の魂の価値」が尊いことを示しています。豚の死は確かに大きな出来事ですが、それ以上にイエス様は「ひとりの人間が解放されること」に重点を置かれたのです。
興味深いのは、この奇跡の後、町の人々が恐れてイエス様に「この地を去ってほしい」と願ったことです(5:17)。彼らは奇跡よりも損失を恐れ、神の力よりも自分たちの生活が脅かされることを嫌ったのです。イエス様は無理にとどまらず、解放された元悪霊の男に「自分の家に帰って、神がしてくださったことを語りなさい」と命じられました(5:19)。これは、福音が異邦人世界に広がっていく先駆けとも言える重要な宣言でした。
結論として、イエス様が悪霊を豚に送られたのは、霊的権威の明示、救いの力の大きさ、そして人の魂の尊さを明らかにするための象徴的行為だったのです。目に見える犠牲の背後に、目に見えない深い神の恵みと真理が示されていました。
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