DesertWind・ニュースレター December, 2024

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『贖いの完成』(第一コリント15:35-53)

 

LVJCC 牧師:鶴田健次

 
キリスト教の「救い」には、罪の赦し、義認、新生、永遠の命の賜物などの側面がありますが、救いは私たちの肉体が贖われたときに完成します。キリスト教の救いには、魂の贖いだけでなく肉体の贖いも含まれるからです。

地上では私たちは救いの途上にあり、救われていても罪を犯したりすることがあります。それは肉体が贖われていないからです。

しかし、キリストが十字架と復活で贖いを完成されたことで、やがて私たちの肉体が贖われ、キリストの復活にあずかる復活の体(栄光の体)をいただく約束が与えられているのです。

① 復活の体とは

使徒パウロは復活の体がどういうものかを述べています。復活の体は、いわば天上の体です。一方、私たちの肉体は、地上の体です。種まきのたとえで説明すると、私たちは、この地上に種として蒔かれました。

種というのは、小さくて見栄えがせず、私たちの血肉の体のようです。スイカの種を見ても、あまり見栄えがしません。

しかし、種が地面に蒔かれると、種は一旦、地面の中に埋められますが、全く新しい姿になって地面から出てきます。そして、スイカという新しい体が与えられます。これがいわば復活の体です。

では、なぜ私たちには復活の体が必要なのでしょうか。それは、やがて朽ちてしまう肉体では神の国を相続できないからです。神の国は永遠の世界です。ですから、永遠の天国では、永遠に朽ちない肉体が必要なのです。

パウロはそれを「朽ちない栄光の体」と言っています。朽ちないというのは、年老いたり、病気になったり、また死ぬこともないということです。

53節を見ると「朽ちないものを着る。死なないものを着る」と言われていますが、私たちの朽ちてしまう肉体は、この地上においては私たちの魂の着物であり、やがて私たちの魂は、天上の体という朽ちない着物を着ることになるのです。

 ② 復活の根拠

復活の話をすると、多くの人があり得ないと笑いますが、聖書をよく学べば復活の証拠が非常に強固であることに気付かされます。イギリスの歴史家トーマス・アーノルドは、「キリストの死と復活の出来事以上に完全に証明される出来事は、人類の歴史の中にはない」と言いました。

アメリカの弁護士フランク・モリソンは、キリストの復活を否定するための本を書こうとして聖書を学んでいく中で、目が開かれ、結果的に復活の事実を証明する本を書くことになりました。

事実、イエス・キリストは一度死なれ、三日目に栄光の体に復活されたのです。そして、その事実を見たという証人は一人や二人ではありません。第一コリント15:5以降を見ると、12弟子のほかに、500人以上の人々が復活のキリストを目撃したとあります。

425回という連続勝訴の世界記録を持つ弁護士リオネル・ラックホーも、長年の経験をもとにキリストの復活に関する証拠を分析し、「キリストの復活の証拠は、疑いの余地を残さないほど圧倒的だ」と結論付けています。 キリストの復活は、ただ「そんなものは信じられない」という幼稚な精神論で片付けてはならない重
要な歴史的事実なのです。

 ③ 贖いの完成

50節を見ると、「血肉の体は神の国を相続できない」とあります。血肉の体とは、いつかは朽ちてしまう私たち肉体です。神の国は永遠ですから、この血肉の体では、永遠の天国で住むことはできません。だから、神は朽ちない体を私たちに与えて下さるのです。

では、私たちはどのようにして栄光の体が与えられるのでしょうか。パウロは、51-52節でその奥義を告げています。つまり、キリストは世の終わりに、ご自身の民を呼び集めるために再び来られます。

キリストはまず、ご自分を信じて死んだ者たちを死からよみがえらせます。彼らは墓から栄光の体に復活し、天に携え挙げられます。

その次は、生きているクリスチャンたちです。つまり、キリストが来られるときまで生きているクリスチャンは、エノクやエリヤのように、死を見ないで天に移されるのです。まばたきをする瞬間に、栄光の体に変えられ、天に挙げられるのです。

キリストの再臨の時は刻一刻と近づいています。それがいつかは誰にも判りませんが、それは必ず起こります。私たちはそれがいつ来てもいいように目を覚まして準備をしておかなければなりません。

 



良きクリスチャンの友人達』

証し:ヘインズ・なおみ

人生の岐路において多くのクリスチャンに助けられ、2020年夏に数人の友人に見守られて洗礼を受けました。忘れられない出会いや度重なる偶然を通して霊的な数々の手本を示され、私の漠然とした思い『いつかは自分もクリスチャンになるかも知れない』は着実に確信へと変わっていったのです。

青森県の津軽地方、祖父母を含めた大家族に生まれ育ちました。親族の命日には祖母がお膳を作り仏壇を拝む、が普通だと思っていた伝統的な田舎の生活でした。

高校卒業後に航空自衛官になり、埼玉県入間基地航空自衛隊に数年勤務しました。最初に出会ったクリスチャンは同じクルーの先輩でした。見返りを求めず常に親切で私は心から尊敬し信頼し、彼のスピリットに性別を超えた特別な何かを感じました。

クリスチャンになった理由を問うと、『親友のアメリカ軍人がクリスチャンで、彼の人柄に感化され教会に興味を持った』という答えでした。

航空管制に携わる仕事柄、米軍横田基地のアメリカ軍人とコンタクトする機会が多くアメリカ社会への憧れも重なり、自衛隊退職後は米軍基地で10年近く事務職に就き、縁あってアメリカ軍人の主人と結婚しました。

主人の転勤でヨーロッパ、アメリカ、日本を数年ごとに移動しましたが、最初の赴任地はイタリアの陸軍基地でした。知り合いが全くおらず心細い数ヶ月でしたが、友達になった韓国人の軍人妻が敬虔なクリスチャンでした。

韓国人妻達はクリスチャンが多く、毎週のようにランチに招いてくださいました。食事前に聖書勉強をして互いの悩みを分かち合い祈る姿に、私自身はクリスチャンではなかったものの静かな祈りの交わりに癒されました。

私が救われるようにと皆が熱心にお祈りをしてくれ、不思議に感じたものでした。当時、聖書に興味はあったものの、見えない世界を信じない私にはどうしても超えられない壁があったのです。

しかしながら、クリスチャンの多いアメリカ軍基地に住み、彼らの寛大で慈悲に溢れ、他人を許し、与える事を喜びとする生き方を素晴らしいと思っていました。

アメリカに戻って数年後、主人がアルコール中毒になり30年勤めた軍を退役しました。それを機に私は仕事を探し、DCの日系金融シンクタンクで会計事務の仕事を始めました。

加えて、趣味として始めたツアーガイドの副業が他都市へも広がり、2足の草鞋を履いた生活は息をつく暇もない程でした。夫婦間に大きな亀裂が存在すると感じた私は心を麻痺させる為にスケジュールを隙間なく埋め、強迫観念にかられて世の富を求め必死に働きました。

精神的に追い詰められ病気になった主人を許す事ができず、私は自身の病んだ心を癒すために占い、瞑想、レイキなど限りなく自分癒しの薬を探し求めました。しかしながら、生活が安定しても心に平安が宿らないことに気がついたのです。

心が渇いていた時、友人を介して出会ったクリスチャンの一人は、偶然にも息子が同じ学年で同じ大学に通い、同じ強迫性障害で精神を病んでいるという偶然の一致の多さに驚愕しました。

彼女自身がクリスチャンになったことで全てが良い方向に向かったと話してくれたその時、この偶然の出合いが必然の出会いであることに気づいたのです。

洗礼を受け、霊的に生まれ変わる時が来たのだと感じたのです。科学現象以外は信じないと思っていましたが、人間の考えを遥かに超えた神の存在を信じようと決心した瞬間でした。そして神に祈り求め全てを委ねるとき、心に平安が宿る事を理解し始めました。

今では、信仰の道に入る私の為に一番辛い役目を引き受けてくれたのは主人だったと思うようになりました。主人はまだ信徒ではありませんが、私のミッションは家族を救う事だと信じています。

祈りのパワーは力強く、神様は不思議な形で答えてくださいます。私の元へ多くの良きクリスチャン達を送り導いてくださった神に心から感謝します。

「何事も思い煩ってはならない。あらゆる場合に、感謝を持って捧げる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知って頂きなさい。そうすれば、全ての理解を超えた神の平安が、あなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ピリピ人への手紙 4:6―7


編集室・気まま便り

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」 ピリピ2:3 

教会の奉仕とすべての人間関係の源となるような大切な教えだと思う。しかし、これは完全に自分を捨てて神様に献身をした時にできる事だとも思った。

自分への思いがあったら、それが邪魔してできないのである。へりくだるという事は自分を卑下することではなく、自分の罪を認めて、神様の前に許しを請う姿勢だと思う。

それは簡単ではない。日々のみ言葉の学びとデボーションと祈りの生活の中から自然と身についてくる事だと思う。毎日の積み重ねがいつしか自分の内面が清められ神第一の生活が自然と身についていく。     MN



 

LVJCC キリスト教 Q&A

Q マタイ21:28で兄と弟が逆になっている翻訳があるのはなぜ?

A  マタイ21:28-30の「二人の息子」のたとえにおいて、兄(長男)と弟(次男)の役割が翻訳によって逆転している場合がある理由は、以下のような歴史的・言語的・翻訳的な要因にあります。

① ギリシャ語原文の解釈

新約聖書はギリシャ語で書かれており、マタイ21:28-30の原文では「第一の息子」(ho protos)と「第二の息子」(ho deuteros)という順序で書かれています。しかし、この「第一」「第二」という表現は必ずしも兄や弟の年齢順を意味するわけではありません。

ここで「第一」という言葉は、単に物語の進行順を表している可能性があります。つまり、翻訳者によっては「最初に登場した息子」を兄と解釈する場合もあれば、弟と解釈する場合もあります。ギリシャ語ではどちらが「兄」か「弟」かを明確に示す記述はありません。

 ② 翻訳の方針の違い

翻訳者は、聖書を読者にとって解かり易いものにするため、時に順序や役割を調整します。その結果、以下のような違いが生じます。

順序を厳密に守る翻訳: 「最初に父親に反抗した息子」を兄、「次に頼まれた息子」を弟として描写します。

教訓を重視した翻訳: 行動の結果やキャラクター性を重視し、「行動が正しい方を弟」とし、「間違った方を兄」とする場合があります。これは、当時の文化的背景で「兄」が責任感の象徴とされていたことから、あえて「兄」を否定的な例として描く場合もあるからです。

 ③ 写本の違い

古代の聖書写本にはわずかな違いがあります。一部の写本では、物語の順序や息子たちの言葉が異なる場合があります。例えば、「行きます」と言ったのが「第一の息子」なのか「第二の息子」なのかが、写本によって異なる可能性があります。

しかし、マタイ21:28-30に関しては、大きな写本の違いは確認されていません。このため、順序の違いは主に翻訳者の解釈や翻訳方針に基づいていると考えられます。

 ④ 文化的・神学的な意図

翻訳には、その時代や文化の影響が反映されます。特にこの箇所は、「言葉ではなく行動が重要である」という教訓を伝えることが目的なので、翻訳者はそのメッセージを強調するように役割を配置することがあります。ある翻訳では、「悔い改めて行動した息子」を弟、「口先だけで従わなかった息子」を兄とすることで、行動の対比を強調します。他の翻訳では、単に物語の順序をそのまま維持して描写します。

 結論

マタイ21:28-30で兄と弟が翻訳によって逆になる理由は、原文の解釈の自由度、翻訳者の意図、または教訓の伝え方の違いにあります。このたとえの中心的な教訓が、「行動が言葉よりも重要である」ということなので、兄弟の役割が逆であっても本質的な意味は変わりません。

 


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