31.三位一体という言葉は聖書に書かれていない。

三位一体の教義の批評家の中には、「三位一体」という言葉は聖書にないので、それは真実ではないと主張する人もいます。 さらに、もし神が私たちに「三位一体」を信じて欲しいなら、神はその教義を明確に述べていたはずだと主張する人もいます。

 

まず第一に、「三位一体」という言葉が聖書に見当たらないので、その概念が聖書に教えられていないと主張するのは非論理的です。 この種の異議は通常、三位一体の教えに対する偏見を示しています。 その代わりに、人は神の言葉を見て、それが教えられているかどうかを確認するべきです。

 

第二に、たとえ聖書の中に特定の言葉がなくても、人々が信じている聖書の概念はたくさんあります。たとえば、「聖書」という言葉は聖書にはありませんが、私たちは聖書を説明するために「聖書」という言葉を使います。同様に、「全知」を意味する「全知」、「全能」を意味する「全能」、「どこにでも存在する」を意味する「偏在」も聖書にはない言葉ですが、私たちはそれらの言葉を使って神の属性を説明します。聖書に書かれている概念が真実であるために、必ずしも聖書の中に特定の言葉を見つける必要はありません。 「トリニティ」という言葉であろうと、それを表す概念であろうち、どちらでも構わないのではないでしょうか。以下は聖書の中にない言葉ですが、その概念については言及されています。

 

  •  無神論:無神論は、神は存在しないという教えです。 「愚か者は心の中で『神はいない』と言う。」(詩篇14:1)
  •  受肉:これは神が人となられたという教えです。「受肉」という言葉は聖書にはありませんが、これは間違いなく聖書で教えられています(ヨハネ1:1、14)。
  •  一神教:一神教とは、神はただ一人であるという教えです(イザヤ43:10、44:8)。
  •  携挙:携挙とは、キリストの空中再臨の際、キリストにあって死んだ者がまず栄光の体によみがえり、次に生きているクリスチャンが死を経験しないで栄光の体に変えられ、再臨のキリストに会うために空中に挙げられるという教えです(1テサロニケ4:16-18)。

 

ですから、「三位一体」という言葉が聖書にないので三位一体の教えは真実でないというのは根拠のない議論です。さらに、もし神が私たちに三位一体を信じてほしいと願われたなら、神はそれを聖書ではっきりと教えていただろうということもまた根拠のない議論です。何かが有効であるためには、それが聖書で明確に述べられていなければならないという必要はありません。聖書で教えられているすべてのことが完全に明確であるわけではありません。 黙示録を見てください。そこには聖書のすべてを調べたうえで解釈されるべき不可解なものが多く含まれています。それでも、いくつかの意味については意見の相違があります。それでも、私たちがそれらを発見できるかどうかに拘わらず、そこにある真実は真実であることを私たちは知っています。 にもかかわらず、三位一体の一面を示す御言葉があります。

 

  •  マタイ28:19:「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、」
  •  2コリント13:13: 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」
  •  エペソ4:4-7:「あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。 しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。」
  •  ユダ20-21:「しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」

 

 

 


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