キリスト教の異端の多くは、イエスに知らないことがあった(マタイ24:36)ことや、イエスに知恵が増し加わった(ルカ2:52)ことや、父なる神が自分より偉大だと言われた(ヨハネ14:28)ことなどの御言葉を引き合いに出しながら、キリストの神性に関する教義を攻撃します。彼らは、もしイエスが神であれば、すべてを知っているはずであり、知恵が増し加わることもなく、父なる神より劣るということもないと主張するのです。残念ながら、彼らは意図的に(それが彼らの教義に合わないので)、あるいは無知のゆえに、イエスが神の律法のもとで完全な人として働かれたその謙卑の姿を示す聖句を引用することを怠っています。
さらに、異端の人々は、イエスの神性に関する彼らの批評に対するクリスチャンの応答を取り入れようとしません。つまり、クリスチャンの答えに応じたり、それを取り入れたりする代わりに、彼らは自分たちの反論に対する答えを無視しながら、いつまでも同じ質問をし、同じポイントを指摘し続けています。時どき、彼らはクリスチャンの答えは理解できないと言います。ところが、ほとんどの場合、それらの答えが不合理であるとか、聖書的でないという理由ではなく、ただ気に入らないという理由でクリスチャンの答えを払いのけるのです。
それでは、異端の人たちがキリストの神性を否定するために持ち出す聖書の御言葉と概念を取り上げ、なぜ彼らの論法が間違いなのかを明らかにしたいと思います。ここでは、イエスの謙卑と、イエスが律法のもとにおられたという事実に関連づけながら説明します。
1.イエスの受肉: 人となられた神、位格的結合
2.イエスの謙卑とその結果
3.イエスの謙卑を扱っている御言葉
1.イエスの受肉: 人となられた神、位格的結合
おそらく異端の中で最も一般的なキリスト教の教義に関する誤解は位格的結合です。それはイエスの本性には神性と人性の二つがあるということです。ヨハネ1:1、14には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。……そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」と言われています。
イエスが同時に人であり神であることなどあり得ないとする論理的な理由は何もありません。それは論理的に不可能なことではないのです。問題は、それが聖書の教えであるかどうかということです。では聖書は何と言っているでしょう?
ヨハネ1:1、14 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。……そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
ヨハネ20:28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
コロサイ2:9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており
コロサイ1:19 神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ
ピリピ2:6-8 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
ヘブル1:8 御子については、「神よ、あなたの御座は、世々限りなく続き、あなたの支配のつえは、公平のつえである。
以下の簡単なリストは、イエスが同時に神と人であられたという教義を支持する聖句です。これはすべてではありませんが、聖書が示すイエスの神性と人性の両方をすばやく見るための助けになるはずです。
イエスは神である:
① イエスは礼拝される(マタイ2:2、11、14:33)
② イエスは祈られる(使徒7:59)
③ イエスは神と呼ばれた(ヨハネ20:28)
④ イエスは神の子と呼ばれた(マルコ1:1)
⑤ イエスは罪がない(1ペテロ2:22、ヘブル4:15)
⑥ イエスはすべてを知っておられる(ヨハネ21:17)
⑦ イエスは永遠の命を与えられる(ヨハネ20:31)
⑧ イエスは神の満ち満ちた性質が宿っている(コロサイ2:9)
イエスは人である:
① イエスは父なる神を礼拝した(ヨハネ17章)
② イエスは父なる神に祈った(ヨハネ17:1)
③ イエスは人だと言われた(ヨハネ19:5)
④ イエスは人の子と言われた(ヨハネ9:35-37)
⑤ イエスは誘惑された(マタイ4:1)
⑥ イエスは知恵が進んだ(ルカ2:52)
⑦ イエスは死んだ(ローマ5:8)
⑧ イエスは肉体を持っていた(ルカ24:39)
というわけで、イエスの本性には神性と人性の両方があるということ、つまりイエスは人であると同時に神なのです。これは論理的にあり得ないことではなく、聖書によって支持されていることなのです。
2.イエスの謙卑の本質とその結果
ひとりの人間として、またユダヤ人として、イエスはへりくだり、律法の下に置かれ、御使いよりも低いものとされました。そのために、イエスは謙卑の状態で行動しなければなりませんでした。それは、ひとりの人間として、また完全に神の律法のもとに置かれている人間として行動しなければならなかったということです。では以下の事柄を再検討しましょう。
1.イエスの受肉は、言が肉体となった、人となった、という意味です。
ヨハネ1:1、14 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。……そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
2.イエスはご自身をむなしくされた。
ピリピ2:5-8 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
3.人間として、イエスは律法にもとにおられた。
ガラテヤ4:4 しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。
4.人間として、しばらくの間、イエスは御使いよりも低いものとされた。
ヘブル2:9 ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。
私たちは既に、イエスが肉体を持った言(神)であること(ヨハネ1:1、14;コロサイ2:9)、そしてひとりの人として現われ、ご自身を死に至るまで低くされた(ピリピ2:8)ことを見てきました。また私たちが理解しなければならないことは、イエスが律法のもとに置かれ(ガラテヤ4:4)、御使いたちよりも低い者とされた(ヘブル2:9)ということです。これは非常に重要なことです。なぜなら、父の御心を行いながら地上を歩まれたイエスから何を期待すべきかを私たちに伝えてくれるからです(ヨハネ5:30)。
律法の下にあるとは、イエスが律法に従わなければならなかったという意味です。これは、イエスが人であり、ユダヤ教の律法に従うべき善良なユダヤ人でしたから当然です。また、イエスは肉体を持った神であり、神として律法を与えられたので、当然それを守るべきでした。
神は律法を語られました。律法は神の性質の反映です。神は嘘をつかないので、嘘をつくことは間違いです。神は偽りの証言をしないので、偽りの証言をすることは間違いです。律法は神の本質と属性を映し出しているのです。神は律法を道徳的真理の啓示として私たちに語られました。イエスは心に満ちていることを口が話すと言われました(マタイ12:34)。したがって、イエスは肉体を持った神として、神がその心に満ちていることを語られた律法に従って生活し、またそれを映し出されたのです。
律法の下にある
言(神)が律法の下にあるためには(ガラテヤ4:4)人間にならなければならず、女から生まれなければなりませんでした。また、律法の下にあるということは、イエスが割礼を受けなければならなかったことを意味します。これはイエスが赤ん坊であった場合にだけ起こり得たことです。それからイエスは知恵が進み、背丈が大きくなったのです(ルカ2:52)。この事は、出エジプト20:12によれば、イエスが両親の影響を受けることを意味します。それは、イエスが、彼を遣わされた御父の意志を増し遂げるために働きを開始する時を適切な時期まで待たなければならなかったことを意味します。しかし、これらのもののいずれもイエスの神性を否定するものではありません。
律法の下にあるということは、イエスが人であり、人として行動しなければならず、また人であるということは、人であるがゆえの限界があり、人である間はある範囲においての制限を経験することを余儀なくされていたことを意味します。もちろん、それはイエスが神性を備えておられなかったという意味ではありません。それは、イエスがご自分を無にして、人間になられ(ピリピ2:7)、律法の下で、人間であることの限界にまで御父に従順であられたことを意味します。さらにまた、イエスは聖霊の力によってご自身のすべての奇跡を行なわれたのです。
聖霊の力によって
イエスは、メルキゼデクに等しい祭司職に参入するために洗礼を受けられました。それはイエスが聖霊の油注ぎを受け、聖霊の力によってすべての奇跡を行なわれたことを意味するもので非常に重要です。なぜなら、イエスは完全に律法のもとに生まれた人間であられたからです。つまり、こういうことです。
イエスは、祭司職に就くための法的要求を満たさなければならなかったので、洗礼を受けられました。イエスはメルキゼデクに等しい大祭司でした(詩篇110:4、へブル5:8-10、6:20)。大祭司は、人々に代わって神に犠牲をささげました。イエスは、大祭司としてのご自身の役割において、私たちの罪のための犠牲となられました(Iペテロ2:24、IIコリント5:21)。大祭司として聖別されるために、イエスは水の洗いを受けなければなりませんでした(レビ記8:6、出エジプト29:4、マタイ3:16)。そして、イエスが洗礼を受けられたとき、水のバプテスマの中でこれが果たされました。イエスは注ぎの油によって聖別されなければなりませんでした(レビ記8:12、出エジプト29:7)。これは、聖霊が鳩のようにイエスの上に降った時に成就しました。この両方がイエスが洗礼を受けられたときに果たされたのです。
さて、マタイ12:22-32を見ると、イエスが悪霊を追い出しておられるのを見ます。パリサイ人たちは、イエスが悪霊の力によってそれをしていると言いました。しかし、イエスはどんな罪も冒涜も赦されるが、聖霊に逆らう冒涜は赦されないと言われました。なぜでしょう? それは、イエスが完全に律法のもとで人として機能しておられたので、聖霊が私たちを通して奇跡を行なわれるのと同様に、イエスは聖霊の力によって奇跡を行なっておられたからです。
御使いよりも低い
へブル2:9は、イエスがしばらくの間、御使いよりも低くされたと言っています。これは、イエスがへりくだりの姿でおられたことを意味します。御使いは、その力と精神的な能力において人間よりもはるかに偉大な存在です。イエスは、その御使いよりも低くなられたのです。つまり、イエスは人間になられたのです。イエスは、創造におけるすべての働きの上にご自身の主権を行使しておられたわけではありません。これはさらに、イエスが律法のもとにある人間のように、動き、歩き、語り、生きて、行動しておられたことを意味します。
これはどういう意味?
イエスは人として、御使いよりも低くされたので、この謙卑の状態にはある要素がありました。
・ イエスは、律法の下にある者とされた(ガラテヤ4:4)
・ イエスは、ご自分を送られた父の影響を受けられた(ヨハネ5:30)
・ イエスは、割礼を施される(ルカ2:21)
・ イエスは、知恵と背丈が成長する(ルカ2:52)
・ イエスは、すべてのものを知るというわけではない(マルコ13:32)
・ その他
上記の事実は、キリストの神性を否定するものではありません。神は簡単に人になることができ、へりくだり、人性を身に付け、それから律法の下に置かれ、成長し、学ぶことができました。これは人になられたことの自然な結果だと言えます。そして、それはキリストの神性を否定するものではなく、「言は肉体となった(ヨハネ1:14)」ということが完全な人になったことを意味するだけです。それは、コロサイ2:9で、「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており」と言われているとおりです。
では、上記の事柄を例証する御言葉を見て、これらについてどんな事が言えるかを見てみましょう。
3.イエスの謙卑を扱っている御言葉
1. マタイ20:23 「イエスは彼らに言われた、『確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである』」。
a. イエスは、父に与えられた成すべきことを成し遂げるために父によって遣わされました(ヨハネ5:30、Iヨハネ4:10)。イエスはご自身のうちに神の満ち満ちたご性質を宿した、言が人となられた方なので、イエスについてのこの記述はイエスの神性を否定するものではありません。イエスは完全な人であり、人として当然、父に従わなければならなかったのです。
2. マルコ13:32 「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」
a. イエスは、ご自分を空しくして人となられたので、人であるがゆえの限界をお持ちでした。したがって、イエスはすべてのものをご存知なわけではありませんでした。しかし、ヨハネ21:17で、ペテロがイエスに、「主よ、あなたはすべてをご存知です」と言ったとき、イエスはそれを否定されませんでした。このポイントは、イエスの復活以前は、イエスはすべてのものを知ったおられるわけではなかったと言われていますが、復活以降は、すべてを知っておられた、ということです。それでいて、イエスは復活の体を持っておられたがゆえに、復活後も人であられたのです(ヨハネ2:19-21、ルカ24:39)。
3. ルカ2:52 「 イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された。」
a. イエスはマリヤから生まれました。ピリピ2:5-8によれば、イエスは神のかたちであられましたが、ご自分をむなしくして人間の姿になられました。人間であるためには、生まれなければなりませんでした。もしイエスが女から生まれたのであれば、イエスは当然、成長し、学ぶことでしょう。これは、神である言が肉体となり(ヨハネ1:14)、人間として成長することと完全に一貫しています。
b. もしイエスが二つの性質を持っておられるなら、またもしイエスに人間であることの制限があるなら、イエスの神としての性質が人間としての制限を受けられたことを意味します。
4. ルカ18:19 「イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。」
a. イエスはご自分を良くないと言っておられるのでしょうか? もちろんそうではありません。イエスは、ご自分が良き羊飼いであると言われたとき(ヨハネ10:11)、ご自分を良い者と言っておられます。イエスはご自分の神性を否定しておられるのではありません。もし神だけが良い者であり、ご自分を良い羊飼いと言われるのであれば、イエスは神であるに違いないのです。
5. ヨハネ5:19 「さて、イエスは彼らに答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。」
a. イエスは、人として、聖霊の力によって奇跡を行なっておられました。そういうわけで、イエスは父がなさるのを見たことだけをされたのです。では、御使いは父なる神がなさることを何でもすることができるでしょうか? それはほとんど無理なことです。神が人となられたイエスだけが父がなされたことをすることができるのです。
b. ご自分からは何もされないのは、ご自分をむなしくして人間になり(ピリピ2:5-8)、父の御心を行なうために、単に喜んで父に従うことをされたということを意味します。これは、御使いよりも低くされ、律法の下に置かれ、人間であるために必要なことでした。
c. 私たちは自分自身で何かをすることができるでしょうか? もちろん出来ます。私たちは自由に歩いたり話したりすることができます。イエスもそうでした。では、イエスが言われたことはどういう意味だったのでしょうか? おそらく、イエスは神の御心を行なうために来られたので、ご自分の御心は何一つされなかったということなのでしょう。
6. ヨハネ5:20 「なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである。そして、それよりもなお大きなわざを、お示しになるであろう。あなたがたが、それによって不思議に思うためである。」
a. 人として、また父に従うものとされているなら、父はイエスにすべてをの事をお示しになるでしょう。
b. 父は他の誰にもすべてのものを示されたりはなさいません。御子にだけでしょうか? なぜでしょう? おそらく、肉体をとられた神として、イエスはご自分の示されるすべての事を知り、理解することができたからでしょう。
7. ヨハネ5:22 「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。」
a. さばきは確かに御子に委ねられました。その理由は、イエスがご自分を低くして人間になり、律法の下に置かれたからでした。したがって、父はイエスに人をさばくことを委ねられたのです。これは人間であることの必然的な結果です。それは、イエスが神ではないという意味ではなく、イエスが人間であるという意味です。
b. また、これは神がすべての人間をさばく方ではないということでしょうか? どうしてそのようなさばきが御使いや単なる人間に委ねられることができたでしょうか? すべての人を公正にさばくためには、さばく者はさばく人の人生についてすべての事を知らなければなりません。神だけがそのような知識をお持ちです(ヨハネ21:17)。
8. ヨハネ5:26 「それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。」
a. イエスは、律法の下にある人として、父の御心を行なう者のように動き、行動しておられました(ヨハネ5:30)。これはイエスが人であられたので、妥当なことです。したがって、人として、命は父から与えられていたのです。イエスは、神としてではなく、人間として語っておられるのです。
9. ヨハネ5:27 「そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。」
a. イエスは、律法の下にある人として、人であるがゆえの制限をお持ちでした。また、人として、権限が与えられるべきでした。イエスは神の性質から外れて活動しておられたのではなく、人として律法を完全に満たすために活動しておられたのです。
10.ヨハネ5:30 「わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。」
a. イエスは父の御旨を行なうために来られたので、自分からは何事もすることができませんでした。それはご自分の意志を行なうことがイエスの目的ではなかったからです。その代わりに、イエスは父のなされた事(ヨハネ5:19)は何でもなさいました。イエスの食物は、父の御心を行なうことでした(ヨハネ4:34)。これは、イエスが神でないという意味ではありません。それは、位格的結合の教義が教えているように、イエスが完全な人であったという意味です。
11.ヨハネ6:37 「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」
a. この御言葉のどこがイエスが神でも人でもないことを意味しているでしょうか? どこにもそんな事は言われていません。受肉に関するキリスト教の教義は、イエスが神であり人であるということで、イエスが人になるためにご自分を低くされたということです。人として、ご自分の意志を行なうために来られたのではありません。イエスは、単に父の御旨を行なうために天から来たと言っておられるのです。これは、イエス(ことば)が人間になる前に父と共に天におられたことを意味します。
12.ヨハネ8:28 「そこでイエスは言われた、「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。」
a. イエスは父の御旨を行なうために来られたので、自分からは何もすることができませんでした。それはご自分の意志を行なうことがイエスの目的ではなかったからです。その代わりに、イエスは父のなさる(ヨハネ5:19)のを見た事は何でもなさいました。イエスの食物は、父の御心を行なうことでした(ヨハネ4:34)。これは、イエスが神でないという意味ではありません。それは、位格的結合の教義が教えているように、イエスが完全な人間であったという意味です。
13.ヨハネ14:28 「父がわたしより大きいかたであるからである。」
a. イエスは御父より低くされていたので、「父がわたしより大きい(偉大である)」と言うことができました。これはイエスの神性を否定するものではなく、まさに妻が(家庭での権威において)夫よりも低い位置にいるというのが、彼女が夫とその立場において違うということを意味しているのと同じです。
b. イエスは単に立場のことを言っておられるわけで、属性について言っておられるのではありません。イエスは、「わたしと父は一つである」(ヨハネ10:30)と言われましたが、その後で、ユダヤ人たちはイエスがご自分を神であると主張していると言ってイエスを殺そうとしました。
14.ヨハネ17:3 「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」
a. 人として、イエスには神と呼ぶ方がいました。その場合、ユダヤ人にとってそうであったように、イエスは御父を唯一の真の神と呼びました。
15.使徒行伝2:36 「だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。
a. イエスは御父から遣わされました(Iヨハネ4:10)。イエスは人となられました(ヨハネ1:14)。したがって、イエスは謙遜で身を低くされ、律法の下におられたので、御父により主またキリストとして立てられたのです。
b. ある人たちは、イエスが神であるならば、主またキリストになられる必要はないのではなかと言います。しかし、「主」と「キリスト」という用語は両方とも神を意味します。なぜなら、もしイエスが神であるならイエスは既に「主」だからです。「主」という言葉が神を意味する場合にのみ、正当な異論を唱えることができます。もしそうであれば、「イエスは主である」という言葉は、イエスが神であることを意味するでしょう。イエスは主であり、イエスはキリストなのです。
c. ある人は、イエスは復活の時に主となられたと言います。しかし、イエスは復活の前に主でした。「家にはいられると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが『わたしにそんなことができると信じるのか。』と言われると、彼らは『そうです。主よ。』と言った。」(マタイ9:28) 「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。』と言った。」(ルカ5:8) では、イエスはいつ、どのような意味で主とされたのですか?
16.Iコリント11:3 「しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。」
a. イエスは受肉により父なる神よりも低い位置におられたので、父なる神がイエスのかしらなのです。これは律法の下で人とされることの自然な状態です。ちなみに、イエスは永遠に人です。(1テモテ2:5、ヘブル7:25)
17.Iコリント15:28 「そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。」
a. イエスは人です(1テモテ2:5)。イエスはメルキゼデクに等しい永遠の大祭司であられ、私たちのために永遠に執り成しをしておられるのです(へブル7:25)。人として、イエスは永遠にご自身が父と呼ばれる方に服従されます。これは私たちの贖いをもたらしたイエスのへりくだりの結果です。これは位格的結合の教義とも一致しており、一人の人キリストの内に人であり神であるという二つの性質があるのです。
18.へブル2:10 「なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。」
a. 人として、イエスは苦難を通して働きを全うされました。人として、イエスは完全にされました。つまりイエスは完成したなだめの働きのための完全な犠牲でした。ヘブル10:14は、「なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです」と言っています。
19.へブル2:17 「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。」
a. これが必要なのは、イエスが人であり神だからです。人として、イエスはあらゆる点において兄弟たちのようになられました。しかし、これは決してキリストの神性を否定するものではありません。
結論
イエスが働きを成し遂げられる間、限られた環境の中で動かれたという事実は、イエスが神ではないという意味ではありません。それは、イエスがしなければならなかったことをするために、人であることの制限に同意されたことを意味します。 イエスは神と人という二つの性質をお持ちでした。イエスはご自分を無にして人となられ(ピリピ2:7)、律法の下にある人として制限を受けられることに同意されたのです。
最後に、異端が、制限されたイエスの行動はイエスが神であり得ないことを意味するのではないかと言うなら、彼らはイエスがすべてを知り、常に存在しておられるという御言葉をどう理解するでしょうか?
1. ヨハネ21:17 「イエスは三度目に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。ペテロは『わたしを愛するか』とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、『主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています』。イエスは彼に言われた、『わたしの羊を養いなさい』」。
a. イエスの復活後、イエスは栄光の体を持っておられたので、ペテロが、イエスはすべてをご存知ですと言ったとき、イエスはペテロを正されませんでした。
2. マタイ28:20 「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」
a. イエスはこれを弟子たちに、またすべてのクリスチャンに語られました。イエスは、いつでも彼らと一緒におられると言われました。これは、イエスが遍在しておられる場合にのみ可能なことです。偏在性は神にしかない性質です。
もしイエスが学ばれたから神ではないというなら、もしイエスがすべてを知っておられたなら、イエスは神であられるのではないでしょうか。もしイエスが人だから神ではないと言うなら、イエスはすべての弟子たちと共にどこにでもおられるので神でなければなりません。
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