4.教理② イエス・キリスト、聖霊、救い

 

1. イエス・キリスト

A. イエスは創造者である(ヨハネ1:1-3;コロサイ1:15-17)
B. イエスは被造物ではない(ヨハネ1:1-3;コロサイ1:15-17)
C. イエスは肉体を持った神である(ヨハネ1:1、14;8:58;コロサイ2:9;ピリピ2:5-8)
D. イエス・キリストの受肉とその神性

① イエスは、一つの人格の中に二つの二つの性質を持っておられる。イエスは、神と人との性質を半分ずつ持っておられるのではなく、神であり、また人間である。つまりイエスは完全な神であり、同時に完全な人でもあられたわけである。これがイエス・キリストの二性に関する正しい立場である。(コロサイ2:9; ピリピ2:5-8; ヨハネ8:58)

② イエスは、永遠に神と人との両方の性質を持たれる。

③ イエスは、処女マリアからお生まれになった(マタイ1:18; ルカ1:35)。

イエスは、律法のもとに生まれ(ガラテヤ4:4)、神の律法のすべてを成し遂げ(ヨハネ4:34)、しかも十字架の死でさえも全うされた(ピリピ2:8)。またイエスは、十字架の死によって、私たちのために呪われた者となり、私たちを律法の呪いから贖い出して下さった(ガラテヤ3:13)。それゆえ、キリストの死によって、人間の罪が裁かれ(ローマ3:23-26)、その罪が忘れられた(へブル8:12)。そして、キリストの義の行為は私たちに永遠の命をもたらしたのである(ローマ5:18)。

④ イエスは、礼拝をされる方である(マタイ2:2、11;14:33;ヨハネ9:35-38;)

⑤ イエスは、祈られる方である(使徒7:55-60;詩篇116:4;ゼカリヤ13:9;Iコリント1:1-2)

⑥ イエスは、神と呼ばれる(ヨハネ1:18、20:28)。

⑦ イエスは、神の本質の完全な現れである(へブル1:3)。

E. キリストの死と贖罪

① イエスは、十字架の上で、世の罪をご自分の身に負われた(Iペテロ2:24;Iヨハネ2:2)

② イエスは、神の怒りを静めるための、なだめの供え物であった。

③ イエスは、私たちの罪を償って下さった。そして、私たちの神との間違った関係を正しいものにし、その流された血で私たちを罪から清めて下さった(レビ17:11; へブル9:22; ローマ5:9; Iヨハネ1:7-9)。それによって、神と私たちの間にあった敵意を取り除いて下さったのである(ローマ5:10)。

④ イエス・キリストは誰のために死なれたのか? ― ある人は羊(クリスチャン)のためだけに死んだと言う(ヨハネ10:11、15)。羊とはクリスチャンのことであり、山羊はノンクリスチャンのこと(マタイ25:32-46)。

⑤ またある人は、イエス・キリストはすべての人のために死なれたと言う(Iヨハネ2:2)。どちらにも根拠がある。

F. キリストの復活(ヨハネ2:19-21; Iコリント15:1-4)
イエスの体は復活した。その体がどのような体であったかは正確には誰にも分からないが、復活の体の性質についてはパウロがIコリント15:35-58で説明している。

G. 今現在、イエスは天におられ、今も、またいつまでも神と人との二性を持っておられる(Iテモテ2:5)

① この理解は、イエスが永遠に大祭司であられるので、非常に重要である。「その幕の内に、イエスは、永遠にメルキゼデクに等しい大祭司として、わたしたちのためにさきがけとなって、はいられたのである」(へブル6:20)。霊は大祭司にはなれない。人間だけがなれるのである。さらに、「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである」(へブル7:25)とあるように、イエスはいつも生きて、私たちのための執り成しをしてくださるのである。

H. キリストの昇天(使徒1:1-11)

① 復活の後、イエスは40日の間、弟子たちの前に姿を現わし、彼らに対する教えを完了された。

② 旧約聖書における雲の意味するところから(出エジプト40:34; 列王記上8:10; ルカ9:34)、神の栄光と臨在として、私たちには、イエスの栄光ある昇天を期待する必要性がある。

③ イエスは、使徒たちの目の前で昇天し、その見たありのままを彼らは書き残した。

I. キリストの神性に関する教義に反する教え:

① Docetism(キリスト仮現論):イエスは本当は霊であって、人間のように見えただけである。

② Gnosticism(グノーシス主義):イエスは、肉体を持ったことのない天のキリストによって連れて行かれた人間であるに過ぎない。天のキリストは十字架に付けられる前に天に戻られた。

③ Arianism(アリウス主義):イエスは、神よりもわずかに低いものとして創られ、それからイエスが万物を創造した。

J. キリストの二性に関する教義に反する教え:

① Kenosis(神性放棄):イエスは肉体を持つことによって自分を少し劣るものとした。
例:(神) ― (ある物) = 神よりも劣るもの

② Eutychianism(エウティケス主義):イエスの二つの性質は完全に混ぜられていて識別できない。

③ Nestorianism(ネストリウス主義):キリストの位格は一つではなく、神格と人格の二つの位格に分離される。

④ Monophysitism(キリスト単性論):二つの性質が結合して一つになり、新しいタイプの存在となった。(とすれば、イエスは神でも人間でもなく、何か別のものになってしまう)

2. 聖霊

A. キリストの昇天によって、キリストの仲介(Iテモテ2:5)と聖書を通して教会に働く聖霊が私たちの所に来られた(ヨハネ14:26; 使徒2章)。
B. 聖霊は完全な神である。非人格的な力などではない。三位一体の第三位格の神である。
① 聖霊は意思を持つ ― Iコリント12:11
② 聖霊は語る ― 使徒13:2
③ 聖霊は愛する ― ローマ15:30
④ 聖霊は悲しむ ― エペソ4:30
⑤ 聖霊は罪を宣告する ― ヨハネ16:8
⑥ 聖霊は創造者 ― 創世記1:2; ヨブ33:4
⑦ 聖霊は賜物を与える ― Iコリント12:8
⑧ 聖霊は執り成しをする ― ローマ8:26
⑨ 聖霊は教える ― ヨハネ14:26
⑩ 聖霊はイエスを証しする ― ヨハネ15:26
⑪ 聖霊はバプテスマを授ける ― Iコリント12:13
⑫ 聖霊は真理に導く ― ヨハネ16:13
⑬ 聖霊は励ます ― 使徒9:31
⑭ 聖霊は権限を与える ― ミカ3:8
⑮ 聖霊は喜びを与える ― ローマ14:17
⑯ 聖霊は慰める ― ヨハネ14:16-26

C. 聖霊は、信者の中に住み(ローマ8:11)、彼の内に聖化をもたらすために働き続けられる(ローマ16:15)。

D. 聖霊は、信者の心を照らして(Iコリント2:12、13)、彼に神のことを明らかにされる(Iコリント2:10、13)。

3. 救い

A. 救いとは、罪人の上に下される神の裁きからの救出である。この裁きは、神からの罰であり、神が救われていない者を永遠の火の海に投げ込まれることである。救われた者は天国に行き、主と共に永遠に生きる。
B. 神は救いのためのいわばソールエージェントである(エペソ2:8-9; ヨハネ1:12-13; 使徒13:48)。人は、救いを得たり、それを守ったりするために何かをするのではない。もし人が、自分の救いのために何かをする必要があったとしたら、イエスの死は無駄だったことになる(ガラテヤ3:21)。
C. 救いは信仰によるのであり、行いによるのではない(ローマ3:21、4:5; ガラテヤ3:21)。救いは無償の贈り物である(ローマ6:23; エペソ2:8-9)。
D. 救いにおいては、クリスチャンの罪は十字架上のキリストに負わされ、キリストの義の報いはクリスチャンのものとなる。
E. 選びに関する救いの二つの見解
① 自由意志 ― 人は、自分の中にある資質と能力に基づき、完全な自由をもって、神を受け入れることも拒絶することもできる。
② 運命 ― 神は誰を救いに導くかを既に定めておられる(エペソ1:1-11; 使徒13:48)。人間の側には神を選ぶことは許されていない。神が人を召されるのである。

4. 義認と聖化

A. 義認とは、神の前に有罪判決を受けていた私たち罪人が、キリストの贖いのゆえに無罪とされ、義人と認められる瞬間的な出来事である。

  • 聖化とは、私たちが聖なる働きのために罪から聖められることであり、聖霊によって私たちが主の似姿に変えられていくことを意味する。
  • 義認が神の前で義と宣言される立場であるのに対し(ローマ4:5; 5:9)、聖化は、理解や考えや行動における、クリスチャンの聖さの成長のことである(Iテサロニケ4:3-7)。
  • 聖化は聖霊によってクリスチャンの内に御霊の実が結ばれることである(ガラテヤ5:22,23)。
  • クリスチャンの聖化はキリストに結ばれている。「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2:19,20)

 

 

 

5. 教会

 

  1. 教会は、見える教会と見えない教会の二通りに捕らえることができる。

①    見える教会とは、キリストの弟子であることを告白し、聖日ごとに礼拝を捧げ、御言葉に聴き、祈りを捧げ、交わりを持つ者たちの群れ。

②    見えない教会とは、その頭なるキリストのもとに、時代を超え、民族を超え、場所を越え、ひとつに集められたキリスト者の群れ。

 

  1. 教会は、キリストを頭とする(エペソ5:23)キリストの体と呼ばれる(エペソ1:22-23)。
  2. 教会は一つの神の下に(エペソ4:4)結び合わされている(エペソ4:1-16)。
  3. 教会は聖なるものでなければならない(Iコリント1:1-2; エペソ5:27; Iペテロ2:9)。
  4. 教会はすべての人に対して開かれ(ヨハネ3:16)、神の言葉を語らなければならない(マタイ28:19-20)
  5. 教会はキリストの花嫁(エペソ5:22-23; 黙示19:7)、長子たちの教会(へブル12:23)、神の教会(Iコリント1:2)、神の建物(Iコリント3:9)などと呼ばれている。

 

6. 復活

 

  1. 復活とは、キリストにあって死んだ者が朽ちない体によみがえることである(Iコリント15:42、52-54)。

①    一般に、神は死人をよみがえらせることができる(IIコリント1:9)。特に、イエスは死人をよみがえらせると言われている(ヨハネ5:21、25、28、29; 6:38-40、44、54; Iテサロニケ4:16)。

②    それはまた聖霊の働きと言われている(ローマ8:11)。

  1. 復活はキリストの再臨のときに起こる(Iテサロニケ4:16-17; Iコリント15)。
  2. 復活は肉体を伴なうものである。

①    イエスは、復活の初穂(Iコリント15:20、23)、また死人の中から最初に生まれた者(コロサイ1:18; 黙示1:5)と呼ばれている。また、イエスは肉体を伴なって復活された(ヨハネ2:19-21; ルカ24:39)。したがって、私たちも同じように肉体を伴なって復活するのである。

②    私たちの復活の体がどういうものであるかについて正確には分からないが、それはイエス・キリストの復活の体のようであると言われている(ピリピ3:21; Iコリント15:42-54)。それは神性を持つというのではなく、イエスの復活の体の状態でということである。

  1. 復活には義人と罪人の復活がある(使徒24:15)。

①    義人、つまりクリスチャンは永遠の命のために復活する(マタイ25:31-34)。

②    罪人、つまりノンクリスチャンは永遠の裁きのために復活する(マタイ25:4-46)。

 

 

7. ミレニアム(千年王国)

 

  1. ミレニアムとは1000年期という意味です。このミレニアムに関しては三つの主な見解があります。

①    Amillennialism(アミレニアリズム/無千年王国説)――「千年」を教会時代の象徴的表現と取り、再臨のときに復活や審判が起こり、新天新地が創られるという説。

②    Premillennialism(プレミレニアリズム/千年期前再臨説)――キリストの再臨の後、サタンは縛られ(黙示20:1‐3)、地上に千年王国が建てられ、キリストが聖徒と共に統治する(黙示20:4; 5:10)という説。この期間が終わると、サタンは反逆を導くために解き放たれ、イエスに戦いを臨み、滅ぼされ、最後の審判を経て、新天新地が創られる。

③    Postmillennialism(ポストミレニアリズム/千年期後再臨説)――福音が漸次全世界に浸透し、ついには豊かな霊的祝福の時代が出現し再臨の時を迎えるという説。

  1. ミレニアムが文字通りの、または、比喩的な期間であるかどうかについては議論のあるところである。ある人は、この期間は文字通り1000年でなければならないと言い(黙示20:2)、他の人は、この期間は比喩的に解釈されてもいいと言う(IIペテロ3:8)。この両者共、この問題に対して非常に良い議論を持っている。
  2. 歴史的には、教会は、過去2000年間、主にアミレニアリズム(無千年王国説)とプレミレニアリズム(千年期前再臨説)の立場を交互に取ってきた。

 

 

8. 掲挙

 

  1. 掲挙とは、キリストの再臨の時に起こることで、キリストにあって死んだ者が先に復活の体によみがえり、続いて生きているクリスチャンたちが復活の体を与えられ、空中に再臨しておられるキリストのもとに引き上げられることである(Iテサロニケ4:15-17)。
  2. 掲挙に関する主な議論は、それが艱難時代との関わりの中でいつ起こるかということである。これについては、主に三つの見解がある。

①    Pretribulationism(大艱難前再臨説)――掲挙は艱難時代の前に起こる。

②    Midtribulationism(大艱難中再臨説)――掲挙は艱難時代の途中で起こる。

③    Postribulationism(大艱難後再臨説)――掲挙は艱難時代の後に起こる。

 

 

9. 最後の審判

 

  1. これは、世の終わりに起こる(マタイ13:40-43)、すべての人に対する審判である(マタイ25:31-46)。
  2. クリスチャンに対するこの裁きは、クリスチャンの働きに関するものである(IIコリント5:10)。しかし、この裁きはクリスチャンの救いには影響がない。なぜなら、救いはキリストによるものであり(ローマ8:1)、働きは救いと何の関係もないからである(ローマ4:5)。クリスチャンの報いは、新天新地において永遠に主と共にいることである(Iテサロニケ4:17)。
  3. 不信仰な者にとって、この裁きの日(IIペテロ3:7)は、彼らのすべての行いに対する裁きとなる(使徒17:31)。不信仰な者は地獄へ落とされる(IIテサロニケ1:6-10; マタイ13:40-42)。

 

 

10. 新天新地

 

  1. すべてが完了したとき、神はすべてのものを焼き尽くされる(IIペテロ3:12)。
  2. それから神は、義とされた者たちの住む新天新地を用意される(IIペテロ3:13)。
  3. この天国は、聖なる都(エゼキエル40~48)として、また小羊の婚姻の時(黙示19:7)として、完成された都に関する文脈の中で語られているように、新しい社会生活を営む所である(へブル12:28)。
  4. 天国には、もはや結婚もなく(マタイ22:30)、死もなく(ルカ20:36)、悲しみもなく(黙示7:17)、痛みもない(黙示22:5)。
  5. この完成された状態、そして主との交わりは、いつまでも終わることがない。また夜もなくなり、神の栄光が都を照らし続けるので、太陽の光すら要らなくなる(黙示22:5)。

 

 

 

 

 

 

 


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