25.三位一体とは何か?

“三位一体”は、唯一の神が父と子と聖霊という三つの異なった人格を持っておられることを表す用語です。このそれぞれの人格は他のものとは異なりますが、その本質においては同じです。言い換えれば、それぞれが完全に神でありながら、それぞれが他の人格と完全に同じではありません。 それぞれが、意志を持ち、愛し、語るときには、「私」とか「あなた」と言います。父は子ではなく、子は聖霊ではなく、聖霊は父ではありません。それぞれが神です。しかし、三人の神ではなく、ひとりの神で、三つの個々の実体、あるいは人格があります。“実体”という言葉は、実在を持つ何かを意味し、“人格”という言葉は、個性と自己認識を表します。三位一体は、後に、父と子と聖霊として知られる神のそれぞれの位格を描写するために用いられるようになった用語ですが、本来これらのものの三つということです。

三位一体の主義に含まれているのは、自存性を持ち、不変の神として知られている唯一の存在が、全宇宙に存在するという教えの一神教であることです(イザヤ、43:10、44:6、8)。したがって、三位一体の教義は、ある評論家が言うような多神教的なものではないことに注意するのは重要なことです。三位一体説は、それが何を意味するかをよく知らないために多神教的であると言う人たちがいますが、定義上は明らかに一神教です。

三位一体

・神は三つの人格を持つ
・それぞれの人格は神である
・神は唯一である

多くの神学者が、“人格”という用語は、神の中に見られる三つの個々の実体を表すのに完全な言葉ではないことを認めています。普通、人格という言葉を使うとき、私たちは、それを独立した個人としての人間性を意味すると理解します。 しかし、神に三つの独立した存在があるわけではありません。 神は、一つの存在と一つの本質から成る三位格をお持ちなのです。数においては、神は一つです。しかし、ただ一つの神の本質の中に、私たちが“人格”と呼ぶ三つの個々の実体があるのです。

・それぞれが神の全体ではないが、三位格のそれぞれが完全な神です。
・それぞれの三位格は他の二位格とは違います。
・それぞれの三位格は他の二位格と関係はありますが、異なるものです。

“三位一体”という言葉は聖書の中には出てきません。しかし、だからと言って、その概念がその中で教えられていないわけではありません。“Bible”という言葉も聖書の中には出てきませんが、私たちはそれを使っています。同様に、“全知”、“全能”、“遍在”などという言葉も聖書には出てきませんが、私たちは、神の属性について説明するとき、これらの言葉を使います。ですから、その言葉が聖書にないので三位一体は真理ではないと言うのは、浅はかな論理です。

三位一体には従属関係があるか?

明らかに、本質においてではなく、順序に関して、三位一体の中には従属関係があります。そこには、父が第一で、子が第二、聖霊が第三であることを見ることができます。父は生み出されていませんが、子は生み出されました(ヨハネ3:16)。聖霊は父から出ています。父は子を遣わされました(Iヨハネ4:10)。子と父は聖霊を遣わしました(ヨハネ14:26; 15:26)。父は創造の業を(イザヤ44:24)、子は贖いの業を(ガラテヤ3:13)、聖霊は聖めの業を(ローマ15:16)なさいます。

この順序としての従属関係は、神格のそれぞれが等しくない、また神ではないということを意味しません。 例えば、父が子を送られました。しかし、これは、子がその本質と神性において父と等しくないことを意味するものではありません。子は、彼の神性においては父と等しいのですが、彼の人性においては劣るのです。妻は夫に従うべきものですが、これは彼女の人間性、本質、または平等を否定するものではありません。あるいは、王と使用人は、共に人間です。しかし、王は自分の意思を行なわせるために使用人を遣わします。イエス様は、「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うのではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。(ヨハネ6:38)」と言われました。つまり、遣わされたとしても、それが遣わしたものと本質を異にすることにはならないということです。

三位一体の批評家は、その従属関係を三位一体が誤りである証拠とみなします。彼らは、もしイエスが本当に神であるなら、すべての領域において父なる神と完全に等しいので、いかなる部分においても父に対する従属関係はないと言います。しかし、この異論は論理的ではありません。王と使用人の例を見ても、使用人が遣わされたからといって、もはや人間ではないとは言えないのです。遣わされるということは、本質における同一性を否定するものではありません。したがって、子を遣わすという事実は、子がもはや神ではないということを意味しないのです。妻からパンを買いに遣わされても、それで夫が人間でなくなるわけではありません。

これは紛らわしいか?

三位一体に関するもう一つの重要なポイントは、それが把握するには難しい概念であるということです。しかし、これはその正当性に対する議論を必要としません。それどころか、それが難しいという事実は、真理のための議論だからです。聖書は無限の神の自己啓示です。したがって私たちは、特に、どこにでも、いつでも存在するというような不可解な神に対応するとき、理解し難い概念に遭遇するのです。ですから、父と子と聖霊の中に表された神の記述と属性を見るとき、私たちは、神の本質と属性に関する完全に理解し易い説明など不可能であることが分かるのです。しかしながら、私たちがしてきた事は、聖書から理解できる真理を引き出し、私たちが三位一体と呼ぶ教義にそれらを結合することです。三位一体は、ある意味において謎です。結局、私たちは神ご自身に対処しているのです。

カルトのやり方は、自分たち頭で神を分かりやすく理解できるように、聖書の真理を引き下げるという方法です。このために、彼らは神の言葉を自分たちの都合のいいように受け止め、挙句の果てに間違って解釈してしまうのです。以下の御言葉は、三位一体の教義が聖書的であることを示すのにしばしば用いられるものです。

マタイ28:19 - 「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し」

Iコリント12:4-6 - 「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。努めは種々あるが、主は同じである。働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことなさる神は、同じである。」

IIコリント13:13 - 「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。」

エペソ4:4-7 - 「からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。しかし、キリストから賜る賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに恵みが与えられている。」

Iペテロ1:2 - 「すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。」

ユダ20-21 - 「しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、もっとも神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛の中に自らを保ち永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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