24.バプテスマと第一ペテロ3:21

第一ペテロ3:21は、「この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだがの汚れを除くことではなく、明かな良心を神に願い求めることである」と言っていますが、これが唯一、「バプテスマがあなたを救う」と言っている聖書の言葉です。しかし、これは救われるために水のバプテスマを受けなければならないと教えているでしょうか? そうではありません。それでは、このことを正しく理解するために私たちはこの文脈を見る必要があります。

『キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれたのである。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。こうして、彼は獄に捕らわれている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。これらの霊というのは、むかしノアの箱船が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱船に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだがの汚れを除くことではなく、明かな良心を神に願い求めることである。キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従えておられるのである。』(Iペテロ3:18-22)

「この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。」という言葉の鍵言葉は「象徴する」という意味のギリシャ語“antitupon”です。これは、“コピー”、“型”、“対応する”、“別のものに類似しているもの”などの意味を持っています。ですから、バプテスマは何かの表現、コピー、何かの型であるということです。そこで質問は、「それは何の型なのか?」、あるいは「バプテスマは何に対応するものなのか?」ということになります。

私たちが文脈を見るなら、興味深い可能性が生じます。バプテスマは何に相当するものでしょう? それは洪水ですか? それとも箱舟ですか?それがノアと彼の家族を救ったものなら、それは何ですか?洪水ですか? それとも箱舟ですか?明らかに、それは箱舟でした。ノアは、信仰によって箱舟を造り、その中に入りました。そして、彼は救われたのです(へブル11:7)。洪水の水は不信仰なものたちを滅ぼしました。また、ペテロは、一貫して、ノアと彼の家族の救いではなく、不信仰なものの滅びの手段として、洪水の水に言及しています(IIペテロ2:5; 3:6)。むしろ、救ったのは箱舟であり、ノアが信仰によって入ったのは箱舟でした。したがって、バプテスマは洪水の水ではなく箱舟をよく表わしており、だからこそ21節の後半で、「からだがの汚れを除くことではなく、明かな良心を神に願い求めることである。」と言われているのです。また、それは、パウロのコロサイ書2:11-12の言葉とも一貫しています。

『あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。』(コロサイ2:11-12)

つまり、パウロはここで、バプテスマを心の割礼を受けることと等しいものとして述べています。言い換えれば、ペテロがIペテロ3:21で明らかにしたいことは、人を救うのは水によるバプテスマではなく、正しい心で神に誓うことであるということです。

ある人々は、この解釈を問題視します。なぜなら、“水と水”というのは類似学のように思えるからです。洪水の水とバプテスマの水。もし洪水の水を、地上から悪を取り除くものとして見るなら、私たちは、“その型として”、バプテスマの水は私たちの心から罪を取り除く、と言うことができるでしょう。この読み方はより自然に感じますが、それには問題があります。

バプテスマの水は私たちを救うものではありません。私たちが信仰によって受けるキリストの犠牲が私たちを救うのです。私たちは、“信仰とバプテスマによる”義ではなく、また“信仰とバプテスマによる”救いでもなく、信仰によってよって義とされる(ローマ5:1)、また、信仰による救い(エペソ2:8)などに関する非常に多くの御言葉を聖書の中に見ます。ですから、明らかに救いは信仰によって受け取るものなのです。ペテロは、バプテスマ自体が私たちを救うのではないことを宣言するために、すぐにそのあとで、「からだがの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。」 とつけ加えています。ですから、水のバプテスマは、その人の中に聖霊の働きが伴わなければなりません。ペテロの説明は、物理的なバプテスマの行為が救いをもたらすのではなく、神に対する心からの誓いのバプテスマが救いをもたらすことを示しています。この信仰による神への誓いは、箱舟を造らせ、その中に入らせ、またそこに留まらせた神に対するノアの信仰と同じです。ノアを救ったのは箱舟であり、洪水の水ではありません。

イスラエルの民にとって、紅海を通る通路でさえバプテスマの型であったように、洪水はノアにとって、一つのバプテスマの型であったということです。

『兄弟たちよ、このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。』
(Iコリント10:1-4)

ノアとイスラエルの民の両方のバプテスマは、移行の型として機能しました。つまり、それは彼らを古い世界から新しい世界へ、古い契約から新しい契約へと移したのです。人を救うのは水ではなく、その水に関連している霊的なものが救うのです。ノアにとって、それは神への信仰でした。モーセにとっても、それは神への信仰でした。

ところが、ある人は、聖霊の働きとバプテスマの行為が同時であり、聖霊が新生をもたらすためにバプテスマを通して働くのだと言うかも知れません。しかし、聖書が救いは信仰によると言っている限り、そうであるはずがないのです。

結論

Iペテロ3:21は、バプテスマが私たちを救うものであるとは教えていません。 むしろ、それは、水が、死に対するキリストの勝利を通して得られた聖霊の力による霊的な浄化を象徴することを示しています。それは体のための水の洗いではなく、魂を救う神に対する人間の心からの誓いなのです。

マルコ16:16で、「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる」と言われているとおりです。

 

 


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