21.バプテスマと使徒行伝2:38

使徒行伝2:38は、バプテスマと、またそれが救われるために必要かどうかに関して、より論議を呼んだ聖書の御言葉の一つです。ある人々は、救われるためにバプテスマを受けなければならないことを言うために、この御言葉を用いまあす。しかし、この御言葉や他の御言葉をよく見ると、それがバプテスマによる新生、バプテスマによる救い、あるいはバプテスマが救われるために必要である、ということを教えていないことに気づきます。

まず第一に、教義は滅多にただ一つの御言葉をもとに作られることはありません。私たちは、神の言葉が教えていることを正確に理解するために、その問題について言われているすべての御言葉を見る必要があります。それでは、簡単に以下の方法でこの御言葉と取り組んでみましょう。

御言葉の構文、文法、および構造の吟味
罪の赦しに関する他の御言葉を調べる
御言葉をその契約的文脈の中で吟味する

使徒行伝2:38の文法と構造

使徒行伝2:38において、本動詞はmetanoesate(心を変える)で、悔い改めを意味するmetanoeoの不定過去(単に過去の事柄を示す時制)の命令形です。これは救いに至る罪人の最初の悔い改めを指します。「バプテスマを受けなさい」と訳されている動詞は、baptizoの間接的な受動態の命令形です。また「罪の赦しを得るために」の「ために(for)」という前置詞はギリシャ語で“eis”と言い、これは「~につく」ということで、対格(直接目的格)として動作の目標や対象を表すものです。つまり、それは「罪の赦しとあなたを同一視するための」という意味です。また、これは、Iコリント10:2にある「モーセにつくバプテスマを受けた」という句の中の前置詞と同じで、両方の文脈がバプテスマと同一視ということについて論じています。Iコリント10:2において、人々はバプテスマを受け、また霊的にモーセの目的とVisionに自分たちを同一視したのです。

したがって、悔い改めは、罪の赦しと個人とを同一視するものとして提示されます。そして悔い改めに続くバプテスマも、他の人々に見える形で、悔い改めと自己を同一視させるものとして提示されます。悔い改めは個人と神に関するものですが、バプテスマは他のものが関わります。ですから、baptistheto(浸される)は、人は自分でバプテスマを授けられず、通常は人々の前で誰かによって授けられるものであるという受動的な意味を持っています。しかしながら、悔い改めは聖霊の働きによって、罪人の心の中で行なわれる行為です。そして、バプテスマは、既に悔い改めた人のための、クリスチャンであることを外に向かって明らかにするものです。イスラエルの民がモーセにつくバプテスマを受けたように(Iコリント10:2)、クリスチャンもまたイエス・キリストにつくバプテスマを受けるのです。つまり、彼らは、公に、自分たちをキリストに同一視させているのです。同様に、ローマ書6:1-5で、バプテスマを死と葬りと復活に関連づけながら、キリストの死と葬りと復活においてキリストと同一視されることが記されています。それゆえに、クリスチャンについて、私たちは罪に対して死んだと言われているのです(ローマ6:2、11; ガラテヤ2:20; コロサイ2:20、3:3; Iペテロ2:24)。

この御言葉は、バプテスマが救いに不可欠であるとは述べていません。そうではなく、バプテスマは、私たちの内になされた神の御業の顕現として、自分たちとキリストを公の場で完全に同一視するために、私たちが受けるものであることを示しています。

救いに関する他の御言葉

義認は、イエス・キリストが罪人に数えられることによって、罪人が律法のもとで神から義と認められるという神の業です(ローマ4:3; 5:1、9; ガラテヤ2:16; 3:11)。この義は、人間のいかなる努力によっても手に入れることの出来ないものです。義認は、永遠の命を受けると同時に起こる出来事です。それは完全に唯一、十字架におけるイエス・キリストの犠牲に基づいており(Iペテロ2:24)、ただ信仰によってのみ受け取ることの出来るものです(ローマ4:5、5:1; エペソ2:8-9)。義認を受け取るのに何の働きも必要としません。さもなければ、それは賜物ではありません(ローマ6:23)。したがって、私たちは信仰によって義とされるのです(ローマ5:1)。

聖書のどこにも、私たちが、恵みとバプテスマによって、あるいは信仰とバプテスマ、または信仰と他のものによって義とされるとは書いてありません。それとは反対に、バプテスマは福音のメッセージから除外されています。パウロはバプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるために来たと言いました。

「わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外いは、あにたがたのうちのだれにも、バプテスマを授けたことがない。それはあなたがたがわたしの名によってバプテスマを受けたのだと、だれにも言われることのないためである。もっとも、ステパナの家の者たちには、バプテスマを授けたことがある。しかし、そのほかには、だれにも授けた覚えがない。いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためである。」(Iコリント1:14-17)

同様に、パウロは、はっきりと福音が人を救うと言っています。

「兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起こしてもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」(Iコリント15:1-4)

パウロは、福音の定義にバプテスマを含めていません。

ですから、私たちはバプテスマが救いに必要かどうかを尋ねなければなりません。しかし、なぜパウロはバプテスマのことを控え目に扱って、救いに必要な記述の中に含ませないようにさえしたのでしょうか。それはバプテスマが救いに必要ではないからです。

バプテスマが救いに必要ではないという他の証拠を使徒行伝10:44-46に見ることができます。ペテロは福音を宣べ伝えていました。人々は救われ、それから彼らはバプテスマを受けました。

「ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。それは、彼らが異言を語って神をさんびしているのを聞いたからである。そこで、ペテロが言い出した、『この人たちが、わたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか』。こう言って、ペテロはその人々に命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。それから、彼らはペテロに願って、なお数日のあいだ滞在してもらった。」(使徒行伝10:44-48)

これらの人々は救われました。 聖霊の賜物が異邦人の上に下り、彼らは異言を語り出しました。Iコリント14:1-5によれば、異言はキリストを信じる者に与えられるものなので、それは重要な出来事でした。また、信じない人は神を賛美しません。また出来ません。なぜなら、真の神への賛美は深い霊的な事柄であり、恵みの外にある者には理解できないものだからです(Iコリント2:14)。したがって、使徒行伝10:44-46の中で異言を語り、神を賛美している人々は、明らかに救われた人々であり、彼らはバプテスマを受ける前に救われています。これは例外ではありません。それは現実のものです。これは、バプテスマが救いに必要でなく、また使徒行伝2:38がその必要性を教えていないことを立証するものです。しかし、もしそうであるなら、なぜバプテスマがここに言及されているのでしょうか?

聖書の契約的文脈

契約とは、二者あるいはそれ以上の間で交わされる協定また同意です。契約には、しばしば、それを示すための目に見えるサインがあります。正餐式におけるパンとぶどう酒はこの良い例です。また割礼はアブラハム契約に通じる契約書のサイン(しるし)であり、最初の儀式でした(創世記17:10)。しかし、この契約のしるしは誰も救いませんでした。

神はアブラハムに言われました。「わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう(創世記17:7)」。神は、後に、すべての成人男子だけでなく、生まれて八日目の男子に至るまで、契約のしるし(サイン)として割礼を施すようにと、アブラハムに命じられました(創世記17:9-13)。もし子供たちに割礼が施されなかったなら、彼らはアブラハム契約の約束のもとにいるとは考えられませんでした。それが、モーセが自分の息子に割礼を施していなかったときに、モーセの妻が息子に割礼を施して、その包皮をモーセの足に投げた理由です(出エジプト4:24-25)。彼女は、神と彼女の息子の間にある契約の重要性を知っていました。しかし、同時に、私たちは、割礼がそれを受けた人に救いを保証しなかったことを理解しなければなりません。それは神の家族(ユダヤ人たち)として生まれた、神の民のためだけに意味された儀式でした。それは契約の約束のためのしるしでした。 それを拒否することは、契約を拒否することでした。 しかし、それを受け入れることは、救いを保証しませんでした。

もう一つの神学論争

バプテスマの本質とそれが誰に管理されればよいかに関し、キリスト教会の中に議論があります。ここでは、幼児洗礼や大人だけの洗礼にかかわらず、バプテスマの適切な目的を納得させるためではなく、バプテスマが契約のしるしであり、救いに不可欠なものではないことの証拠として、以下の情報を提示します。

新約聖書において、割礼は何度も言及されています。 しかし、バプテスマに関して、コロサイ2:11-12にその特筆があります。

「あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」(コロサイ2:11-12)

これらの御言葉の中で、バプテスマと割礼が関連づけられています。その関係の範囲は、まだ議論の中にあります。それにもかかわらず、パウロはまた、ローマ2:29でこう言っています。

「かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神からくるのである。」(ローマ2:29)

ここで解かるように、クリスチャンにとって、割礼は心のものです。そして、そのことのゆえに、私たちクリスチャンは、以前は異邦人であるがゆえに含まれていなかったアブラハム契約の中に今は含まれるものとなったのです。

「またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。」(エペソ2:12)

ガラテヤ3:8で、パウロはアブラハム契約の約束を福音(良い知らせ)と呼んでいます。

「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、『あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう』との良い知らせを、予告したのである。このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。」(ガラテヤ3:8-9)

ですから、パウロはアブラハム契約を福音と呼んでいるのです。そして、このアブラハム契約のしるしが割礼でした。

さて、アブラハム契約がまだ有効なので(私たちは信仰によって義とされています—ガラテヤ3:8)、今日でも、私たちに契約のしるしがあるのでしょうか?答えは「はい」です。実は、バプテスマが、旧約聖書における契約のしるしとしての割礼に取って代わるものなのです。なぜなら、

(1) 主の晩餐の中に新しい契約があります(ルカ22:20)。

(2)  割礼においては血が流されました。しかし、バプテスマにおいては血は流されません。今やキリストの上に律法が成就されたので、契約のしるしは変わったのです。

もしバプテスマが契約のしるしであることが解かれば、それが私たちの心に割礼を施すキリストの真実なる表現であることが見えてきます(ローマ2:29; コロサイ2:11-12)。それは、内における霊的新生、“心の割礼”の目に見える宣言です。これは神の賜物である信仰のあとに続くもので、神の業(ヨハネ6:28)です。一方、バプテスマは神との契約のしるしです。

使徒行伝2:39と『約束』

これで、なぜペテロが使徒行伝2:39で、「この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」と言ったかが解かるでしょう。ペテロは、「この約束」というとき、どんな約束のことを言っているのでしょうか。彼は単なる約束のことを言っているのではなく、特別な「約束」のことを言っていることに注目して下さい。これは非常に重要なことです。

この特別な「約束」という言葉は、新約聖書の中で26回出てきますが、それらは幾つかの異なった話題の中で使われています。

1.   聖霊(ルカ24:49; 使徒行伝2:33; ガラテヤ3:14)
2.   エジプトで子孫を増やすというアブラハムに対する神の約束(使徒行伝7:17; へブル6:13、15、17)
3.   メシヤの約束(使徒行伝13:32、26:6-7; ローマ4:13、14、16; ガラテヤ3:17、19、22; エペソ3:6; IIテモテ1:1)
4.   永遠の贖いの約束(へブル9:15; Iヨハネ2:25)
5.   サラが子供を生む約束(ローマ4:20; ガラテヤ4:23)
6.   イサクを通してこの世が祝福されるという約束(ローマ9:8)
7.   イエスの再臨の約束(IIペテロ3:4)
8.   パウロの敵によってパウロが殺される約束(使徒行伝23:21)

しかし、私たちは聖霊の注ぎと共に始まる使徒行伝2章の文脈に最も興味をそそられます。ペテロはここで説教をし、たくさんの旧約聖書の御言葉を引用します。2:22では、特にペテロは、「イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい」と言って語りかけます。ペテロはユダヤ人たちに語っているのです。この聖霊の注ぎが与えられるという特別な「約束」はユダヤ人に対するものでした。ですから、ペテロは旧約聖書を引用しながら、神の契約の言葉を話しているのです。ペテロは使徒行伝2:17-18の中でヨエル書2:28-32を引用しているので、彼が使徒行伝2:39で「約束」について語るとき、それがどういう意味かを簡単に理解することができます。

『神がこう仰せになる。終わりの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言するであろう。』(使徒行伝2:17-18)

『わたしは、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に流れをそそぎ、わが霊をあなたの子らにそそぎ、わが恵みをあなたの子孫に与えるからである。』(イザヤ44:3)

ペテロは、使徒行伝2:38で、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマをうけなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」と言っています。ペテロは、新しく、より良い方法で聖霊が与えられるという神の約束を明確に語っています。しかし、ここでペテロは、人は水のバプテスマによって救われる、あるいはバプテスマが救いの一つの条件であると言っているのでしょうか。とんでもありません。ペテロは、単に契約的観点から、契約のしるしとしてのバプテスマについて語っているのです。

バプテスマの前に救われた人々についてのペテロの証言を考えて下さい。

『ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。それは、彼らが異言を語って神をさんびしているのを聞いたからである。そこで、ペテロが言い出した、「この人たちが、わたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか」。こう言って、ペテロはその人々に命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。それから、彼らはペテロに願って、なお数日のあいだ滞在してもらった。』(使徒行伝10:44-48)

ペテロが福音を語っていたときに聖霊が人々の上に下ったというところに注目して下さい。45節を見ると、「異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれた」ということが分かります。これらの人々は救われたのです。聖霊の賜物が異邦人たちに注がれ、彼らは異言を語り始めました。これは重要なことです。なぜなら、異言の賜物は信じる者に与えられる賜物だからです(Iコリント14:1-5参照)。また信じない者は神を賛美しません。真の神を賛美をするということは、未信者には別世界の深い霊的な事柄なので、彼らは賛美をすることはできません(Iコリント2:14)。したがって、使徒行伝10:44-48で、異言を語り、神を賛美している人々は明らかに救われている人々であり、彼らはバプテスマを受ける前に救われているのです。これは単なる例外ではありません。これは現実のものです。

結論

使徒行伝2:38は、それが文脈的に契約的言葉と契約概念についてのものなので、悔い改めとバプテスマを非常に密接なものとして結びつけます。この御言葉は、救われるためにはバプテスマを受けなければならない、という声明ではありません。これは、バプテスマが、キリストの死と、葬りと、復活において、キリストと完全に一つとみなされることを示すものです。これは、決して私たちを救うためにキリストがされたことの契約的表現(バプテスマ)ではなく、私たちが信仰によって受けるキリストの犠牲という事実です(ローマ5:1; ガラテヤ3:8)。だからこそ、使徒行伝10:44-48に見られるように、この群れの人々はバプテスマを受ける前に救われているのです。

バプテスマは人を救うものではありません。それは救いの一条件でもありません。それは既に救われている人に対して施すものです。

 


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