20.バプテスマとヨハネ3:5 

イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれても新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデモは言った、「人は年をとってからうまれることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」。イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければからないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである」。(ヨハネ3:3-8)

この聖書箇所において、水に関する5つの基本的な解釈があります。

1. 水は、人間の誕生を意味している。

2. 水は、神の言葉を意味している。

3. 水は、聖霊を意味している。

4. 水は、バプテスマのヨハネの働きを意味している。

5. 水は、救いの要件としてのバプテスマの水を意味している。

第一の解釈は、「新しく生まれる」ということを言われたイエス様の言葉の文脈の中で生まれた解釈です。ニコデモは、母の胎から生まれる経験を念頭に置きながら応えています(4節)。それに対し、イエス様は水と霊のことを言いながら、「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」と言われました(6節)。つまり、最初の誕生が肉体の誕生であり、二度目の誕生が霊の誕生です。言い換えれば、水は子宮の水を意味し、これが最初の誕生です。これは、もう一度生まれるために母の胎の中に入ると言ったニコデモの言葉を理解する助けにはなります。しかし、この観点は一般的に支持されているものではありません。

第二の解釈は、水が神の言葉を意味するというものです。エペソ書5:26は、「キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり」と言っています。ある人々は、神の言葉によって水の洗いがなされると信じています。

第三の解釈は、水が聖霊を意味するというものです。おそらくニコデモは、「わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。わたしはまたわが霊をあなたがたの内に置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行なわせる。」というエゼキエル書36:25-27の御言葉を思い浮かべていたのかも知れません。確かに、イエス様ご自身のこの言葉にも調和します。「祭の終わりの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。」(ヨハネ7:37-39)

第四の解釈は、水は、バプテスマのヨハネによって教えられた悔い改めの水のバプテスマを意味するというものです。マタイ3:1-6は、荒野におけるヨハネの働きを記していますが、そこには、悔い改めに関する教えと、悔い改めに導くバプテスマについて書かれています。文脈的に、ヨハネの福音書1章は、6-8節と19-36節においてバプテスマのヨハネについて言われています。確かに、ここではヨハネと彼の働きについて言われています。もしこれがそうであれば、イエス様は、バプテスマのヨハネによって語られた、悔い改めのバプテスマについて話されていたことでしょう。

第五の解釈は、救われるためにはバプテスマが必要であると信じるInternational Church of Christや、その他の教会で支持されているものです。彼らは、水はバプテスマの水のことであり、それが救いには不可欠であると主張します。

ヨハネ3:5は、バプテスマが救われるために必要だと教えていますか?

上記のように、ヨハネ3:5には、いくつもの異なる解釈があります。しかし、単にヨハネ3:5はバプテスマの必要性を教えてはいないというのでは十分ではありません。何らかの証拠を提供しなければなりません。証拠は神の言葉の中に見出すことができます。神の言葉には決して矛盾がないからです。明らかに、救いは信仰によるものです。たとえばローマ書5:1は、私たちが信仰によって義とされている(正しいと宣言される)と言っています。決して信仰とバプテスマによってとは言われていません。もしバプテスマが救いの条件の一つであるなら、私たちは信仰とバプテスマによって義とされると言う筈です。しかし、聖書はそうは言っていません。もし神の義が信仰によるのであれば、それは信仰によるのです。バプテスマは信仰ではありません。それは儀式としてなされるものです。私たちがどのようにして救われるかを宣言するときに、以下の御言葉を考慮に入れて下さい。

ローマ3:22 - 「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。」

ローマ3:26 - 「それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」

ローマ3:28 - 「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」

ローマ4:5 - 「しかし、働かなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。」

ローマ5:1 - 「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。」

ガラテヤ3:8 - 「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」との良い知らせを、予告したのである。」

ガラテヤ3:24 - 「このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛かりとなったのである。」

エペソ2:8 - 「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」

さらにパウロは、福音は私たちを救うものであり、その福音はイエスの死と、葬りと、復活のことである(Iコリント15:1-4)と言っています。バプテスマは福音の描写の中に含まれていません。これは、なぜ彼が、バプテスマを授けるためではなく、福音を伝えるために来たのであると言ったのかを説明するものです。 「わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あにたがたのうちのだれにも、バプテスマを授けたことがない。それはあなたがたがわたしの名によってバプテスマを受けたのだと、だれにも言われることのないためである。もっとも、ステパナの家の者たちには、バプテスマを授けたことがある。しかし、そのほかには、だれにも授けた覚えがない。いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためである。(Iコリント1:14-17)」 もしバプテスマが救いに必要であるなら、なぜパウロはそれを控えめに扱い、救いに必要なものに関する描写の中から除外したのでしょうか。それは、バプテスマが救いに必要ではないからです。したがって、ヨハネ3:5は聖書の他の箇所と一致・調和される形で解釈されなければなりません。

これを明らかにするもう一つの方法はイラストを用いることです。さて、ある人が、聖霊の導きにより(ヨハネ16:8)、イエスを彼自身の救い主として信じ(ローマ10:9-10; テトス2:13)、救い主キリストを受け入れたとします(ヨハネ1:12)。果たして、この人は救われているでしょうか?もちろん救われています。ところが、イエスを信じて受け入れた彼が、次の日曜日の礼拝でバプテスマを受ける前に交通事故で死んでしまいました。彼は天国に行きますか?それとも地獄に行きますか?もし彼が天国に行くなら、バプテスマは救いに必要なものではありません。しかし、もし彼が地獄に行くなら、キリストに信頼し、キリストを信じる信仰は救われるのに十分ではないことになります。そうすれば、救いが無償の贈り物(ローマ6:23)であり、信仰によって受け取る(エペソ2:8-9)ものであるという聖書の御言葉に反しませんか?確かに反します。バプテスマは救われるために必要なものではないのです。そして、ヨハネ3:5もそれがそうであることを教えるものではないのです。


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