19.バプテスマとマルコ16:16

「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」(マルコ16:16)

この御言葉は、バプテスマが救われるために必要であることを示すのによく用いられます。これは、信じてバプテスマを受ける者は救われる、と言っています。したがって、人々は、バプテスマは救われるための必要な部分であると結論づけます。では本当にこの御言葉はバプテスマが救われるために必要であることを立証しているでしょうか?全くそうではありません。

マルコ16:16は、バプテスマが救いのための要件であるとは言っていません。つまり、こういうことです。私たちは、信じて教会に行っている人は救われる、と言うことができます。それは事実です。しかし、救うのは信仰であり、信仰と教会に行くことではありません。同様に、もし私たちが信じて聖書を読むなら、私たちは救われます。しかし、私たちを救うのは、聖書を読むことによるのではありません。そうではなく、キリストとその十字架の御業を信じる信仰が私たちを救うのです。すでに何度も述べたように、信仰義認を明確に表す御言葉はたくさんあります(例:ローマ5:1; エペソ2:8; ピリピ3:9)。人が出来ることではなく、神がなされたことに対する信仰が救いをもたらすものです。バプテスマは、単に内なる新生の業の公での証しです。だからこそ、この御言葉の最後で、「不信仰の者は罪に定められる。」と言われているのです。マルコ16:16は、バプテスマではなく、信仰の問題に焦点があるのです。

「バプテスマ」のギリシャ語の原語baptizo の意味は、物を水とか液体にどっぷり浸すということです。又、このbaptizo に似た言葉にbapto があります。これは「少しだけ浸す」と言う意味で、この二つのギリシャ語の使い方の違いが紀元前200年に書かれた漬物の作り方の文献に載っています。

それによれば、当時漬物にする野菜は、先ずさっと熱湯に浸し 、直ぐ引き上げてから、酢の中に漬けてしばらく放置したそうです。この熱湯にさっと浸けるのはbapto で、その後しっかり酢に漬けることがbaptizoだということです。つまり、この説明で明らかなように、bapto は一時的・表面的に変わっても中身までは変わらないことを表わし、一方、baptizo の方は一旦しみ込むと永久的に中身まで変質する漬かり方であると言うことがわかります。要するに、変わると言っても、私たちは見せかけだけ変わる(成長したように見せる)クリスチャンであってはならず、身も心も永久的に質的変化を遂げた(中身が霊的に成長した)クリスチャンにならなければならないということです。そして、中身が変わるから、外見も変わってくるのです。バプテスマを受けるという意味もこれに似たところがあります。バプテスマとは、肉の人間から霊の成熟した人間に変わる、あるいはイエス様に似た者にするためのプロセスです。キュウリをぬか漬けにすれば単なる野菜のキュウリではなくなるように、肉の人間を色々な霊の液体に浸して、いわば『霊の漬け物』としてキリストのからだに似た者となっていくのです。この漬け方がバプテスマのヨハネによる漬け方で、マタイ3:11に書いてあります。「わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしより力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火によっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」(マタイ3:11)

本当の救いを得るためには、先ず徹底的に「悔い改める」ことによって人間の古いアク(悪)を取ります。そのために「アクぬき」の方法として水に漬ける(水のバプテスマ)のです。次に、聖霊という液体にどっぷり漬けて「聖霊漬け」にします。これに漬ける時間が長ければ長いほど上質な出来上がりとなります。そして最後は、火に漬けるバプテスマでしめて完成させます。これは一切の不純物を取り去る最終的な仕上げのプロセスです。これは、イエス様が授けられると言われている、聖霊と火によるバプテスマです。その他、聖書ではバプテスマについての色々な漬け方を教えてくれていますが、その主なものを幾つか挙げてみます。

1コリント10:2によれば、「みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた」と書かれていますから、「モーセに結びつけるバプテスマ」があることが分かります。又、ローマ6:3によれば「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。」とありますから、「イエスにあずかるバプテスマ」とは「自分を死に浸す」バプテスマであることが分かります。又、ガラテヤ3:27では、「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。」とあるように、私たちキリスト者の最終目標は、キリストに結ばれ、「キリストを着る」ことにあります。あるいは次の28節にあるように 「キリスト・イエスにあって、一つ」になるバプテスマを受けるのです。

要するに、私たちは基本的に「聖霊漬け」にされつつあるのですが、その目的は、キリストにどっぷり漬けられ、長く浸される間に、私たちの中身がキリストに変えられるためなのです。結論から言えば、マルコ16:16は全くその通りなのです。私たちはイエス・キリストを心から信じるだけではなく、聖霊によって、私たちの中身がキリストに似た者に変えられるまで、「キリスト漬け」にされるという長いプロセスのバプテスマを受けて救いが完成されていくということです。ところで、マルコ16:16は、一般に「宣教の至上命令」( the great commission)と言われるマタイ28:19のマルコ版です。ですからマタイ28章に出てくるバプテスマとマルコ16章のバプテスマは同じ意味です。

そして、マタイ28章でイエス様は、弟子たちに世界に出て行って、彼らを弟子とし、 「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け...」と書いてありますが、「この御名によって」の「よっての」の部分の原語はeis ( 英語でinに当る )です。先程引用した1コリント10:2や、ガラテヤ3:27でも同じeis が使われていますが、英語ではそこはinでなく into, untoと訳されています。ですから、マタイ28章でも厳密に言えば、単に「御名において」と言うより「御名(神のご性質を代表する)につく」「御名に結びつける」「御名と一つにする」という意味なのです。

結論として言えることは、バプテスマとは一回水に浸せばいいという、単なる儀式だけのものではないということです。

 


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