15.信仰義認を示す聖書の言葉

 

義認は、神が罪人を罪のない者と宣言される法的行為です。罪人が今はもう罪がないというのではなく、神によって罪がないと「宣言」されることです。この義の宣言は神の前で義とされているということです。この義認はイエス様が流された血に基づいています。ローマ5:9に、「・・・今すでにキリストの血によって義と認められた・・・」とあるように、イエス様が十字架につけられ、死んで、葬られ、死からよみがえられた(第一コリント15:1-4)ことに基づいています。神は、キリストが十字架に架かられたとき、私たちの罪をキリストに与え、キリストの義を私たちに与えられました。それが第一ペテロ2:24で、「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」と言われていることです。また第二コリント5:21には、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」とあります。私たちは信仰によって義と認められるのであり(ローマ5:1)、律法の行いによるのではないのです(ローマ3:28)。

 

救われるということは、神に対する罪のために、神が義にかなった怒りの裁きから私たちを救って下さったということです。それは、私たちが罪のために裁かれず、永遠の苦しみを宣告されないことを意味します。救われるということは、神の前で義と認められるということです。クリスチャンだけが救われ、義と認められるのです。

 

以下は、救い(義認)が信仰によるものであることを示す御言葉のリストです。

 

1.ヨハネ3:16 「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」

2.ローマ3:22 「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。」

3.ローマ3:24 「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」

4.ローマ3:26 「それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」

5.ローマ3:28-30 「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。 それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。 まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。」

6.ローマ4:3 「なぜなら、聖書はなんと言っているか、『アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた』とある。」

7.ローマ4:5 「しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。 」

8.ローマ4:11 「そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、」

9.ローマ4:16 「このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、」

10.ローマ5:1 「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。」

11.ローマ5:9 「わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。」

12.ローマ9:30 「では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。」

13.ローマ9:33 「『見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない』と書いてあるとおりである。」

14.ローマ10:4 「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。

15.ローマ10:9-10 「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」

16.ローマ11:6 「しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。」

17.ガラテヤ2:16 「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。 」

18.ガラテヤ2:21 「わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。」

19.ガラテヤ3:5-6 「すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。このように、アブラハムは『神を信じた。それによって、彼は義と認められた』のである。」

20.ガラテヤ3:8 「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、『あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう』との良い知らせを、予告したのである。」

21.ガラテヤ3:14 「それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。」

22.ガラテヤ3:22 「しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。」

23.ガラテヤ3:24 「このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。」

24.エペソ1:13 「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。」

25.エペソ2:8 「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」

26.ピリピ3:9 「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。」

27.第一テモテ1:16 「しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。」

 

ヤコブ2:24 信仰だけによるのではない

 

聖書は、キリストとキリストが十字架の上でなされたことを信じる信仰によって、私たちは救われる(義とされる)ことを明確に教えています。この信仰だけで私たちは救われるのです。しかし、私たちはヤコブ書2:24でヤコブが言っている「これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない」という御言葉を無視することはできません。

 

これは矛盾ではありません。必要なことは文脈を見ることです。ヤコブ書2章には26の節がありますが、1-7節は、私たちにえこひいきをしないよう勧めています。8-13節は、律法に関するコメントです。14-26節は、信仰と行ないの関係についてです。

 

ヤコブは、自分には行いはないが信仰があると言う人の例を用いて、「わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか」(ヤコブ2:14)と言っています。言い換えれば、ヤコブは死んだ信仰の問題を扱っています。それは口先だけで行いの伴わない、命のない、空しい信仰です。彼は否定的なことから始めて、空しい信仰がどんなものであるかを示します(15-17節、行いの伴わない言葉)。それから彼は、そのような信仰が悪霊どもの信仰とそれほど変わらないことを示します(19節)。最後に、彼は言葉のあとに行いが伴う生きた信仰の例を挙げます。彼は行いによって信仰を示した人々の模範としてアブラハムとラハブのことを書いています。

 

簡単に言えば、ヤコブは二種類の信仰について考察しています。一つは神の働きにつながるもの、もう一つはそうでないものです。一方は真実であり、もう一方は偽りです。一方は死んでいて、もう一方は生きています。したがって、行いのない信仰は死んだものなのです(ヤコブ2:20)。

 

また、ヤコブが実際、パウロがローマ書4:3で信仰義認の教えを支持するために使っているのと同じ意味の聖句を引用していることに注目して下さい。ヤコブ書2:23には、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し」と記されています。もしヤコブが新約聖書の著者たちと矛盾する信仰と行ないの教義を教えようとしていたなら、アブラハムを例に挙げなかったでしょう。

 

結論

 

義認は信仰によるものです。真の信仰は神の御業であり(ヨハネ6:28-29)、神によって与えられ(ヨハネ1:29)、そして新生と同時に(2コリント5:17)神の意志によって私たちの中でなされる業です(ヨハネ1:13)。この義認と新生の結果として、罪人は罪の生活から良い行いの生活をするようになるのです。しかし、これらの良い行いが神との間における私たちの立場を得るものではなく、またそれを維持するものでもありません。私たちが救われるために必要なことはすべてイエス様が成し遂げて下さいました。私たちが救われるため、また義と認められるために必要なことは、十字架の上でイエス様を通して神がして下さったことを信じることです。それが聖書が信仰によって義と認められると言っている意味です(ローマ5:1)。義認と新生に対する真の信仰が良い行いをもたらすのです。

 


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