ラスベガスの紹介

ラスベガスの歴史

Las Vegas boulevard
Tony Shi Las Vegas boulevard ラスベガス・ブルバード (写真クリックで拡大)

1700年代の初期の頃、スパニッシュ・トレールに沿ってロサンゼルスに向かうスペインの商人達は、当時、未開拓であったラスベガス・バレーを通り抜けるルートを探します。スペイン人たちは、その谷を抜けるルートを、「死の旅路」と呼びました。白人で最初にこの谷を発見したのはラファエル・リヴェラという若い偵察隊員でした。一面に広がる野生の草と豊富な水源を湛えるバレーの発見のおかげで、その旅程を3~4日間縮めることができました。このバレーは、スペイン語で『草原』を意味する、「ラスベガス」と呼ばれるようになりました。

1844年、有名な探険家キャプテン・ジョン・フリーモントがラスベガスについて書いたことによって、スペイン人の探険家たちや宣教師たち、またインディアンたち以外の人々にも知れ渡るようになりました。

1855年、ブリガム・ヤングは、30人のモルモン教の宣教師にラスベガスに砦を建設するよう命じます。砦はその地域における最初の非インディアンの定住地となり、今でもワシントン通りとラスベガス大通りの角に残っています。彼らの主要な目的は、パイウーテ族にインディアンの農業技術を教えることでした。しかし、パイウーテ族はその教えを拒否し、時おり砦を襲撃し、1857年、その砦は捨てられてしまいます。

1800年代後半、鉱物(貴金属を含む)の発見により、鉱山産業が始まります。また鉄道の完成は、南カリフォルニアをソルトレークシティーと結び、ラスベガスを鉄道の町として確立します。水の供給が可能であることから、ラスベガスは理想的な燃料補給と休憩のための中継地点になります。それから25年間、鉄道はラスベガスの主要産業となります。

1885年のネバダ州土地法により、1エーカー当たり1.25ドルで土地の区画が提示され、農民達の移住により、それから20年間、農業が有力な産業となります。

1905年5月15日、ラスベガスはリンカーン郡のもとで市に制定され、スチュワート通り、ガルセス通り、メイン通り、5番街に囲まれる110エーカーの土地が競売にかけられます。

1909年、ラスベガス市は、新しく制定されたクラーク郡の郡庁所在地になりますが、現在まで、ラスベガス市はリンカーン郡の一部として統治されています。当時、ラスベガス市の人口は800人、クラーク郡は3,321人でした。

1919年3月19日、ギャンブルがネバダ州で合法化され、一ヵ月後、ラスベガス市は六ヶ所にギャンブルを許可します。また、ギャンブルの合法化に加えて、離婚法の成立により、居住者の離婚が簡単になり、6週間の居住後であればすぐに離婚ができるようになりました。

1930年、ラスベガス市の人口は5,165人になります。

1931年から始まったフーバーダムの建設は人口増加のブームを生み出し、ラスベガス・バレーの経済を潤わせる建設労働者の流入をもたらします。フーバーダムは1935年に完成します。

1940年、ラスベガス市の人口は8,422人となり、第二次世界大戦の勃発と共に、この地に防衛産業をもたらします。孤立した場所は、豊富な水と安価なエネルギーと共に、バレーを理想的な軍事産業の拠点にしました。ネリス空軍基地は北東に位置し、原料の納入業者はヘンダーソン市の南東の郊外に位置しています。そして、これらの防御産業は相当数のバレー居住者を雇用し続けていきます。

1945年、第二次世界大戦に続き、贅沢に飾り付けされたリゾートホテルとカジノは、最高のエンターテインメントを提供し、観光と娯楽産業は、バレーで最も大きな雇用主として取って代わります。

1955年、ゲーム委員会が作られます。

1956年、ラスベガス市は1平方マイルの土地を付加します。それは市としての制定以来、初めてのことでした。

1957年、トップレス ショーガール達が“Minsky’s Follies”でデビュー。

1960年、ラスベガス市は25平方マイルの土地に64,405人の人口を抱えるようになります。市の面積は、ネバダ州全体の0.02%にも満たない広さですが、人口はなんと州全体の22%以上になります。同時に、クラーク郡の人口は127,016人でした。この年、ラスベガス市は初のボクシング試合を主催します。

1960年代の間に、ハワード・ヒューズによって導かれる現象がラスベガスで生じます。彼は、1965年にTWA航空を売却した5億ドルの税金対策として、カジノ&ホテル、テレビ局、近郊の鉱山など、あらゆるものを買収し、一年でラスベガス市にある四分の一ホテル&カジノを手に入れます。彼は、その後も電話一本で買収を続け、州政府が独占禁止法を施行するまで、4年間に渡って買収を続けます。そして遂に、彼は経済誌の長者番付世界一にランクされます。

1969年、彼はまた、「ゲーム委員会」に働きかけ、カジノライセンス法を改正し、大手企業のラスベガスへの参入を促します。

1970-1980年、大手企業の進出によって、次々にホテル&カジノが建設され、その収益性がカジノ産業への参入を非常に魅力のあるものにします。そして、ギャンブルは「ゲーム」になり、合法的なビジネスへの移行を始めることになります。

1980年、ラスベガスの経済は堅調なまま推移し、人口も164,674人に増加します。また一方、クラーク郡の人口も463,087人になります。

1980年代の中頃から、前例のない成長が始まります。毎年7%に及ぶ年間の平均人口増加率は、1985-1995年の10年間で、186,380人から368,360人と、ほぼ二倍の増加をもたらします。それは、10年間で、リノ市よりも大きな都市を造ることに等しいことです。同時に、クラーク郡の人口も、562,280人から1,036,180人に増加します。

1990年代、堅調な人口増加は、毎年平均4%のホテルの部屋数の増加と9.18%の雇用の増加をもたらしていきます。

2000年、米国の統計によると、ラスベガスの人口は478,434人で、面積は113平方マイルと報告されています。そこには、500以上の教会とシナゴーグ、799エーカーの公園、7つのテレビ局と12のラジオ局(AM4局、FM8局)があります。ラスベガスは、20世紀に起こされたアメリカで最も大きな首都圏都市です。

ラスベガス市は、2005年5月15日に100周年を祝いました。イベントは、現在のラスベガス市の基盤として知られる110エーカーのダウンタウン地区が1905年5月15日に競売にかけられたことを祝いました。祝賀は2004年12月31日に始まり、2005年の終わりまで続きました。


ラスベガス日本人教会

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