聖書は、律法の行いによるのではなく、信仰によって(ローマ3:28)、また信仰だけによるのではなく行いによって(ヤコブ2:24)義と認められると述べています。 これは矛盾でしょうか? いいえ、両方の聖句の文脈を見ればそうでないことが分かります。 答えは簡単です。 ローマ書では、私たちは神の前では信仰によって義とされ、ヤコブ書では、私たちは人々の前では行いによって義とされていることが判ると言われているのです(ヤコブ2:18)。
ローマ書では、こう言われています。
- 「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです…」(ローマ3:20)
- 「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ3:28)
- 「聖書は何と言っていますか。『それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた』とあります。」(ローマ4:3)
- 「ですから、信仰によって義と認められた私たちは…」(ローマ5:1)
- 「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(ローマ4:5)
ヤコブ書では、こう言われています。
- 「人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」(ヤコブ2:24)
- 「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)
私たちは信仰によって義とされますか、それとも行いによって義とされますか? どちらですか?
聖書の記述は矛盾しているか?
私たちが信仰によって義とされるというのは、キリスト教の基本教義です。義認(義と認められる)とは、神が罪人を義人と宣言されることを意味します。神は、罪人の罪をイエスの義で清算することによって、それをなさいます。これを信仰によってなされます。つまり、罪人がイエスの犠牲を信じ、義のために自分ではなくイエスを信頼するとき、神はその人を義とされるのです。ローマ書4:3で、「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた」と言われている通りです。しかし、聖書が、私たちが信仰によって義とされると教え、同時に、ヤコブが言うように、私たちは行いによって義とされると教えているなら、それは矛盾でしょうか? 答えはノーです。
文脈がすべて
ひとつの聖句を取り上げ、文脈を考慮せずにそれを読み、その聖句だけから教義を生み出そうとするのは誤りです。では、人は行いよって義とされると言っているヤコブ書2:24の文脈を見てみましょう。ヤコブ書2章には26の節があります。1-7節は私たちに「えこひいきしてはならない」と教えています。8-13節は律法についてのコメントです。14-26節は、信仰と行ないの関係についてです。
(ヤコブ書2:14-26)
14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、
16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
17 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
18 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」
19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。
20 ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。
22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、
23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
24 人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
25 同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。
26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。
14節で、ヤコブが信仰があると言っている人の例を用いてこの部分を始めていることに注目してください。彼はそれから直ぐに本物の信仰と偽りの信仰がどんなものか例を挙げて示しています。彼はまず否定的なものから始めて、むなしい信仰がどんなものかを示します(15-17節)。それから、人々の前と、お互いの前で義とされることについて語っています。
ヤコブ書2章は、神ではなく、人々の前における義認についてである
「さらに、こう言う人もあるでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。』」(ヤコブ2:18)
18節は、ヤコブが自分たちの行いによってお互いの信仰を示すことについて語っているのは明らかです。これは信仰と行ないによる救いではありません。それは、信仰と行ないが人々の前で一緒に現わされるという証明です。
それから彼は19節で、悪霊の信仰とそれほど変わらないタイプの信仰の例を挙げています。最後に、ヤコブは、行いによって自分たちの信仰を表したタイプの人として、アブラハムとラハブを示すことによって生きた信仰の例を示しています。
ヤコブは二種類の信仰を考察しています。ひとつは神の働きにつながるもの、もうひとつはそうでないものです。ひとつは本物であり、もうひとつは偽りです。ひとつは死んだものであり、もうひとつは生きているものです。したがって、「行いのない信仰はむなしい」のです(ヤコブ2:20)。
ですから、信仰と行ないに関する部分の途中の19節で、彼は次のように述べています。「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」
悪霊も神を信じているので、ヤコブはこのように言います。つまり、彼らは信仰を持っていますが、彼らが持っている信仰は役に立たないのです。それは適切な行ないにはつながらないのです。彼らの信仰は、神の存在を頭で認めているだけだからです。
アセンティアとフィドゥシア
ここで価値ある重要な二つの単語を紹介しましょう。ascentiaとfiduciaです。アセンティアは心の同意であり、何かの存在を心で認めることです。悪魔は神の存在を認め、それを信じています。それに対して、フィドゥシアは認識以上のものです。それには、何かへの信頼、つまり何かへの完全な信仰と受容が含まれます。 これは、クリスチャンがキリストに対して持っている信仰のようなものです。 したがって、クリスチャンはフィドゥシアを持っています。つまり、クリスチャンはキリストに真の信仰と信頼を持っており、単にキリストがかつて地上に住んでいた人だと認めているだけではありません。別の言い方をすれば、世界中の多くの人々がキリストが生きていたことを信じていました。それはアセンティアです。 しかし、彼らは、キリストが彼らの救い主であり、彼らの罪の赦しをもたらすために信じなければならない方であるとは見ていません。アセンティアは行動にはつながりません。フィドゥシアは行動につながります。アセンティアは心の問題ではありません。フィドゥシアはそうです。
ヤコブは何と言っているか?
ヤコブは、あなたがクリスチャンであると「言う」なら、それにふさわしい行いが現わされるべきであり、そうでなければ、あなたの信仰は偽りだと言っているのです。この考えは、ヨハネ第一の手紙2:4にこのように表わされています。「神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。」
どうやら、彼らの中には自称クリスチャンと言いながら、クリスチャンとしての実をまったく現わしていなかった人々がいたようです。そのような信仰は人を義とするでしょうか? 人に変化をもたらさず、人と神の前で何の良い行いも示さない死んだ「信仰」は、義をもたらす信仰であり得るでしょうか? 答えは「ノー」です。ただ口先でイエス様を信じていると言うだけでは不十分です。あなたは実際にイエス様を信じ、イエス様に信頼しなければなりません。あなたが実際にそうするなら、あなたは変えられた敬虔な生き方を通して本物の信仰を示すでしょう。そうでなければ、あなたの信仰告白は、悪魔のそれとなんら変わりありません。イエス様は本当に生きて働いておられるからです。
パウロがローマ書4:3で信仰義認の教えを支持するために用いているのと同じ御言葉をヤコブが引用していることに注意してください。 ヤコブ2:23は、「そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです」と述べています。もしヤコブが信仰と行ないに関する教義について、新約聖書の他の記者と矛盾することを教えようとしていたなら、彼はアブラハムを例に挙げなかったでしょう。
したがって、私たちは信仰によって義とされるのです。つまり、ローマ書によって十分に実証されているように、私たちは信仰によって神の目に義とされるのです。しかし、その信仰が真実であるならば、救いにふさわしい行いをもたらす筈なのです。結局のところ、神はエペソ書2:8-10でこのように言われなかったでしょうか?
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。:行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」
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