使徒ヨハネによればイエスは誰だったでしょう。単なる人間か、それとも肉体を持った天使か、あるいは受肉した神か。この答えは非常に重要です。なぜなら、それが真理との関係において、あなたがどこに立つかを決定するからです。信仰の素晴らしさは、その信仰の対象である方の素晴らしさと同じで、あなたの信仰の対象が真の救い主であるということは決定的に重要なことです。では、誰が真の救い主なのでしょう。それは神でしょうか。それとも天使でしょうか。あるいは単なる偉大な人物でしょうか。
ヨハネの福音書は、他の三福音書とは少し異なります。実際のところ、マタイ、マルコ、ルカの福音書は共通する記述が多いことから共観福音書と呼ばれていますが、ヨハネは、イエス・キリストを他の三人とは異なる光を当てて紹介しています。
またヨハネは、‘ヨハネの手紙’と‘ヨハネの黙示録’を書きましたが、それぞれにイエスが特別な意味で紹介されています。では、ヨハネがどのようにイエスを見ているかを見てみます。
ヨハネのイエスに関する概念は、まず彼の福音書の序論(ヨハネ1:1-14)と、最初の手紙の序論(1ヨハネ1:1-10)に記されています。また、ヨハネがこのような創世記の初めの章と類似したことを書いているのは決して単なる偶然ではありません。イエスに関するヨハネの見解は、明らかに、イエスを創造の神とみなすのに十分なものです。では見てみましょう。
ヨハネの福音書
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。(ヨハネ1:1-2)
ヨハネ第一の手紙
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について(第一ヨハネ1:1)
創世記
はじめに・・・(創世記1:1a)
ヨハネの福音書
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。(ヨハネ1:3)
創世記
神は天と地とを創造された。(創世記1:1b)
ヨハネの福音書
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。 (ヨハネ1:4-5)
ヨハネ第一の手紙
・・・・・すなわち、いのちの言について(第一ヨハネ1:1b)
わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。(第一ヨハネ1:5)
しかも、新しい戒めを、あなたがたに書きおくるのである。そして、それは、彼にとってもあなたがたにとっても、真理なのである。なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。(第一ヨハネ2:8)
創世記
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。(創世記1:3-4)
ヨハネの福音書
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。(ヨハネ1:14)
ヨハネ第一の手紙
このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである。(第一ヨハネ1:2)
創世記
彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。(創世記3:8)
このように、ヨハネの福音書、ヨハネ第一の手紙、創世記の間に類似性があることは明白です。用語が非常に類似しています。テーマに関してはほとんど同じです。明らかに、ヨハネはイエスを卓越した重要な存在であると考え、神と同一視される多くの比喩的表現を使っています。そして彼は、第一章以降においても、言(ことば)と神のテーマを比較しながら、イエスの神性を示し続けていきます。
ヨハネの福音書において
ヨハネは、まずヨハネ1:1、14において、イエスは初めに神と共におられ、神であり、神の言が肉体となった方であると言っています。ヨハネはまたイエスをこのように紹介しています。
1. 永遠の命を与える(ヨハネ10:27-28)
2. 命のパン(ヨハネ6:35、51) 神によって天から与えられるマナへの明らかな暗示
3. 道・真理・命(ヨハネ14:6)
4. 世の光(ヨハネ8:12)
5. 神から出た者(ヨハネ8:42)
6. ‘わたしはある’と言われる(ヨハネ8:58) *出エジプト3:14参照
7. 神と一つである(ヨハネ10:30) このためにユダヤ人はイエスを殺そうとした(レビ24:16)
8. 世が造られる前に神の栄光を持っておられた(ヨハネ17:5) 神は他の者に栄光を与えたりはされない(イザヤ42:8)
9. 神を自分の父と呼んで、自分を神と等しい立場のものとされた(ヨハネ5:18)
10.あなたが神に与えるものと同じ栄誉を受け取られる(ヨハネ5:23)
11.すべてを知る(ヨハネ21:17) 神にだけできること
12.ヨハネ18:5で、ゲッセマネの園においてイエスがご自分を捕らえに来た者たちに、「わたしが、それである」と言われた時、彼らは後ろに引き下がって地に倒れた。(「わたしが、それである」=エゴー・エイミ・・・本来、旧約聖書では神の自己啓示の呼称であり(出エジプト記3:14-15)、新約聖書ではイエスがその神的臨在を現されるときの定式である)
ヨハネは、彼の福音書の中で、イエスを単なる人間または天使として考えていたのでしょうか。単なる人間か天使が、永遠の命を与えることができるでしょうか。単なる人間か天使が、道であり、真理であり、命であり、世の光でしょうか。被造物が神と一つだと言えるでしょうか。被造物が神の栄光を受けたり、すべてのものを知ることができるでしょうか。そんなことは絶対にあり得ないことです。
ヨハネの黙示録において
ヨハネは、引き続き、神に関する旧約聖書のテーマを黙示録の中でイエスに適用しています。
黙示録1:17-18
わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。
イザヤ44:6
主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、万軍の主はこう言われる、「わたしは初めであり、わたしは終りである。わたしのほかに神はない。
黙示録22:12-13
「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。
イザヤ40:10
見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にある。
黙示録17:14
彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」。
第一テモテ6:14-15
わたしたちの主イエス・キリストの出現まで、その戒めを汚すことがなく、また、それを非難のないように守りなさい。時がくれば、祝福に満ちた、ただひとりの力あるかた、もろもろの王の王、もろもろの主の主が、キリストを出現させて下さるであろう。
黙示録7:17
御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。
詩篇23:1-2
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
神のテーマは黙示録の中に流れています。イエスも神も両者とも、初めであり、終わりである、と呼ばれています。両者とも報いを与えるために来られます。両者とも、主の主、王の王です。両者とも、民の牧者です。ヨハネの福音書の三つの重要な聖句において、ヨハネは、神であるご自分のことを語るイエスを記録しています。
ヨハネ8:24
だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」。
ヨハネ8:28
そこでイエスは言われた、「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。
ヨハネ8:58
イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。出エジプト3:14参照
ヨハネがイエスを人間や天使以上のものと考えていたことは明らかです。イエスは神が人となられた方です。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・・・・そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネ1:1、14)
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