22.バプテスマとローマ書6:3-5

ローマ書6:3-5は、バプテスマが救いの不可欠な要素であると主張するための証拠としてよく用いられるものです。この御言葉は、私たちが受けるバプテスマとキリストの死、葬り、そして復活とを比較するものです。表面的には、この御言葉から、バプテスマが救いの一部であると言えなくもありません。

『それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にもひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。』(ローマ6:3-5)

さて、この聖書箇所は、バプテスマが救いに必要であることを私たちに教えているのでしょうか?いいえ、決してそうではありません。まず第一に、私たちは、他のすべての聖書箇所から、救いが信仰によるものであることを知っています。決して信仰と他の何かが必要なのではありません(ローマ3:28-30)。次に、私たちは、他の聖書箇所から、バプテスマが信仰に続くものであることを見ることができます。使徒行伝16:30-33を見ると、獄吏が具体的に、救われるためには何をしなければならないかと尋ねています。そして、あとで家族と一緒にバプテスマを受けています。

『それから、ふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。それから、彼とその家族一同とに、神の言を語って聞かせた。彼は真夜中にもかかわらず、ふたりを引き取って、その打ち傷を洗ってやった。そして、その場で自分も家族も、ひとり残らずバプテスマを受け、』(使徒行伝16:30-33)

もしバプテスマが救いの一部であったなら、パウロは、「信じてバプテスマを受けなさい。そうすれば救われます。」と言うべきでした。しかし、そうは言いませんでした。また、使徒行伝10:44-46を考えてみてください。

『ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。それは、彼らが異言を語って神をさんびしているのを聞いたからである。そこで、ペテロが言い出した、』(使徒行伝10:44-46)

彼らは救われました。聖霊の賜物が異邦人たちに注がれ、彼らは異言を語り始めたことからそれが分かります。なぜなら、異言の賜物は信じる者にだけ与えられる賜物だからです。また信じない者は神を賛美しません。真の神を賛美をするということは、未信者には別世界の深い霊的な事柄なので、彼らは賛美をすることはできません。したがって、ここで異言を語り、神を賛美している人々は明らかに救われている人々であり、彼らはバプテスマを受ける前に救われているのです。こでが、バプテスマが救われるために必要ではない証拠です。

ローマ書6:3-5は何を言っているのか?

『それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にもひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。』(ローマ6:3-5)

「~にあずかるバプテスマ」という言葉は新約聖書に5回、4つの御言葉に出てきます。

1.ローマ6:3 - 「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。」

2.Iコリント10:2 - 「みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。」

3.Iコリント12:13 - 「なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。」

4.ガラテヤ3:27 - 「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである」

「キリストにあずかるバプテスマ」、「彼の死にあずかるバプテスマ」、「モーセにつくバプテスマ」、「一つのからだとなるバプテスマ」、「キリストに合うバプテスマ」とありますが、バプテスマを受けるということは、そのあずかろうとしているものに、公的に同一視されるということです。焦点はバプテスマ自体ではなく、バプテスマが表すものにあります。ローマ書6:3-5の場合、 キリストにあずかるバプテスマを受けるということは、公的にキリストの死と葬りと復活と同じさまになることであり、それが救いをもたらす福音なのです(Iコリント15:1-4)。そこで、バプテスマは、その人がキリストの犠牲を信じるという宣言の声明書であるということです。

浸礼によるバプテスマは、クリスチャンの立場を明らかにしているキリストの業の完全な象徴です。キリストが死んで、新しい命によみがえったように、クリスチャンも、キリストにあって死に(ローマ6:11; コロサイ3:3)、新しい命に生きる者とされるのです。信仰によるこの新生は、内的な業です。バプテスマは、キリストと同一視される外的な業です。

信仰による新生は、内側の業です。それに対し、バプテスマはキリストと同一視される外側の業です。そのために、聖書の中にあるバプテスマに関する言及は、水のバプテスマよりも、もっと私たちとキリストとの融合と同一視に関するものが多いのです。

・         バプテスマは弟子として見なされる(マタイ28:18-19)
・         バプテスマは新生と比べられる(ヨハネ3:5)
・         バプテスマはイエスの死と復活に比べられる(ローマ6:3-5)
・         バプテスマはイスラエルの出エジプトと紅海渡渉に比べられる(Iコリント10:2)
・         バプテスマはノアが箱舟に乗って洪水から逃れることに比べられる(Iペテロ3:20-21)

上記のそれぞれの例は、バプテスマが何かと同一視されています。人々がヨハネの悔い改めのバプテスマを受けたとき、それは彼らに本当の悔い改めをさせたバプテスマではありませんでした。悔い改めは、心の中に起こるものであり、それは神の業です(IIテモテ2:25)。ヨハネのバプテスマに参加することは、バプテスマを受けた人たちが、ヨハネのメッセージまたは悔い改めを受け入れたと公的に宣言することでした。ですから、それは悔い改めのバプテスマと呼ばれました。しかし、それは悔い改めをもたらしたバプテスマではありません。むしろ、バプテスマは悔い改めの結果です。人は、まず最初に悔い改める決断を、それから決断の宣言として、バプテスマを受けるようにならなければなりませんでした。同様に、クリスチャンは、信仰によってキリストを受け入れ、キリストの犠牲に委ねるために、まず最初に悔い改める決断をし、それからキリストの業と同一視する公的な宣言をするのです。

バプテスマが表すものは、キリストの死と葬りと復活と同一視されることです。イエス様の流された血は、私たちを私たちの罪から清めるものです(へブル9:22)。水で洗い清められるものではありません。それは罪のための支払いであるキリストの死です。イエス様の葬りは、事実、イエス様が死なれたという証拠です。イエス様の復活は、父なる神がキリストの犠牲を受け入れられたことと、死に勝利したこととの証拠です。クリスチャンがバプテスマを受けるということは、その人がキリストの業を信じることの公的な宣言であり、キリストに自分を重ね、キリストがなされた業を信頼することです。それゆえに、ローマ書6:11で、「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」と言われているのです。なぜでしょう? それは、「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしたちのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。(ガラテヤ2:20)」からなのです。私たちのためにイエス様が代価を払われたのは、十字架の上であり、イエス様のバプテスマや私たちのバプテスマによるのではありません。私たちが罪に対して死んだと言うことができるように、キリストと共に十字架につけられたと言うことを許されるのは、キリスに同一視され、キリストの中に数えられているからです。私たちはバプテスマによって罪に死んでいるのではありません。そうではなく、イエス様がその犠牲をもってして下さったことを信じる信仰によって罪に死んでいるのです。

結論

ローマ書6:3-5は、キリストの業と、それに対する私たちの公的な宣言について語っています。ローマの多神教の時代、ユダヤ教の厳しい律法、また異文化の神々の中で、バプテスマを受けるということは、キリストをよみがえられた主として大胆に宣言することでした。それは、水によって救われるのではなく、キリストとキリストの業を信じる信仰に救われることでした。

 


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